2-①の解説
<注意書き>
※この解説の回は、本文中に出て来る用語や、人名・地名などの説明、及び史実についての簡単な考察(素人レベルですが)と、どこからが物語りとしての脚色なのか等をなるべく明らかにするため、書き足したものです。細かい設定などについてご興味のある方には、より楽しんでいただければと思います。
とはいえ、本文だけでも問題無く読み進めていただけるように書いているつもりですので、この解説の回を飛ばしていただいても、なんら問題ないと思います。(カレーライスにおける福神漬けのようなものです)
<幕の二:①「春の演劇祭り」の解説>
<登場人物リスト>
主役-ミルティアデス(小早川隆景)『三代目』 62才
後妻-ヘゲシピュレ(問田大方) 37才
長女-エルピニケ(容光院) 19才
次男-キモン(小早川秀包) 17才
幼なじみ-エウティッポス(白井景俊)『腰巾着』 17才
青年a-レオボテス(毛利秀就)『ボロ』 17才
青年b-ヘルモリュコス(魁傑) 17才
青年c-マグネス(路阿弥)『カス』 17才
音楽の先生
劇作家-プリュニコス(観阿弥)
俳優
合唱隊(キモンも含む)
劇場の観衆
総理大臣-テミストクレス(高杉晋作)
若手の市民-クサンティッポス(桂小五郎)
毛利アルクメオン家の人々
『歩兵長』
『騎兵長』
<運動場>
古代ギリシャの市は、もともと外敵に対抗するために、人々が共同して事に当たるという契約を結んだ自衛組織のことであり、その構成員たる市民の最も重要な役割の一つが防衛への参加でした。そのため、もしもつまらない理由で軍役を拒否するような市民がいれば、市民権の剥奪や民会への出席禁止などといった厳罰が処せられるのが普通でした。また、軍役に従って戦場に赴いたとしても、そこで満足な働きが出来なかったり、自分の持ち場を放棄するような卑怯な振る舞いをした市民も、重く罰せられました。
後の世になると市民が軍役を嫌がったり、傭兵を雇って戦争を他人に委ねるような体たらくに陥りますが、この劇の頃のギリシャ人は、市民全員が先頭にたって軍役を務めるのを当然のことだと考えていました。そのため、市民たる者、戦場で活躍できるように、常に体を鍛え、武器の扱いに習熟することが推奨されました。市にはたいがいそのための運動場(体育施設)が整備され、そこで市民たちが毎日のように汗を流していました。アテナイ市でも、町の中と郊外にいくつかの運動場が用意されており、市民ならば誰でも利用できました。
古代ギリシャ人の慣習では、たいてい六十才までは軍役をつとめる決まりになっていたため、市民は六十才にいたるまではこうした鍛錬を運動場で続けていたでしょうし、熱心な者ならば六十才を超えてからも運動場に頻繁に通っていたかもしれません。もちろん、若い頃からたまにしか通わない熱心でない者も居たでしょうし、また、日々の生活で手一杯の貧しい市民などもしょっちゅう通うことは出来なかったでしょう。しかし、中流以上の市民はおおむね運動場に通うのを日課にしていたのであり、古代ギリシャ人が思いの外長命であったり、また年をとってからでも意気盛んに活動している例が多いのは、きっとこの健康的な生活を当然のことのように老いるまで続けていたからでしょう。
例えば、悲劇の三大巨匠と呼ばれるソポクレスは、紀元前496年に生まれ、紀元前406年に亡くなったというので、90才まで生きたことになりますが、彼は若い頃から延々と悲劇の傑作を作り続け、それは死ぬ直前の最晩年に至るまで変わりませんでした。哲学者たちも70才ぐらいなら当たり前で、三大哲学者の一人と呼ばれるプラトンは87才、クセノパネスやゴルギアスなどは100才ぐらいまで生きたのではないかとされています。普通、学者や科学者といえば青白くてやせ細っているような印象がありますが、古代ギリシャに限っては、その類いの分野の人々であっても日に焼けて筋骨隆々の良い体を年老いても維持しているような印象です。そのため、ただ長寿というだけでなく、年老いてなお盛んというべき人々だったように思えます。
実際、古代ギリシャ人も、自分たちは固くて引き締まった体をしているのに対して、アジア人たちは豊かさのせいか高価な服を脱がせばぷよぷよのだらしない体をしているとの感想を残したりしています。例えば、有名な医者のヒッポクラテスは、その原因を変化の少ない温和な風土と帝国支配による従属平和が影響していると考察しています。
『アジアの住民には気概がなく、勇敢さが欠けているという点についてだが、アジア人のほうがヨーロッパ人よりも戦闘的でなく、性格が温和であることの主要な原因は、その季節にある。すなわち、寒暑いずれにせよ季節に大きく変化がなく、どの季節もだいたい平均していることによる。・・・このような理由でアジアの人種は柔弱なのだとわたしは思うのであるが、さらにこれに加えて、彼らの慣習が別にその理由として考えられる。すなわちアジアの大部分は王の支配下に置かれているというのがそれであって、いやしくも人間は自分が自分の支配者でなく、また独立の存在でもなく、専制君主の隷属下にあるところでは、いかに武を磨くではなくて、いかにして有能な戦士と見なされないかということこそが彼らにとって重要視されるのである。』(伝ヒッポクラテス著『空気、水、場所について』(北嶋美雪訳)より)
<音楽の先生>
古代ギリシャ人にとって音楽は、運動と同じく当然身につけるべきものとされていました。音楽は最高の娯楽であるとともに、揃った行動や協調性を鍛えれるという意味で軍事面にも有益であるとして、古代ギリシャ人の教養で最も重視された科目の一つだったからです。そのため特に上流階級の市民は少年の頃から音楽の先生について学ぶことが広く行なわれていたようです。音楽の先生は、音楽家、詩人、演奏家などとして有名な人、あるいは無名でも巧みな人が家庭教師として、あるいは塾のように授業料を取って教えていたようです。地元出身の先生だけでなく、他所から来た在留外人や家内奴隷が教師という例もありました。そして評判の良い者は、祭りの合唱や振り付けの指導などを任されることもあったでしょう。
ところで、プルタルコス著『対比英雄伝』によると、キモンは『音楽その他の学科を学んだことなし』などと記述されていますが、さすがにアテナイ市でも有数の名家の御曹司が全く無いというのは言い過ぎのように思えますので、この劇ではレオボテスたちと同じ先生に学んでいるという設定にしました。
なお、レオボテスたち三人がキモンに嫉妬して先生を探しに行くという話しは、江戸時代の音曲噺『稽古屋』のネタを一部参考にさせてもらっています。
<春祭りの劇の競演>
アテナイ人は、年がら年中しょっちゅう祭りを催していたといわれますが、その中でも春の祭りは最も盛大なものの一つであり、『酒の神』とも呼ばれるディオニュソスを讃える祭りは、悲劇の競演を主な奉納物とするという珍しいもので、これぞアテナイ名物といった催し物でした。
その記念すべき第一回目は紀元前534年というので、この劇の頃からおよそ40年ほど前のことです。始めたのは、当時の独裁者ペイシストラトスであったとされ、初の優勝者はテスピスという者でした。当初は民会などにも使われるアゴラ(集広場)に仮設の観覧席を用意して催されていたらしいのですが、紀元前499年頃にアクロポリスの丘の東南側の崖に、その斜面を利用して観客席にした専用の野外劇場が設けられ、以後はそこで催されるようになったというので、この年(紀元前492年)にもそこでやっていたはずです。
この野外劇場でどのような内容の劇が上演されていたかというと、初期の悲劇の台本が一つも残されていないため、残念ながら詳細は不明なのですが、アリストテレス著『詩論』などによると、最初の頃はもっと合唱隊や合唱歌の掛け合いが主体であったが、徐々に役者の役割が大きくなり、台詞や対話の割合が多くなっていった、すなわち我々がイメージするところの演劇のような形に、数十年かけて次第に整っていったようです。
このディオニュソスの祭りにおける悲劇の競演は、その半年ぐらい前に三人の劇作家が選び出され、市民の中からは合唱隊の隊員も選び出され、練習を重ねて本番当日に備えました。三人の劇作家には本番の一日づつが宛てがわれ、その一日に三本の悲劇と、一本のサテュロス劇(山羊男に扮装した陽気な踊り劇)を続けて披露し、祭りの最終日にどの劇作家が良かったかを審査員によって決めました。この半年に及ぶ練習や、舞台で使う仮面や衣装などの費用は莫大であったため、これを支える世話役の負担は大きく、そのため優勝した劇作家とともに、それに貢献したこの世話役にも大きな栄誉が与えられたといいます。
ちなみに悲劇の上演時間はだいたい二時間ぐらい、サテュロス劇はだいたい一時間ぐらいであったかと予想されているので、一日にこの四本の劇を全て見続けるのはなかなか疲れたでしょうし、しかもそれを三日も通い通せばくたくたになったであろうと思われますが、劇は大層人気であったらしいので、劇好きの中にはきっとそのような猛者も居たのでしょう。
また、重たく沈む内容の悲劇を三本も続けて観たら、精神的にかなり応えそうですが、四本目のサテュロス劇は陽気で単純で喜楽な踊り劇だったらしいので、そこで気分を一新してその日を終われたようです。(この辺は日本の能と狂言の関係に似ていて興味深いです。すなわち日本で初めて『劇』として形成された能も、『幽玄』と表現されるほど重苦しい内容のものが多いですが、それとバランスをとるためか、もっと軽くて日常的な内容を演じる狂言がほぼ同時に発生し、能と狂言を織り交ぜて上演するということが行われていたからです。古代ギリシャと日本は良く似ているとしばしば言われますが、この劇の発生時における展開の仕方も、その有力な事例の一つであるように思えます。)
この祭りは、アテナイ市の暦で言うところの第九番目の月に毎年催されたのですが、その月は現在の太陽暦で言うところの三月か四月頃に相当するため、ちょうど日本で言えば桜の咲く季節であり、まさにこれから何かが始まるという期待感が横溢するような、暑くも寒くもないちょうど良い朗らかな陽気を味わわせてくれる、そんな春の訪れをみんなで喜ぶ祭りであったといえましょう。
<劇作家プリュニコスと『ミレトスの陥落』>
この劇に出て来る劇作家・プリュニコスは実在の人物であり、紀元前511年に初めて優勝したのちも活躍を続け、優れた悲劇を上演して、何度も優勝したといいます。彼は自分の劇に女性役(ただし演じる役者は男性のみで、女性の仮面を使用したという)を初めて登場させたと伝わるなど、悲劇の発展と興隆に大いに貢献したようです。そして紀元前492年春に『ミレトスの陥落』という問題作を発表しました。(上演は紀元前493年であったという説がよく見られますが、ミレトス市が陥落したのが紀元前494年の秋とされており、紀元前493年の春に上演ではその間が半年にも満たないため、制度上の問題(半年前に演目が決定される)からしておそらくその翌年だったと思われるので、ここでは陥落から一年半後の紀元前492年の春に上演されたという設定にしています。もちろん特例などで紀元前493年の春に上演できたという可能性もあるとは思います。)これはヘロドトス著『歴史』にあるエピソードですが、この作品があまりにも観客たちを泣かせたので、罰金1000ドラクマと、同演目の再演禁止の処罰を課せられてしまったといいます。
この事件は、言論の自由や表現の自由をなるべく尊重しようと考えていたはずのアテナイ人の印象を損ねるもののように思えますが、いくつかの特殊な事情が重なった結果なのかもしれません。というのも、この『ミレトスの陥落』が上演されたのが本当に紀元前492年なのであれば、それはミレトス市が本当に陥落した年の一年半後にあたるわけで、まだあまりに生々しすぎる題材であったこと。そして、このミレトス市及びイオニア地方の反乱は、アテナイ市にとって特に親しい同胞たちの出来事であり、その陥落や滅亡というのは対岸の火事というほど他人事として見過ごせなかったかもしれないということ。しかも、この反乱には、アテナイ市自身が援軍を送って救ってやろうと熱くなったにも関わらず初戦で惨敗するとさっさと手を引き、同胞を見捨ててしまったという苦い過去でもあったこと。つまり、『ミレトスの陥落』はこれらの辛い出来事をアテナイ人たちに強く思い出させてしまう劇だったとすれば、何も目出たい春の祭りでそんな嫌な思いをさせるのは場違いではないか、といった悪い感情を皆に抱かせてしまったのが、重い罰を下す原因になったのかもしれません。
ちなみに、のちにアイスキュロスがペルシャ人との戦いを題材にした『ペルシア人』(紀元前472年)を上演していることからすると、現実の題材を絶対に使ってはならないという規則は無かったようです。
なお、この劇では、ミルティアデスがそのような劇をプリュニコスに作るように薦めたという設定にしていますが、その可能性もあるかもしれませんが、それはあくまで想像です。彼がその劇の世話役を務めたというのも上に同じくです。また、『ミレトスの陥落』を問題ありとして訴えたのはクサンティッポスだとしましたが、実際には誰がそれをしたのか不明です。
最後に、プリュニコスの劇の台本は残念ながら一つも伝わっておらず、『ミレトスの陥落』の内容も全く不明であるため、この物語りで披露している劇の台詞(冒頭と終りだけですが)は、日本の『平家物語』と室町時代の流行り歌から一部借用させていただきつつ創作した架空のものです。それは、実際のギリシャ悲劇とはもちろん別物ですが、雰囲気だけでも味わっていただければと工夫したものです。
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