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『O-286. 萩-マラトンの戦い劇(主役は小早川ミルティ)』  作者: 誘凪追々(いざなぎおいおい)
幕の一:O-283. 一年目の脱出
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1-③の解説(地図あり)


<幕の一:③「故郷の思い出」の解説>



<登場人物リスト>


長男-メティオコス(小早川秀秋)『四代目』  27才

次男-キモン(小早川秀包)『坊ちゃん』  17才


『歩兵長』  39才

『騎兵長』  40才


『アッティカ爺』  90才(と称しているが、実際は70才代くらい?)

『ドロンコイ婆』  100才(と称しているが、実際は70才代くらい?)

兵士たち

幼なじみ-エウティッポス(白井景俊)  17才


伝令

城門の兵士

騎兵たち






<地図a>

 この1-③「故郷の思い出」に出て来る地名を書き込んだ地図です。


挿絵(By みてみん)




<ケルソネソス半島>

 ケルソネソス半島は、エーゲ海の北東側、黒海のほうへ通じるヘレスポントス海峡の出入り口左手に位置する地方であり、海峡を挟んだ東の向こう岸にはアジア大陸が拡がっており、この辺りは海と陸の道が交わる交通の要衝でした。ここはヨーロッパ大陸の東南端であるバルカン半島のそのトラキア地方の東南端からエーゲ海に向かって細長く突き出した半島状の形になっており、東南西の三方を海に囲まれ、残る北側のみがヨーロッパ大陸と僅かにつながっている場所です。ただしこの半島はかなり細長い形をしているため、『半島』というよりかは、『大きめの岬』といったほうがしっくりくるかもしれません。初代ミルティアデスは、この半島の付け根の部分を遮断する長い壁(カルディアの町からパクテュエにかけて)を築いて、ここを島のような安全地帯にしたといいますが、そのようなことが可能であるくらい細いわけです。アッティカ地方と比べると、幅では負けますが、長さでは少し勝っているほどです。

 この劇では、この地方に青森県の『津軽半島』をあてていますが、津軽半島はもっと太めなので(特に付け根の部分は)、少しイメージが異なるかもしれませんが、場所の位置関係としてはあっていると思うのでそのようにしました。


 ケルソネソス半島は、アテナイ市があるアッティカ地方からは一応陸続きになっていますが、かなり回り込むことになるので、普通はエーゲ海を船で横切ったほうがはるかに行き来しやすい場所です。日本の山口県と青森県が一応陸続きであっても、鉄道が無い時代には船のほうが行き来しやすかったであろうことと同じです。いや、本州の日本海側の反りより、アッティカ地方からケルソネソス半島へのエーゲ海の反りのほうがかなりきつくて、もっと直線距離が短くなるので、もっとそうだと言うべきでしょう。

 おそらく、ケルソネソス半島に植民したアテナイ人たちは、余裕ができれば、船に乗ってしばしば故郷であるアッティカ地方に帰っていたことでしょう。特にミルティアデスなどの有力市民は、アテナイ市に頻繁に帰って民会や元老院に顔を出していたかもしれません。あるいは参勤交代のように、年ごと数ヶ月ごとに移住するという形にしていたかもしれません。いずれにせよ、植民先が疎かにならない程度に、アッティカ地方にも帰って、人脈の維持などにも努めていた者が少なからずいたであろうと思われます。そのような場合、市民権がどういう扱いになっていたかなどの詳しい事情は不明ですが、少なくとも植民一世はそのまま認められていたようですし、二世三世についても、帰国して手続きさえすれば、アッティカ地方の戸籍に入れてもらえたのではないかと思われます。




<途中の島>

 アッティカ地方とケルソネソス半島を船で行き来する場合、その通り道に目印となる島がいくつかありますが、それらを支配下に置けばより安全になるという訳で、レムノス島やインブロス島はミルティアデスの力によってアテナイ人のものになったといいます。

 それらの島にはペラスゴイ族という、ギリシャ民族とは少し毛色の異なった人々が住み着いていましたが、彼らはもともとはアッティカ地方に居住していたといいます。アテナイのアクロポリスを囲う城壁を築いた功績でアテナイ近郊での居住が許されていたのですが、なんらかの原因で仲違いをし、やっぱり国外に追放されたため、レムノスやインブンロス、サモトラケなどの島に移住したといいます。この仕打ちを恨んだペラスゴイ人たちは、アッティカ地方から娘たちを攫って来て、強いて自分たちの子供を産ませるなどの復讐をしましたが、やがて子供が成長するのを恐れて母子ともども殺したために、祟りのせいか島の穀物は不作となり家畜は不妊となりました。弱った彼らは、デルポイに解決策を尋ねると、『アテナイ人が適正と認める償いをせよ』と命じられたため、アテナイ人にそれに従う旨を申し入れると、アテナイ人は、ご馳走を満載したテーブルを見せながら『お前達の国をこのようにしてアテナイ人に引き渡せ』と要求したため、『北風を受けた船が貴国からわが国まで一日で達することができた暁には、国を引き渡そう』と答えたといいます。

 距離と方角からしてそのようなことは不可能ですから、要するにアテナイ人の要求を事実上拒否したわけですが、その数百年後、ケルソネソス半島を支配していたミルティアデスが、その先端にあたるエライウスから南に向かって船出し、『一日でレムノス島に着いたのであるから、昔の約束に従って、島を差し出せ』とペラスゴイ人たちに要求したのです。レムノス島には町が二つあり、ヘパイスティアの住民はこれに屈しましたが、ミュリナの住民は『ケルソネソスはアッティカ領ではない』と反論して拒んだため、包囲攻撃した上で認めさせたといいます。

 以上の話しはヘロドトス著『歴史』の巻六末尾に記されている話しで、前半はいささかおとぎ話めいていますが、後半の話しは(つまりミルティアデスがレムノス島などを占領した話しは)事実であったようで、その時期は紀元前505年頃ではないかと推測されています。これによりレムノス島やインブロス島はアテナイ人の支配下に入ったため、アッティカ地方との船での行き来はより安全になったのでしょう。(ただし、紀元前493年にケルソネソス半島と同時にこれらの島もペルシャ軍に奪われるため、僅か十年ほどの占領だったわけですが。)


 ちなみに、ヘロドトスはこの話しを、ヘカタイオス(ミレトスの歴史家)の著書からの引用と、アテナイ人に直接聞いた話しとを併記してくれていますが、ヘカタイオスのそれがペラスゴイ人に同情的であるのに対して、アテナイ人の主張はやはり自分たちに都合の良いように語っているようで興味深いです。




<トラキア民族>

 ケルソネソス半島の海岸沿いにはアテナイ人を主とするギリシャ民族系の人々が住み着いていましたが、その内陸にはドロンコイ人を含むいくつかのトラキア民族系の部族が暮らしていました。ギリシャ民族が港や町に住んで田畑や果樹園を営みつつ船で魚を獲ったり交易したりするのに対して、トラキア民族は牧草地で馬や羊などの家畜を育てつつ山林や野原で獣を狩るというような、お互い生活様式がはっきり異なる隣人関係になっていました。

 このような関係は、価値観の違いからくる敵対関係に陥りやすいという面もありましたが、同時にお互いに無いものを補い合えるというような友好関係を築くこともありました。トラキア民族系の中でも特にドロンコイ人は、ギリシャ民族に融和的な部族であったらしく、ギリシャ人の聖地デルポイの神託を尋ねにいったり、アッティカ地方から初代ミルティアデスを招いて自分たちの支配者に据える、などといったような話しがいくつもヘロドトスによって伝わっています。

 劇の中では、このドロンコイ部族の族長が、ミルティアデスの部下として騎兵部隊の隊長も任されているという設定にしましたが、狩猟民族たるトラキア人の騎兵はギリシャ民族のそれよりも優秀であったらしいので、あり得ない話しでも無いかと思います。

 逆に、敵対的な部族としては、アプシントス族やランプサコス族の名前が知られていますが、それ以外で、ケルソネソス半島やその近くにどのような部族がいくつくらい存在したかは不明です。ケルソネソス半島はそれほど広くは無いので、せいぜい片手くらいの数でしょうか。




<ケルソネソス半島とピライオス家の歴史>

 劇の中で『アッティカ爺』と『ドロンコイ婆』が語っているケルソネソス半島の歴史は、おおむねヘロドトス著『歴史』に記されている話しであり、それを二人の会話風に仕立て直したものです。もちろん、この手の話しは、建国神話などと同じように、語り継がれるうちに尾ひれはひれがついて、面白おかしくなったり、教訓話し風になったりすることが珍しく無いですし、酷い場合には全くの嘘や作り話しにすり替わって、原型を留めなくなってしまうこともまま見られることです。そのため、このヘロドトスが残してくれたケルソネソス半島の歴史も、どの程度まで事実なのかは、不明であるとしか言えないのですが、ヘロドトスが活動していた時からわずか三十年から八十年ぐらい前の時差でしかないため、比較的正確である可能性は高いと思われます。

 ドロンコイ族がデルポイの神託に従って助けてくれる人を探しさすらった末、アテナイに辿り着いて、そこで初代のミルティアデスに初めて声をかけてもらったために、一緒にケルソネソス半島に帰って建国した、などというような話しは、少々出来過ぎているようにも感じますが、逆に本当にあり得そうな話しでもあります。いずれにせよ、もはや検証不可能なのですから、この劇では基本的にヘロドトスの『歴史』にほぼそのまま従っています。(興味のある方は『歴史』の巻六を読んでみて下さい。)

 とはいえ、ヘロドトスは年月日の記述を、一部の事例を除いてはほとんど明記していないため、この劇で○年の○月であるとか、季節は○であるとか書いていても、それは推定であることが多いです。例えば、初代ミルティアデスが初めてケルソネソス半島に渡って来た年も、推定する人によって数十年もの開きがありますし、三代目ミルティアデスが来た年も正確には特定できないのです。

 初代ミルティアデスは、当時のアテナイ市がペイシストラトスの独裁によって専横されていた状態であることを嫌っていたので、ドロンコイ族の申し出にすぐに乗ってケルソネソス半島へやって来た、という話しですが、ペイシストラトスが独裁していた期間はけっこう長いので、初代ミルティアデスがいつアッティカ地方を去ったかを特定するのは難しいのです。ペイシストラトスは国内の反発で二度ほど国外に逃亡し、三たび復活したといいますから、おそらく二度目か三度目の返り咲きに成功して間もなくぐらいの時が妥当ではないかと思われるので、彼が二度目に返り咲いた紀元前561年頃からまた追放される556年頃の間、もしくは三度目に返り咲いた紀元前546年頃から彼が病死する紀元前528年頃の間、が候補対象となり、その中で最も可能性が高いのは三度目に返り咲いた紀元前546年頃から数年が経ったあたり、すなわちペイシストラトスの支配が進んでその独裁体制が固まって来たあたり、それに行き詰まりを感じた初代ミルティアデスがケルソネソス半島へ旅立つのは、紀元前543年頃だったと推定するなら、三代目のミルティアデスがケルソネソス半島を捨ててアッティカ地方へ帰ってくるのが紀元前493年であるから、ちょうどその50年前であったということになります。というわけで、劇の中では『ピライオス家三代五十年の支配』と表現していますが、もちろん実際にはそれよりもっと長かったかもしれないし、あるいはもっと短かったかもしれません。

 次に、三代目のミルティアデスが、兄の後を継ぐためケルソネソス半島へやって来た年ですが、こちらも特定は難しいです。彼は自分の父親・キモンが殺されたあと、紀元前528年頃に病死した独裁者ペイシストラトスの後継者ヒッピアスたちのもとで庇護されており、アテナイ市の紀元前524/523年の筆頭アルコンに就くなど、かなり優遇されていたようですが、ケルソネソス半島で兄ステサゴラスが子供が無いまま突然死んでしまい、ケルソネソス半島が混乱状態に陥ったことから、彼をその後継者に望む声があがり、そこでケルソネソス半島へ赴くことになったといいます。つまり、彼が赴いた年は、紀元前524/523年よりも後であることは確実です。

 そして三代目のミルティアデスは、ケルソネソス半島に着き、兄の喪に服する態で自宅に籠っていると、現地の部族の重立った面々が見舞いに訪れたため、それを一網打尽に捕らえて人質にし、一気に政権の掌握に成功したといいます。そして五百人の傭兵を常備し、ケルソネソス半島全体を手中に収めたのだといいます。その後、紀元前512年頃、アジア大陸のほとんど全てを攻め従えたペルシャ帝国の三代目大王ダレイオスが、北方の遊牧民族国家スキュタイ(現在のウクライナ)を自ら大軍を率いて攻めた時、これに従軍するよう命じられた他のイオニア人たちとともに、ケルソネソス半島のミルティアデスも参加したという記述があるので、その紀元前512年頃には既にケルソネソス半島をしっかり支配していたわけであるから、三代目のミルティアデスが渡って来たのは少なくともその数年前頃であったことは確実である、とまでは言えましょう。

 すなわち、アテナイ市の筆頭アルコンを務めた紀元前524/523年よりも後で、スキュタイ遠征に参加した紀元前512年頃よりも前の時期、というところまでは絞れます。そのため、この劇では、紀元前516年頃に三代目のミルティアデスがやってきたという設定にしました。これだと、その時の年齢は39才ぐらいで、前妻との間の長男メティオコスは4才ぐらいで連れて来たことになり、その数年後にトラキア王の娘ヘゲシピュレを後妻に迎え、エルピニケとキモンを産むなどしつつ、ケルソネソス半島を去る紀元前493年までのおよそ二十三年の間、支配を続けたという形になりますので、まぁ妥当な数値ではないかと思います。




<年表>

 以上の推測を年表にまとめると次のようになります。


B.C.543.頃? 初代ミルティアデスが、ドロンコイ人の誘いに乗ってケルソネソス半島に移住し、その支配者となる。

B.C.528.頃 アテナイ市の独裁者ペイシストラトスが病死。

B.C.526.頃? 初代ミルティアデスが戦死ししため、甥のステサゴラスが二代目を継ぐ。

B.C.524/523. ステサゴラスの弟ミルティアデスはアッティカに留まって、ペイシストラトス家の庇護のもと?、アテナイ市の筆頭アルコンを勤める。

B.C.516.頃? 二代目ステサゴラスが、十年ほど統治したのち戦死、もしくは刺客によって殺される。このため、その弟ミルティアデスがペイシストラトス家の後押しもあって?、ケルソネソス半島に移住し、兄の跡を継いで三代目の支配者となる。

B.C.514.頃? トラキア王オロロスの娘ヘゲシピュレを後妻に迎える。

B.C.512.頃? 長女エルピニケが産まれる。

B.C.512.頃 ペルシャ帝国のダレイオス大王が、スキュタイへ親征。三代目ミルティアデスもこれに従軍するが、裏切ろうとしたためペルシャ帝国とは敵対関係に。

B.C.510. 次男キモンが産まれる。

B.C.505.頃? ミルティアデスがレムノス島やインブロス島を攻め、アテナイ人の支配下に置く。

B.C.500.~493. イオニアの反乱。

B.C.493. ペルシャ軍が迫って来たため、ケルソネソス半島を放棄して、アッティカ地方に帰国する。


 この劇では、このような設定に基づいて、物語りを進めています。


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