1-④の解説(地図あり)
<幕の一:④「三代目が帰って来た!」の解説>
<登場人物リスト>
主役-ミルティアデス(小早川隆景)『三代目』
長男-メティオコス(小早川秀秋)『四代目』
後妻-ヘゲシピュレ(問田大方)『奥方』
長女-エルピニケ(容光院)『お嬢さん』
次男-キモン(小早川秀包)『坊ちゃん』
『歩兵長』
『騎兵長』
幼なじみ-エウティッポス(白井景俊)
監視官a-アルクマイオン(毛利秀元)
監視官b-カリマコス(福原貞俊)
監視官c-クサンティッポス(桂小五郎)
伝令
倭-ギリシャ系の部下a
倭-ギリシャ系の部下b
陸奥-トラキア系の部下
部下たち
<地図a>
この1-④「三代目が帰って来た!」に出て来る地名を書き込んだ地図です。
<離反したトラキア人たち>
ケルソネソス半島に暮らすトラキア民族系の人たちが、どれほどミルティアデスに心服していたかは不明ですが、当初から親和的なドロンコイ族を除くとあまり良く思われていなかった可能性があります。そもそも彼が三代目として乗り込んで来て、ケルソネソス半島を掌握した方法というのが、かなり強引だったと伝えられているからです。
『ミルティアデスはケルソネソスへ着くと、兄弟ステサゴラスの喪に服する態で自宅に引籠っていた。ケルソネソスの住民はこのことを伝えきき、各部落から重だったものが集まり、一団となって悔みを述べにきたところを、ミルティアデスによって逮捕されてしまった。こうしてミルティアデスは五百の傭兵を配下に養いケルソネソスを手中に収め、トラキアの王オロロスの娘ヘゲシピュレを妻とした。』(ヘロドトス著『歴史』(松平千秋訳)より)
だとすれば、日頃強圧的な支配を受けていたかもしれない彼らが、それより強大なペルシャ帝国軍が迫ってきてミルティアデスからの離反を勧めてきたのなら、軒並み寝返ってしまうのも、無理からぬことであったかもしれません。(もちろん、詳しいことは判らないので、実際は違ったかもしれませんが。)
<離反したギリシャ人たち>
同じく、ケルソネソス半島に住むギリシャ民族系の人たちも、どれだけピライオス家の支配に納得していたかは判りません。独立心旺盛なギリシャ民族だから、『ケルソネソスの僭主(独裁者)』と称されたようなミルティアデスを、密かに嫌っていたとしてもおかしくはないでしょう。そのため、彼らもペルシャ人が迫ってくると、軒並み内通して、自己の保全を計っていたかもしれません。ここにはギリシャ系の町として、エライウスやセストス、パクテュエなどがありましたが、最終的にはカルディア以外の全ての町が、ペルシャ側についたといいます。
ヘロドトスの記述によると、ケルソネソス半島を脱出した時のミルティアデスは、僅か五隻の三段櫂船に、財産を載せられるだけ載せて、ペルシャ海軍の追っ手をギリギリ振り切り、なんとかアッティカ地方に辿り着いたといいます。
『さてこの時、フェニキア海軍がテネドスにあると聞知ったミルティアデスは、ある限りの資産を五隻の三段櫂船に満載して、アテナイ目指して出帆した。カルディアの港を発ってメラス湾を通って進んだが、ケルソネソスの沿岸を過ぎる頃、フェニキア軍が船団に襲いかかった。』(同上)
なお、この劇の最後で、ミルティアデスが反乱軍と戦うふりをしていますが、それはあくまで創作であり、実際にそのようなことがあったかは全く不明です。
<三段櫂船について>
ミルティアデス一行が脱出の際に使った『三段櫂船』というのは、この頃の最新型の軍船の名称で、それまでの一般的な軍船だった『五十櫂船』を三段構造にすることによって、漕ぎ手を五十人(片側二十五人づつ)から百七十人(片側八十五人づつ)へと大幅に増やす事を可能にした、早くて小回りも効く理想的な軍船でした。
しかし、甲板などは無いため輸送目的にはむいておらず、漕ぎ手以外に乗れるのはせいぜい三十人ほどだったらしいので、水夫と合わせて二百人ほどしか乗れませんし、荷物だって大して載せられませんでした。ということは、五隻の三段櫂船で逃げたという事は、ミルティアデスに最後まで付き従ったのはせいぜい一千人ぐらいといったところでしょうか。いや、『財産を積めるだけ積んだ』という記述もありますので、それが本当ならその荷物の分は人を載せられなくなるから、もっと少なかったと見るべきことになります。こう考えると、実際には家族や財産などのかさばる荷物は、別の輸送に適した荷船で先送りするなりなんなりしておいて、脱出の時には五隻に載せられる最低限の人数だけを着の身着のままですぐに逃げられるようにしておいた、という具合ではなかったかという気がしてきます。劇の設定では、一応そのように想定して書きました。
それにしても、水夫や船頭なども含めて一千人ぐらいの人数というのは、ケルソネソス半島の支配者に従う者としては少ないようにも思えますが、それ以外の人はどうしたのでしょう? 捨てて行ったのでしょうか? 元々ミルティアデスの仲間はその程度の人数だったのでしょうか? 初代からの強い絆があったドロンコイ族はどうしたのでしょうか? ペルシャ人が支配した後は、処刑されたでしょうか? 許されたでしょうか?
劇でのミルティアデスは、彼らにペルシャ人への偽装降伏を計らせたという設定にしていますが、実際にもそれに似たような事があったのでしょうか。
<ミルティアデスの愛着度>
一方、ミルティアデスがケルソネソス半島にどれほどの愛着を抱いていたかというと、もしかすると、それほど執着していなかった可能性もあります。というのも、ヘロドトスが一つ気になる出来事を書き留めているからです。それは、この紀元前493年の二年前、凶暴な遊牧民族として知られる北方のスキュタイ人(現在のウクライナ平原に暮らす)が、ケルソネソス半島まで押し寄せ、ミルティアデスはあっさり放棄して逃げ出したという事件があったというのです。
『さてこのキモンの子ミルティアデスはケルソネソスへ復帰してまだ日も浅かったのであるが、これまでよりももっと困難な事態が帰還早々彼にふりかかってきたわけであった。その経緯はこうである。――フェニキア海軍の侵入に先立つこと二年、彼はスキュタイ人のために国を離れていたのである。遊牧民のスキュタイ人は、ダレイオス王の攻撃によって刺戟され、各部族が団結してこのケルソネソスまで押し寄せてきた。ミルティアデスはしかし、攻め寄せるスキュタイ人の前に踏み止まって戦うこともせずケルソネソスを脱出してしまい、スキュタイ人が退去した後ようやくドロンコイ人によって連れ戻されたのである。現在の事態に立ち至る二年前に、右のような事件があったのであるが、』(同上)
これが事実だとすると、ミルティアデスはケルソネソス半島にそれほどの執着を抱いていなかった事になります。あるいは、この記事が誤りであると考えるべきか? というのも、スキュタイ人がこの時期にこんな所にまで押し寄せるというのはいささか唐突だからです。もっと昔なら、例えばミルティアデスは、紀元前512年頃に、大王ダイレイオスのペルシャ軍に従って、スキュタイ遠征に赴いており、大敗して逃げ帰っているから、それへの報復としてその二年後ぐらいにケルソネソス半島にもスキュタイ人が押し寄せたというのなら、あり得そうな話しです。その頃はまだケルソネソス半島の三代目になって数年ぐらいだから、何が何でも死守しようという執着心も芽生えていなかったでしょうから。この推測が正しいとすれば、ヘロドトスは年代を大幅に勘違いしている事になります。(実際『ケルソネソスへ復帰してまだ日も浅かった』とか『帰還早々彼にふりかかってきた』などという表現からすると、最後から二年前(紀元前495年頃)というよりかは彼がケルソネソス半島の三代目支配者になってから間もない時期のようにとれます。)
いずれにせよ、ミルティアデスはケルソネソス半島を二度放棄しているのであり、彼のケルソネソス半島への愛着度は、玉砕覚悟で死守するほどではなかったと言うのは、あったかもしれません。(愛着度と玉砕は関係ないかもしれませんが。)
もちろん息子のキモンたちにとっては、ケルソネソス半島こそ産まれ育った我が故郷だったでしょうから、アッティカ地方出身の父とは全く違う感情を持っていたのでしょうが。
<監視官たち>
この劇では、ケルソネソス半島から逃れアッティカ地方へ移民しようとする人々に対して、とても厳しい検査をしているという設定にしましたが、実際にどうであったかは不明です。この時から四十年ほど後になると、『アテナイ市民になれるのは、両親が共にアテナイ市民でなければならない』などという厳しい法律も出来る(紀元前451年)のですが、この時期は、まだそこまできつくはなかったから、移民への扱いももっと緩かったかもしれません。
アテナイ市において、市民権を持っているか否かは、大きな違いがありました。市民権を持たない者は、在留許可を得た『在留外人』という身分になりますが、彼らはアテナイ市の土地を所有する事が禁止されており、そのためアテナイ市内に滞在するには、アテナイ市民から家や土地などを借りる必要がありました。民会に出席する資格はもちろんありませんでしたし、その他の役職に就く事も基本的にありませんでした。ただし、軍役に積極的に参加したり、財政や文化の面で大いに貢献するような事があれば、民会での採決によって、アテナイ市民権やそれに準ずる名誉資格を贈られる事もありました。やはり、アテナイ市のような力のある市の市民権は、価値が高かったようであり、たとえ市民権がなくとも、そこに住みたいと願う人々の数は多かったようなのです。
しかし、アッティカ地方は市の中では大きめであるにしても無限に広い訳ではなく、またオリーブや葡萄などの果樹栽培にはむいていても、穀物の栽培にはさほどむいていなかったため、自給出来る食料にも限りがありました。そのため、やはり難民や移民が大量に流れ込む事には神経質にならざるを得なかったであろうと思います。しかもこの頃は、ケルソネソス半島以外にも、イオニアの反乱で国を追われたり、故郷を失った人々も大量に発生していたでしょうから、なおさらです。(例えば、イオニア沖に浮かぶサモス島の金持ち階級の人々は、ミレトス市からの避難民も誘って、シケリア島のザンクレ市の呼びかけに応じてその植民計画に参加し新天地に赴いていますが、アテナイ市民にコネのあった人々は、アッティカ地方に少数かもしれないが迎え入れてもらえた可能性もあったでしょう。)
というわけで、この劇ではアテナイ市から三人の監視官が送り込まれ、移民や難民の希望者を選別し一部を許可したという設定にしたのですが、この三人自体はいずれも実在の人物です。監視官aのアルクマイオンは、名門アルクメオン家の一員として、それなりの発言権を持った市民でした。監視官bのカリマコスは、主に軍事方面で活躍した人物で、この後、軍事担当のアルコン(軍務大臣=ポレマルコス)に選ばれるなどしています。監視官cのクサンティッポスは、ぱっとしない中流貴族ぐらいの出らしいのですが、名門アルクメオン家の娘を妻にすることによって頭角を現してきた若手の政治家です。彼は後の大政治家ペリクレスの父親であり、彼自身も民会などにおける弁舌に優れていたようです。彼には劇の中で嫌な役を担ってもらいましたが、史実においてもミルティアデスを裁判に訴えるなど、両者が対立関係にあったのは間違いないようです。
<出身の区>
劇の中で、監視官たちが自己紹介する時、「○○区出身の○○」と名乗っていますが、これはアテナイ人特有のものでした。古代ギリシャ人は普通、「〇〇市出身の〇〇」もしくは「〇〇の息子〇〇」と名乗るのが習いですので、アテナイ人ももともとはそうだったのですが、紀元前508/507年の有名なクレイステネスの改革後は「アテナイ市出身の〇〇」のほうはそのまま使いましたが、「〇〇の息子〇〇」のほうはあまり使わなくなり、代わりに「〇〇区出身の〇〇」のほうをよく使うようになりました。
それ以前のアテナイ市では、血縁を基とする『氏族』の結束が強く、それが原因で深刻な内乱状態に陥ることがしばしばあったため、それとは無関係の人工的な地縁による『区』を推すことで、『氏族』を弱体化させようという狙いがあったようで、それが名乗りで「〇〇の息子〇〇」より「〇〇区出身の〇〇」のほうを推奨した理由ではないかと思われます。
『区』というのは、アテナイ市の最小の行政単位のことであり、アッティカ地方を139の区に分けていたというので、アテナイ市民の総数が三万人だとして計算すると、一区につき市民が平均215名づつ所属していた事になります。アテナイ市民の戸籍はこの『区』に登録管理されており、後に他所へ転居したりしても、最初に登録した区にずっと所属し続けたようです。あるいはその区で産まれ育っていなかったとしても、親や先祖代々の家の伝統としてその区に所属するという慣習もあったりしたようです。そういう意味では、現在の日本の戸籍制度の本籍地のようなものに似ているでしょうか。ただし、『区』はアテナイ市の制度の根幹ですから、戸籍関連以外にも会議や選挙、祭りや寄り合いといった様々な用事で、しょっちゅう所属する『区』に行かなければならなかったでしょうが。
ちなみに、この劇に出て来る監視官たちの出身区がどの辺りだったかというと、アルクマイオンのアグリュレ区はアテナイの町の東南すぐそこ目と鼻の先にある区であり、クサンティッポスのコラルゴス区も町の北西少し行ったところにある区であるため近いのですが、カリマコスのアピドナ区は北にかなり行った山の中、ボイオティア地方との国境近くにある区であるため(マラトン区(距離にして42.195kmぐらい)より少し遠い)、行き来するのは他の二人より大変だったでしょう。
ついでに、ミルティアデスの出身はラキアダイ区ですが、ここも町のすぐ北西にあるため、たとえ町の中に住まなかったとしても、アクロポリスやアゴラへ楽に通える距離だったでしょう。
<イソップ寓話>
劇の中で、長男-メティオコスがイソップ寓話のたとえ話しをしていますが、これは『イソップ寓話集』90.「蝮と水蛇」から引いてきたものです。古代ギリシャ人もイソップの寓話が大好きだったようで、あちこちの文献で見かけます。
イソップはギリシャ語で『アイソポス』と言いますが、彼の生い立ちは謎に包まれており、おそらく紀元前六世紀頃の人だとされますが、実在を疑問視する学者も居ます。トラキア地方で生まれ、サモス島で奴隷となり、聖地デルポイで殺された、などとなっていますが、伝説の域を出ないようです。『イソップ寓話集』にも、別人がイソップを装って作った寓話が大量に含まれているようで、イソップオリジナルの話しはごく僅か(もしくは無い)という説もあります。
<ペルシャ軍の動き>
最後に、ミルティアデス達がアッティカ地方へ脱出した時期を考察しておきます。この劇ではそれを『紀元前493年の晩夏』としていますが、前後の関係から、おおむねその辺りで間違いないと思われます。ペルシャ軍は、紀元前494年の秋にミレトス市を陥落させると、その冬はミレトスの近くで過ごしたといいます。そして春が訪れるとともに、イオニア沖の島々やアジア大陸側の残党たちを徹底的に掃討していきました。そしてそれが終わると、海峡の向こう側、すなわちヨーロッパ大陸側(トラキア地方)のケルソネソス半島やビュザンティオンにも押し寄せて来たのでした。これらの制圧も、冬までには完全に終わったらしく、ペルシャ軍を指揮していた司令官たちは全て解任され、次の春(紀元前492年)には別の指揮官が任命され、新たにやって来たといいます。
これらの事から推測するに、ペルシャ軍がケルソネソス半島に襲いかかって来たのは、紀元前493年の夏から秋にかけてのいつかであったろうことは、ほぼ確実です。そのため、この劇ではその時を、夏の盛りが少し過ぎた頃(現在の9月か10月ぐらい)に設定しました。
劇でのミルティアデスは、それがもっと先になるだろうと予測していた設定にしましたが、彼らが手際良く脱出することに成功していることからすると、実際にはすでに諦めていて、全力で脱出する準備を整えていたのかもしれません。
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この回で、一幕目(第一章)は終りです。予定では四幕構成(全四章)にするつもりですので、この物語り劇のおおよそ四分の一まで進んだという感じです。起承転結で言うところの「起」の部分が終わったといった感じです。
それにしても、初めて投稿し、地図を作成し、それを添付してみたり、と慣れない作業が多くて四苦八苦してしまいましたが、なんとか無事ここまでは辿り着けました。はたして鑑賞に堪え得るものになっているのか不安しかありませんが、もしもここまで読み進めていただいた奇特な方がおられましたら、深く感謝の意を述べさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
さて、次回からは、起承転結の「承」の部分に相当する幕の二(第二章)が始まりますが、文章の修整や地図の作成等のため少しお休みをいただき、来月の頭からまた連載投稿を再開したいと考えております。ピライオス家の人々が、ミルティアデスの出身地であるアッティカ地方に移り住み、どこか温度差のあるアテナイ人たちに戸惑いつつも、ペルシャ人との戦いになんとか立ち上がらせようと悪戦苦闘します。乞うご期待です。




