(11)成すべきこと
殺された彼の方が、今度は置き去りになった。敗北のショックから立ち直れず、連敗に次ぐ連敗を喫してしまう。
一方の妻は、鬼神の如き力で段位者をも圧倒した。棋力の差を、気迫が凌駕していた。
「彼女は強かったが、そこに立ち塞がった一人の人物が居た。園瀬竜司──君の父親だ。老いてなお無敗。園瀬流矢倉は健在だった。
二人の対局は、正に死闘と形容するに相応しいものだった。壮絶ながらも美しく、私の心を打った。互いに血を吐き合い、それでも彼らは決して拳を止めない。
正直嫉妬したよ、彼らの強さに」
彼には互角に見えた勝負だったが、地力の差は大きかったようだ。徐々に形勢は親父の方に傾いていった。
彼女は悩み、もがき苦しみ。最後には盤から顔を上げ、彼へと視線を向けた。
それは、すがるような表情だった。
だが、彼は彼女から目を逸らした。居たたまれなかった。とても観ていられなかった。
「私は、彼女を──最愛の人を、見捨てたんだ」
一切感情の込められていないその一言に、嘘偽りの無い真実を感じた。
その時、彼女はどんな想いを抱いたのだろうか。
怒り、憎しみ、悲しみ、絶望。
それら全てが混じり合い、渦を巻き、脳内を蹂躪し。
やがて、彼女は一つの境地へと至ることになった。
──要らない。
貴方なんか、もう要らない。
彼女の双眸から、感情の色が消えた。空のように透き通っていく。盤上の全てを見渡すための眼を、彼女は自ら会得した。
夫への想いを、完全に断ち切ることによって。
明鏡止水・極、発動。
一局に全てを懸ける。己の魂をも。凄まじき執念が、親父の矢倉を切り崩していった。
「彼女は、園瀬竜司を後一歩の所まで追い詰めた。
だが、終局寸前で力尽き、倒れてしまった。持てる棋力を、限界を超えて消耗してしまっていたのだ。
救急車を呼んだ時には、彼女は──」
彼女は最初から、命懸けで大会に臨んでいたのかもしれない。
持っていた鞄からは、一枚の紙が見つかった。
緑色の字で『離婚届』と印字されたその書類には、彼女の名前が記されていた。
その時になってようやく、彼は彼女の真意を理解した。自分がいかに彼女を傷付け、追い詰めていたのかを。
彼は震える手で、その紙にサインをした。彼女の、最後の願いを叶えるために。
「……だから、もう。妻は、居ない」
闇の中に、ぼう、と一人の青年の姿が浮かび上がる。向かい合い、ぼんやりと二人漂う。俺を見つめる彼の瞳はまだ濁っていないが、光を放ってもいない。
ミスター穴熊になる以前の彼。彼女の命を懸けた『復讐』を受け、憔悴しきった様子の彼は、何を思い、俺の前に現れたのか。
その首筋に、蛇が巻き付く。
──違う、蛇じゃない。
女の細腕が、彼の背後から首に回されているんだ。
白い腕だけが、闇から生えている。女の顔は見えない。
「君は、俺とは違う。
俺のようには、なるな」
じんわりと首を絞められながらも、気付く様子も無く、彼は言葉を紡ぐ。
鳥肌が立った。彼女の復讐は、まだ終わっていないというのか。
俺には、彼とは違うと言い切れる自信が無い。俺もまた、将棋に夢中になり、道場に入り浸るようになった男だ。妻を──香織を、家に置き去りにして。
拳を握り締める。俺は香織になんて酷いことをして来たのだろうと、今更ながら思い知った。
寂しい思いをさせた挙句。俺への愛情につけ込み、将棋を指す道を選ばせた。人生を変えさせた。
ごめん、香織。俺は君に、謝らなくちゃいけなかったな。俺の趣味に付き合わせて悪かった。言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってくれ。
『私より将棋の方が大事なんでしょ?』
『もし私が将棋やめて欲しいって言ったら、どうする?』
いつぞやの彼女の言葉を思い出した。俺が回答できなかった質問を。
あの時は冗談交じりの口調だったが、彼女の目は笑っていなかった。
本当なら、即答するべきだったのだ。香織の方が大事だと、君のためならやめられると、言ってやるべきだったのに。
……俺には、どうしても言えなかった。
穴熊さん。俺にはあんたを責める資格は無い。
俺はあんたと同じだよ。夫として、失格だ。
「彼女を失った私は、それまで以上に将棋の勉強に没頭するようになった。妻を奪った将棋を憎みながらも、指したいという欲求には勝てなかった。
愚かと笑うがいい。私は将棋が持つ魔性の魅力に、抗うことができなかったのだ。
彼女が居ない今の方が、遠慮なく将棋に時間を費やせる。そんなことさえ思うようになった」
彼は愛を失い、代わりに棋力を得た。
濁った瞳は、何を考えているか、相手に悟らせない。
その身には漆黒の魔炎が宿り、彼に近づく者全てを焼き尽くした。彼の最も得意とする、穴熊という囲いそのものを体現するかのように。
やがて彼は、ミスター穴熊と呼ばれるようになった。最強の称号は、孤独の証だった。
「我は君の父、園瀬竜司との再戦を望んだ。だが、願いが叶うことは無かった。まさか彼が、病に倒れていたとはな。さしもの園瀬流も、肺癌には勝てなかったか」
勝ち逃げされたと、彼は寂しげな微笑みを浮かべた。
将棋サロンの立ち上げを思い立ったのは、そんな時だった。孤高の男は、席主になった。
彼は、人の温もりに飢えていたのかもしれない。あるいは、彼のような孤独な将棋指し達を救いたかったのか。
彼が経営するサロン棋縁は、老若男女問わず、あらゆる棋力の人間を受け入れる、懐の広い場所になった。
今ならわかる。永遠や照民、そしてショウが何に惹かれ、穴熊さんの下に集ったのか。棋力じゃない。
彼らは皆、社会からはみ出した存在だった。行き場の無かった彼らは、サロン棋縁に来て、初めて認められたのだ。居ても良いんだよ、生きていて良いんだよ、と。
孤独の辛さを知っている穴熊さんだからこそ。彼らの気持ちに共感し、彼らを温かく迎え入れることができたのだ。一緒に指そう、将棋を楽しもう、と。
「今日ここに集まってくれた三名のためにも、我はサロンを存続させたい。修司君、君に勝ち、決勝戦への階段を上ろう。サロン棋縁の名を世に広め、多くの客を得るために」
濁った瞳に、わずかな光が灯る。
彼は最愛の妻を失った代わりに、かけがえのない仲間達を得た。
俺達は似ているが、違うと感じた。
「ぐ……うっ……!」
彼はうめき声を上げる。
首筋に回された腕に、力が込められていた。女の繊細な指が、彼の首に食い込んでいく。まだ足りない。もっと苦しめと。
なんということだ。
彼は未だに、過去を精算できていない。安息の場所を得、仲間を得た今でもなお。
愛に、囚われ続けている。
荒い息を吐き出し、彼は視線を落とした。愛を失い、愛を否定する彼は、苦しみから逃れることができない。足掻けば足掻く程に、愛は彼を痛めつける。生き地獄だ。
そんな彼を目の当たりにしても、俺にはどうすることもできない。俺には彼を救う資格がない。俺だって、彼と同じ業を背負っているのだから。
「理解したか、修司君? 我の罪、愛を捨てきれぬ故の業の深さを。君もまた、我と同じ道を歩もうとしているのだよ」
俺の首筋にも、冷たい手の感触がある。気づかぬふりをしていたが、もう無視はできない。
じわりと、首を絞められる。最初は軽く触れる程度だったものが、少しずつ、力を加えられていく。
──愛に、殺される……?
痛みは無い。ただ、じわじわと息苦しさを感じるようになって来た。
真綿で首を絞められるとは、正にこのことか。徐々に、命が奪われていく。時間をかけてゆっくりと。少しでも苦しみが長く続くように。
……ごめんな、香織。
君が味わった辛さは、こんなもんじゃない、よな。
確かに理解した。彼の苦しみ。
同時に理解した。俺が成すべきことを。
首を絞める手を掴み、力任せに引き剥がす。ぶよぶよと柔らかい、ひんやりとしたそれは、手に見せかけただけの偽物だ。恐らく身体も無いのだろう。何の感情も感じられない、ただの作り物だ。
断じて、香織ではない。愛などではない。ならばもう、怖くない。
「馬鹿な。我の過去を見てなお、同調しないだと?」
「俺は、あんたとは違う」
驚きの声を上げる穴熊さんに、俺は拳を突き付ける。
「言っただろう? 俺には香織がついている」
「まやかしだ。彼女は君を利用して決勝戦に──」
「俺は香織を信じる。もう惑わされない」
過去の彼は俺に警告した。俺のようにはなるな、と。
一方、現在の彼は俺を取り込もうとしている。真逆だ。
どちらを信じるかと問われれば、俺は過去の彼を支持したい。孤独の闇に沈む以前の彼を。
現在の彼を倒し、愛の呪縛から解放する。それが俺の成すべきことだと理解した。
「だが無駄だ。既に勝負は決している。何をしようと、無駄な足掻きだ」
「俺は勝つ。まだ未来は確定していない」
「愚か者め……!」
俺は彼とは違う。自信は無くても、そう思い込む。香織のために。俺は、彼のようにはならないと誓う。
俺は確かに、かつて香織に酷いことをした。将棋にかまけて、彼女との時間を大切にして来なかった。だが、それに気づくことができた俺は、きっと未来を変えられる。
穴熊さん。あんたのおかげだ。過去のあんたが、俺に教えてくれた。
今度は、俺があんたを救う番だ。
彼を救う資格が無いと、諦めている場合ではなかった。むしろ、逆なのだ。
似た過去から出発し、同じ業を背負った者同士だからこそ。真に理解し合い、救済することができる。
俺が彼を観たように。彼もまた、俺の過去を観たはずだ。だからこそ、俺の言葉に動揺している。愚か者だと、吐き捨てながらも。
「君も棋譜を観ただろう? あれが未来だ。あれが全てだ。運命は覆らない!」
「確かに過去は変えられない。だが、現在は変えられる。そして、現在は未来へと繋がっている」
「そう上手くいくものか……!」
「できるさ。俺一人の力では無理でも。香織と、あんたの力を借りられればな」
「──っ……!?」
俺の言葉に、穴熊さんはびくりと背中を震わせた。
そうだ。棋譜の創造は、対局者同士の協力があって、初めて成り立つのだ。
最後まで付き合ってもらう。途中で投げ出すなよ?




