表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載五周年】にいづましょうぎ──将棋盤の中心で愛を叫ぶ──  作者: すだチ
第九章・園瀬修司の切愛──それでも君を愛してる──
108/203

(11)成すべきこと

 殺された彼の方が、今度は置き去りになった。敗北のショックから立ち直れず、連敗に次ぐ連敗を喫してしまう。

 一方の妻は、鬼神の如き力で段位者をも圧倒した。棋力の差を、気迫が凌駕していた。


「彼女は強かったが、そこに立ち塞がった一人の人物が居た。園瀬竜司──君の父親だ。老いてなお無敗。園瀬流矢倉は健在だった。

 二人の対局は、正に死闘と形容するに相応しいものだった。壮絶ながらも美しく、私の心を打った。互いに血を吐き合い、それでも彼らは決して拳を止めない。

 正直嫉妬したよ、彼らの強さに」


 彼には互角に見えた勝負だったが、地力の差は大きかったようだ。徐々に形勢は親父の方に傾いていった。

 彼女は悩み、もがき苦しみ。最後には盤から顔を上げ、彼へと視線を向けた。

 それは、すがるような表情だった。

 だが、彼は彼女から目を逸らした。居たたまれなかった。とても観ていられなかった。


「私は、彼女を──最愛の人を、見捨てたんだ」


 一切感情の込められていないその一言に、嘘偽りの無い真実を感じた。

 その時、彼女はどんな想いを抱いたのだろうか。


 怒り、憎しみ、悲しみ、絶望。

 それら全てが混じり合い、渦を巻き、脳内を蹂躪し。

 やがて、彼女は一つの境地へと至ることになった。


 ──要らない。

 貴方なんか、もう要らない。


 彼女の双眸から、感情の色が消えた。空のように透き通っていく。盤上の全てを見渡すための眼を、彼女は自ら会得した。

 夫への想いを、完全に断ち切ることによって。


 明鏡止水・極、発動。


 一局に全てを懸ける。己の魂をも。凄まじき執念が、親父の矢倉を切り崩していった。


「彼女は、園瀬竜司を後一歩の所まで追い詰めた。

 だが、終局寸前で力尽き、倒れてしまった。持てる棋力を、限界を超えて消耗してしまっていたのだ。

 救急車を呼んだ時には、彼女は──」


 彼女は最初から、命懸けで大会に臨んでいたのかもしれない。

 持っていた鞄からは、一枚の紙が見つかった。

 緑色の字で『離婚届』と印字されたその書類には、彼女の名前が記されていた。

 その時になってようやく、彼は彼女の真意を理解した。自分がいかに彼女を傷付け、追い詰めていたのかを。

 彼は震える手で、その紙にサインをした。彼女の、最後の願いを叶えるために。


「……だから、もう。妻は、居ない」


 闇の中に、ぼう、と一人の青年の姿が浮かび上がる。向かい合い、ぼんやりと二人漂う。俺を見つめる彼の瞳はまだ濁っていないが、光を放ってもいない。

 ミスター穴熊になる以前の彼。彼女の命を懸けた『復讐』を受け、憔悴しきった様子の彼は、何を思い、俺の前に現れたのか。

 その首筋に、蛇が巻き付く。


 ──違う、蛇じゃない。

 女の細腕が、彼の背後から首に回されているんだ。

 白い腕だけが、闇から生えている。女の顔は見えない。


「君は、俺とは違う。

 俺のようには、なるな」


 じんわりと首を絞められながらも、気付く様子も無く、彼は言葉を紡ぐ。

 鳥肌が立った。彼女の復讐は、まだ終わっていないというのか。


 俺には、彼とは違うと言い切れる自信が無い。俺もまた、将棋に夢中になり、道場に入り浸るようになった男だ。妻を──香織を、家に置き去りにして。

 拳を握り締める。俺は香織になんて酷いことをして来たのだろうと、今更ながら思い知った。

 寂しい思いをさせた挙句。俺への愛情につけ込み、将棋を指す道を選ばせた。人生を変えさせた。

 ごめん、香織。俺は君に、謝らなくちゃいけなかったな。俺の趣味に付き合わせて悪かった。言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってくれ。


『私より将棋の方が大事なんでしょ?』

『もし私が将棋やめて欲しいって言ったら、どうする?』


 いつぞやの彼女の言葉を思い出した。俺が回答できなかった質問を。

 あの時は冗談交じりの口調だったが、彼女の目は笑っていなかった。

 本当なら、即答するべきだったのだ。香織の方が大事だと、君のためならやめられると、言ってやるべきだったのに。

 ……俺には、どうしても言えなかった。


 穴熊さん。俺にはあんたを責める資格は無い。

 俺はあんたと同じだよ。夫として、失格だ。


「彼女を失った私は、それまで以上に将棋の勉強に没頭するようになった。妻を奪った将棋を憎みながらも、指したいという欲求には勝てなかった。

 愚かと笑うがいい。私は将棋が持つ魔性の魅力に、抗うことができなかったのだ。

 彼女が居ない今の方が、遠慮なく将棋に時間を費やせる。そんなことさえ思うようになった」


 彼は愛を失い、代わりに棋力を得た。

 濁った瞳は、何を考えているか、相手に悟らせない。

 その身には漆黒の魔炎が宿り、彼に近づく者全てを焼き尽くした。彼の最も得意とする、穴熊という囲いそのものを体現するかのように。

 やがて彼は、ミスター穴熊と呼ばれるようになった。最強の称号は、孤独の証だった。


「我は君の父、園瀬竜司との再戦を望んだ。だが、願いが叶うことは無かった。まさか彼が、病に倒れていたとはな。さしもの園瀬流も、肺癌には勝てなかったか」


 勝ち逃げされたと、彼は寂しげな微笑みを浮かべた。

 将棋サロンの立ち上げを思い立ったのは、そんな時だった。孤高の男は、席主になった。


 彼は、人の温もりに飢えていたのかもしれない。あるいは、彼のような孤独な将棋指し達を救いたかったのか。

 彼が経営するサロン棋縁は、老若男女問わず、あらゆる棋力の人間を受け入れる、懐の広い場所になった。

 今ならわかる。永遠や照民、そしてショウが何に惹かれ、穴熊さんの下に集ったのか。棋力じゃない。

 彼らは皆、社会からはみ出した存在だった。行き場の無かった彼らは、サロン棋縁に来て、初めて認められたのだ。居ても良いんだよ、生きていて良いんだよ、と。

 孤独の辛さを知っている穴熊さんだからこそ。彼らの気持ちに共感し、彼らを温かく迎え入れることができたのだ。一緒に指そう、将棋を楽しもう、と。


「今日ここに集まってくれた三名のためにも、我はサロンを存続させたい。修司君、君に勝ち、決勝戦への階段を上ろう。サロン棋縁の名を世に広め、多くの客を得るために」


 濁った瞳に、わずかな光がともる。

 彼は最愛の妻を失った代わりに、かけがえのない仲間達を得た。

 俺達は似ているが、違うと感じた。


「ぐ……うっ……!」


 彼はうめき声を上げる。

 首筋に回された腕に、力が込められていた。女の繊細な指が、彼の首に食い込んでいく。まだ足りない。もっと苦しめと。

 なんということだ。

 彼は未だに、過去を精算できていない。安息の場所を得、仲間を得た今でもなお。

 愛に、囚われ続けている。


 荒い息を吐き出し、彼は視線を落とした。愛を失い、愛を否定する彼は、苦しみから逃れることができない。足掻あがけば足掻く程に、愛は彼を痛めつける。生き地獄だ。


 そんな彼を目の当たりにしても、俺にはどうすることもできない。俺には彼を救う資格がない。俺だって、彼と同じ業を背負っているのだから。


「理解したか、修司君? 我の罪、愛を捨てきれぬ故の業の深さを。君もまた、我と同じ道を歩もうとしているのだよ」


 俺の首筋にも、冷たい手の感触がある。気づかぬふりをしていたが、もう無視はできない。

 じわりと、首を絞められる。最初は軽く触れる程度だったものが、少しずつ、力を加えられていく。


 ──愛に、殺される……?


 痛みは無い。ただ、じわじわと息苦しさを感じるようになって来た。

 真綿で首を絞められるとは、正にこのことか。徐々に、命が奪われていく。時間をかけてゆっくりと。少しでも苦しみが長く続くように。


 ……ごめんな、香織。

 君が味わった辛さは、こんなもんじゃない、よな。


 確かに理解した。彼の苦しみ。

 同時に理解した。俺が成すべきことを。


 首を絞める手を掴み、力任せに引き剥がす。ぶよぶよと柔らかい、ひんやりとしたそれは、手に見せかけただけの偽物だ。恐らく身体も無いのだろう。何の感情も感じられない、ただの作り物だ。

 断じて、香織ではない。愛などではない。ならばもう、怖くない。


「馬鹿な。我の過去を見てなお、同調しないだと?」

「俺は、あんたとは違う」


 驚きの声を上げる穴熊さんに、俺は拳を突き付ける。


「言っただろう? 俺には香織がついている」

「まやかしだ。彼女は君を利用して決勝戦に──」

「俺は香織を信じる。もう惑わされない」


 過去の彼は俺に警告した。俺のようにはなるな、と。

 一方、現在の彼は俺を取り込もうとしている。真逆だ。

 どちらを信じるかと問われれば、俺は過去の彼を支持したい。孤独の闇に沈む以前の彼を。

 現在の彼を倒し、愛の呪縛から解放する。それが俺の成すべきことだと理解した。


「だが無駄だ。既に勝負は決している。何をしようと、無駄な足掻きだ」

「俺は勝つ。まだ未来は確定していない」

「愚か者め……!」


 俺は彼とは違う。自信は無くても、そう思い込む。香織のために。俺は、彼のようにはならないと誓う。

 俺は確かに、かつて香織に酷いことをした。将棋にかまけて、彼女との時間を大切にして来なかった。だが、それに気づくことができた俺は、きっと未来を変えられる。

 穴熊さん。あんたのおかげだ。過去のあんたが、俺に教えてくれた。

 今度は、俺があんたを救う番だ。


 彼を救う資格が無いと、諦めている場合ではなかった。むしろ、逆なのだ。

 似た過去から出発し、同じ業を背負った者同士だからこそ。真に理解し合い、救済することができる。

 俺が彼を観たように。彼もまた、俺の過去を観たはずだ。だからこそ、俺の言葉に動揺している。愚か者だと、吐き捨てながらも。


「君も棋譜を観ただろう? あれが未来だ。あれが全てだ。運命は覆らない!」

「確かに過去は変えられない。だが、現在いまは変えられる。そして、現在は未来へと繋がっている」

「そう上手くいくものか……!」

「できるさ。俺一人の力では無理でも。香織と、あんたの力を借りられればな」

「──っ……!?」


 俺の言葉に、穴熊さんはびくりと背中を震わせた。

 そうだ。棋譜ミライの創造は、対局者同士の協力があって、初めて成り立つのだ。

 最後まで付き合ってもらう。途中で投げ出すなよ?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ