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【連載五周年】にいづましょうぎ──将棋盤の中心で愛を叫ぶ──  作者: すだチ
第九章・園瀬修司の切愛──それでも君を愛してる──
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(9)もう居ない

「──参る」


 先に穴熊さんが仕掛けて来る。

 いきなりの84桂打。持ち駒を惜しみなく投入して来た。

 銀立ち矢倉要の銀を、直接狙う一手。読み筋ではあるものの、実際に指されるとやはり痛い。

 守りを解くしかない。


 気持ちを切り替えよう。守勢で居ては負ける。銀立ち矢倉の頭の銀は飾りではないんだ。85銀とかわした手を、玉頭攻めに利用しよう。


 穴熊さんは48に居た馬を、47に退く。歩切れを解消しつつ自陣の守りにも利かせる、味の良い手だ。

 しかしその代償として、手番が俺に回って来た。チャンスだ。

 お膳立ては整った。今こそ、端攻めを敢行する。

 94歩を突き、同歩とさせた所で。

 間髪入れず、98香を打ち込んだ。


「ロケットか……!」


 驚きの声を上げる穴熊さん。読み筋ではあっても、今このタイミングで攻めて来るとは思っていなかったのかもしれない。

 縦に二枚香車が並んだ状態を、ロケットという。

 その破壊力は推して知るべし。普段出番の少ない香車が、最も輝く瞬間だ。

 もう一枚あれば三段ロケットを構築する所だが、あいにくと残り二枚は穴熊さんが持っている。

 とはいえ、二枚だけでも十分だ。85の銀と合わせて、相手陣を貫通させてみせる。

 さあ、どうする穴熊さん?

 攻めるか、受けるか。


「どうやら、道筋は定まったようだな」

「色々考えてみたが、結局はこれしか無いと思った。シンプルに端から突破する。それが、あんたの玉への一番の近道だ」

「ならばやってみるがいい。当然、読み筋だがな」


 端には手を付けず、馬を69に潜り込ませて来る穴熊さん。いざとなれば馬を切り、金を得るつもりか。

 下手に駒を渡せば、詰まされるかもしれない。

 だが、それを恐れて端攻めはできない。今は自分の指し手を信じるしか無い。

 読み筋だろうが何だろうが。受け切れるものなら、やってみろ。


 93歩打から仕掛ける。同銀に、94香と走る。

 銀がかわせば92香成の即詰み。当然の同銀に、更に同香と走る。


 さながら、猪突猛進。

 一度決めたら、とことんまっすぐ突き進む。決して曲げない。

 まるで香織のようだと思って。真剣勝負の最中だというのに、思わず笑みを零した。

 そういえば、彼女の名前にも香車と同じ『香』の字が付いていたな。名は体を表すというが、正に。


 ──行こう、香織。

 一緒に、穴熊さんに勝とう。


 同香。ついに、玉頭の香車が動いた。

 良し。これで穴熊囲いは半壊した。これなら──。

 反射的に同銀と指しかけた手を、止める。

 駄目だ。今銀が動けば、76香と打ち込まれる手を受けきれなくなる。

 すぐには取らず、代わりに95歩を打つ。同香なら角で取り返す。77に配置していた角が、ここに至ってようやく役に立った。


「……そういえば。君の妻、園瀬香織の容態はどうかね?」


 その時、ふと。

 思い出したかのように、穴熊さんが今更尋ねて来た。

 さては、香車を見て思い出したか?

 単に安否を心配しているのか、それとも他に意図があるのか。彼の濁った瞳からは、判別がつかない。


「大丈夫だ」


 それだけを答える。

 彼の考えがわからない以上、迂闊うかつな返答はしない方が良いと判断した。


「そうか。あまり無理をさせるなよ」


 俺の返事に頷きを返し、彼はそんなことを言って来た。対局中にもかかわらず、やけに穏やかな口調だった。


 返す言葉が見つからない。

 実際には、香織には無理をさせ過ぎてしまった。彼女は棋力を使い果たした上に、魂まで傷付き、生命の危機に瀕していたのだ。

 結果的には何とか持ち直したものの、未だ意識を取り戻すことはできずにいる。

 無理をさせるつもりは微塵も無かったが、彼女をそこまで追い込んだのは俺だ。俺の応援が、かえって重圧になってしまった。


「かつて、我にも妻が居た。君と同じように」


 ──76に、香車が打ち込まれる。


「だが。彼女はもう、居ない」

「それは、どういう……?」


 思わず、訊き返していた。指し手も忘れて。76香打は相当痛い手だが、それどころではなくなってしまった。

 穴熊さんは、寂しげな微笑を浮かべて答える。俺と同じだ、と。


「近しいものを感じてはいた。だが君達の仲睦まじい様子を見て、我とは違うのだと思っていたよ」


 思っていた、ということは。

 今は同じだと、思っているのだろうか。


「永遠との一戦を観て確信したよ。君の妻は、最後の最後には君ではなく将棋を選ぶ。一局に命を捧げ、そして──」

「……黙れ!」


 咄嗟に遮る。それ以上は聞きたくなかった。

 同じじゃない。

 香織は、あんたが思っているような女じゃない。


「愛など、棋力を高めるには不要なものだ。いずれ気づく時が来るだろう。君も、君の妻も」

「香織を、侮辱するな!」


 叫びと共に、一手を放つ。76香には構わず、94歩と取り込んだ。

 俺の方が速い。倒す。攻め潰す。

 撤回してもらうぞ、今の言葉。あんたに勝ち、間違っていると証明してみせる……!


「侮辱するなど、とんでもない。我はただ、事実を述べているだけだ」


 77香成の王手が来る。角を取られた。

 だが、構うものか。端さえ突破できれば、俺の勝ちだ。

 強く同玉と取る。


「君達の愛は本物だ──現時点では、な。修司君、君の思い描いた理想の未来像は、あくまで君が望んだものに過ぎないのだよ」


 何故そんなことが言える?

 何故香織が望んでいないとわかる?

 あんたとは、今日初めて会ったばかりだというのに。

 どうしてそこまで、踏み込んだ発言ができるんだ?


「あの時の眼だよ、修司君」


 自らの玉の上に歩を打った後に。

 自身の漆黒の瞳を指差し、穴熊さんはそう告げて来た。

 ……眼、だと?


「永遠との死闘を経て、君の妻が辿り着いた境地がある。

 どこまでも澄み切った蒼い空のように──あるいは、果てしなく広がる宇宙空間のように。透明な彼女の眼は盤上の全てを見通し、棋譜を通じて対局相手の人生をも理解する。

 あれこそが、明鏡止水の一つの究極形。『きわみ』と呼ばれる状態だ」


 明鏡止水・極。

 全知により対局に勝つだけでなく、対局相手に完全同調することにより、真に分かり合うことができるという。

 正に、香織が目指して来た将棋そのものだ。慈愛の将棋と大森さんは表現していたが、まさか正式な名称があったとは。

 だがその状態は危険を伴うと、穴熊さんは続ける。


「完全同調は、他者の負の感情をも己が内に取り込んでしまう。結果、深層意識下で直接心を傷付けられるのだ。本来知るはずの無かったことまで知ってしまうのは、必ずしも善いことではない。

 また、『極』発動中は、常時棋力を消耗し続ける。一手も指さずに力尽きる可能さえあるため、使い所は考えた方が良いだろう」

「なるほどな。だが穴熊さん。何であんたが、そんなことを知っているんだ?」


 俺の質問に対し、彼はふう、とため息を一つついた。

 視線を上げ、遠くを見つめる。


「──前にも一度、見たことがある。明鏡止水・極の発動をな」

「まさか、それって」

「彼女は、愛よりも将棋を選んだ。そして、彼女は」


 彼女。穴熊さんにとって特別だった女性。彼の妻がどんな人だったのか、俺は知らない。

 だが不思議と、香織に似た容姿を頭に思い浮かべていた。


「園瀬修司。我は、君の未来だ」


 穴熊さんはそう告げて、俺の方へと向き直る。

 濁った双眸には、もう威圧感を抱かない。

 代わりに抱いたのは、憐憫れんびんの情だった。


 好きな女性に先立たれて、それで愛を失ってしまったのか? それならば同情できる。俺だって香織にもし何かあったら、冷静では居られないと思う。

 だが。俺の未来は、俺が決める。あんたと一緒にするな。


 香車を手に取る。

 行こう、香織。

 未来に向かって、二人でまっすぐ、突き進んで行こう。

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