四.夏がすっかり本格的になった頃、アンジェリンから
夏がすっかり本格的になった頃、アンジェリンから長い長い手紙が届いた。今まで書けなかったことを全部書こうとしているかのような手紙だった。
ベルグリフはその長い手紙をたっぷり時間をかけて読み、それからまたたっぷり時間をかけて最初から読み返した。
「……文字の書き方も教えておくべきだったかな」
書き間違いは多いし、字だってお世辞にも綺麗とは言えない。しかし、伝えたい思いは溢れんばかりであった。
「頑張ってるんだなあ……」
帰ろうとして三度失敗したくだりにはベルグリフも思わず笑ってしまったが、自分もアンジェリンが帰って来ない事に相当狼狽していた事を思い出し、少し顔をしかめた。
そしてワイバーンやギガアントの群れを難なく討伐してしまう実力に、もう自分が教えた事は殆ど役に立たないなあ、と少し寂しい気持ちにもなった。
ともあれ、返事を書いてやらねばなるまい。
ベルグリフはゆっくりと丁寧に返事を書いた。
これまでは手紙が簡素だったこともあるし、変に郷愁を起こさせるのも悪いかと思って手紙は控えていたが、これだけ長い手紙には丁寧な返事が必要だ。
村で起こった事、思っている事、激励の言葉、そんなものを書き連ねて行く。書き終えたベルグリフは手紙に封をして、大きく伸びをした。それから立ち上がって外に出る。
もう夜だ。
星明かりが辺りを照らしてはいるが、暗い。
家の裏に木があって、その枝に木片が幾つもロープでぶら下げられている。その数は三十を優に超えていた。
ベルグリフはその真ん中に踏み込むと、鞘に入ったままの剣で、おもむろに木片を一つ打った。
木片は向こうに飛んで行くが、ロープでぶら下げられているから戻って来る。
ベルグリフは次々と木片を打つ。
木片は向こうに行き、こっちに行き、しかしどれもがベルグリフに向かって来る。それを彼はかわし、剣で受け、いなした。
暗がりだから視力に頼っている筈はないのだが、ベルグリフは不規則に襲い来る木片にちっとも当たらずにかわし続ける。木片同士がぶつかって不意に動きを変えても対応した。
やがて木片の動きが緩やかになり、動きが小さくなり、止まった。
「……なまってるな」
ベルグリフは一つだけ木片が当たった肩の所をさすった。
「アンジェに笑われるわけにはいかんなあ」
ベルグリフは再び木片を打つ。今でも剣の素振りは日課になっているが、こうやって無心に鍛錬に打ち込むと、何だか冒険者になったばかりの頃に戻ったような気がした。
翌日、張り切りすぎた代償の筋肉痛に顔をしかめながら、ベルグリフは畑に出た。
「くそ、やっぱりなまってる……」
しかし、まだ筋肉痛が翌日に出る事に安堵もした。
同世代の農夫たちは、筋肉痛や体の痛みが、翌々日になってから出るようになったと、歳を取った事を笑いながら話していたものだ。それに比べれば、まだ自分の体は壮健さを失っていない。
勘を取り戻さねば。
実戦が必要だ。
もう四十を越したいい歳の癖して、若者のように刺激を求めている。年甲斐もなくアンジェリンの活躍に当てられたか? とベルグリフは顎鬚を捻った。
額の汗を拭いながら畑を手入れしていると、バーンズがやって来た。
「ベルさん、親父が呼んでるよ」
「ケリーが?」
バーンズに連れられてケリーの元に行くと、ケリーは難しい顔をして座っていた。その横には神父のモーリスが座り、見知りの木こりも何人か同席している。
「どうしたんだ、揃って」
「いや、それがよベル。どうも近くの森に魔獣が出たらしいんだ」
おや、とベルグリフは思った。
先日に子供たちと山に入った時も思ったが、最近は魔獣が増えているような気がする。
それ以来子供たちと山に入る事は止めているが、とうとう村の近くにまで出るようになったか、とベルグリフは眉をひそめた。
遭遇したのは木こりたちらしい。その時は向こうは一匹、こちらは数人で斧も持っていたから何とか追い払ったが、それからは森に入るのがためらわれるようだ。
「ほら、秋祭りに向けて教会の改築があるし、近々教育所も作るだろ? だから木材が要るんだが、これじゃ仕事にならねえんだ」
「なあベル、いつもお前さんにばっかり押し付けて悪いとは思ってる。だが、俺たちじゃ魔獣の相手は……」
木こりたちの言葉をベルグリフは制した。
「みなまで言うな。魔獣はどんな姿だ?」
「灰色の狼だ。俺らが会ったのは一匹だったが、群れでいるかも知れねえ」
ベルグリフは頷き、モーリス神父の方を見た。
「モーリス神父、念の為魔除けの準備をしておいてもらえるかい? 皆も神父を手伝って村の周りに魔除けをしておいてもらいたい」
「分かりました」
モーリス神父は神妙に頷いた。
「なあ、ベル。やっぱり一人で大丈夫か? 戦いは慣れちゃいねえが、頭数が欲しいなら……」
「ああ、森の中なら俺たちも慣れてるし……」
木こりたちはそう申し出たが、ベルグリフは笑って固辞した。背中を任せられる冒険者ならばともかく、戦い慣れていない木こりたちを守りながらでは、却って危ない。
「大丈夫さ。皆は村を守る事を念頭に置いてくれ。それに」ベルグリフはにやりと笑った。
「丁度体を動かしたいと思ってたんだ」
普段はあまり見ない、『冒険者』ベルグリフの顔を見て、ケリー達一同は思わず息を呑んだ。
家に戻ったベルグリフは、農作業着から動きやすい服に着替えた。剣を携え、様々な道具が入った腰袋をベルトに下げる。
「さて……行くか」
家を出て、森の方に向かう。トルネラの村は山の東側に面している。その山の手前に森が茂り、その森は山へと至る。東側には平坦な土地が続き、森とは言えぬほどの小さな木々の点在地が方々にあった。
森に入ると、妙にひんやりとした空気が辺りに満ちていた。前に子供たちを連れて山に行った時よりも冷ややかだ。もう夏も盛りだというのに、これはおかしい。
「ふん……」
ベルグリフは頭の中で魔獣の想像をしながら、警戒しつつ進んだ。
段々と周囲に気配を感じるようになった時、高台にそいつはいた。銀色の体毛を持ち、冷気を体中に纏っている狼型の魔獣、アイスハウンドだ。
「思った通りか……北から下って来やがったな?」
ベルグリフは剣を抜いた。
アイスハウンドはCランクの魔獣である。その姿はまさしく白銀の大狼といった具合で、身には常に冷気を纏い、口からはブレスを吐く。ここいらに出没するEランク程度の魔獣とは桁違いに危険な魔獣だ。
おそらく、このアイスハウンドの発する魔力に引かれて、グレイハウンドを始めとした魔獣たちが集まり始めているのだろう、とベルグリフは想像した。強力な魔獣の元には下位の魔獣が集まり、いつかそれがコロニーのようになる事は珍しくない。
アイスハウンドが吠えた。すると、周囲の気配が狭まって、彼に向かって来た。
グレイハウンドの群れが木陰からベルグリフに飛びかかる。
ベルグリフは身をかがめ、まず手近な一匹を切り裂き、それから義足を軸にぐるりと回って背後の一匹を仕留めた。そして左足だけで跳躍する。
義足になってからも、彼は鍛錬を続けた。
今はもう、痛覚のない義足であるからこそできる動きを最大限に利用する。その身のこなしは五体満足の者と比べても遜色ない。
ベルグリフは滑るように動き回り、ほどなくグレイハウンドを駆逐してしまった。そしてアイスハウンドを睨み付ける。
「高みの見物とは余裕だなあ、オイ」
アイスハウンドは唸り声を上げた。獲物ではなく倒すべき敵とベルグリフの事を認識したようだった。
雪崩のように勢いを付けて、アイスハウンドは高台から駆け下りて来た。身に纏う冷気がとどろき、まるで強烈な北風の如くベルグリフに吹き付ける。地面に、木々の表皮に霜が降りた。
「ぐぉ、るる、る、るるるる、るるる」
咆哮と共に、強烈なブレスが襲って来た。ベルグリフは余裕を持ってかわす。
アイスハウンドはブレスに紛れるようにして飛びかかって来た。鋭い爪と牙が氷のようにきらきらと光る。
ベルグリフはそれも予想していたかのように身をかわし、すれ違いざまに道具袋から取り出していた小さな球を放り投げた。口を開けてベルグリフにかじり付こうとしていたアイスハウンドの口の中に、その球は難なく吸い込まれる。
アイスハウンドが激しく咳き込み始めた。それは唐辛子や玉葱など、刺激の強いものを一緒に煉り合せた丸薬であった。
「ふむ、Cランクにもこれは効くわけだ」
まるで試しているとでもいうような口調である。
ベルグリフは足を失ってから、戦闘では足手まといでも、他の面で冒険者としてやって行こうとした。すなわち知識面でだ。
義足のリハビリを続ける傍ら、彼は魔獣に関する文献や図鑑、過去の戦いの記録などを徹底的に読み漁り、頭に入れ、さらに頭の中で対策や立ち回り、退治の仕方などを何度もシミュレーションした。
アイスハウンドの事も頭に入っている。トルネラに帰って来てから何度か戦った事もある。しかし、この丸薬を実際に試したのはこれが初めてだ。
「……遊んでる場合じゃないか」
次は何を試そうかと無意識に道具袋を漁っていたベルグリフだったが、こういう油断が一番いけない、と小さく頭を振った。
アイスハウンドは怒りに燃えてベルグリフに向かって来た。喉をやられてブレスは吐けないようだが、そのしなやかな四肢による突進は、流石Cランクの魔獣といえるものである。
だが、ベルグリフにとっては直線的過ぎた。
「頭が火照り過ぎだ、アイスハウンドの癖に……」
軽く体を捻り、ぎりぎりの所でかわしたベルグリフは、剣を振り上げて、剛! と振り下ろした。その剣閃はアイスハウンドの首を難なく落とす。屍と化したアイスハウンドの体は、突進の勢いのまま向こうに飛んで行き、木に当たって地面に転がった。魔力によって体に纏っていた冷気が霧散し、夏の陽気が一気に流れ込んで来る。辺りを覆った霜が一気に溶け始め、突然暑くなり始めた事でベルグリフは顔をしかめた。
「体がおかしくなりそうだ」
周囲にはもう魔獣の気配はない。アイスハウンドを退治した以上、これに引き寄せられる魔獣ももういないだろう。
せっかくだから、毛皮を剥いで行こうとベルグリフは解体用のナイフを取り出した。アイスハウンドの毛皮は白銀で美しい。近々結婚する予定の村娘にやれば、きっと喜ぶだろう。
やっぱり娘の活躍に当てられているんだろうか、とベルグリフは苦笑いを浮かべた。
○
「へくちっ」
「なんだミリィ、風邪か?」
「ううん……あの店冷房魔法効かせ過ぎだよー……寒かった」
「温度差が顕著……体に悪い」
オルフェンの都の下町、いつもと違うレストランを出たアンジェリンたち三人は、効き過ぎていた冷房魔法に文句を言いながら、往来を歩いていた。
結局、アンジェリンはセレンを助けた後、彼女を送り届けて都に帰って来た。
セレンは何とか存命中の父親に会う事が出来、感謝してもしきれないとアンジェリンを歓待しにかかったが、アンジェリンは夕飯をご馳走になっただけで、それを固辞した。
残りの休暇の日数ではトルネラに行って帰って来る事は出来ない。
だからアンジェリンは都に帰って来てからひたすら手紙を書いた。今までは空いた時間で書こうとしても、書きたい事が多すぎて結局簡素になっていたが、今回は書きたい事は全部書くと決めた。
そんな風にして書いては消し、書いては消しを繰り返していたら一週間近くかかった。それで休暇は終わったようなものである。
それで今はまた毎日ばたばたと難しい仕事を押し付けられている。
昨日まで西の海洋都市、エルブレンに行って巨大なイカの魔獣、クラーケンを討伐して来たばかりだ。明日からはまた東に向かわねばならない。まさに東奔西走、多忙の限りである。高位ランクの冒険者でなければ対応できない魔獣ばかりだから、仕方がなくはあるのだが。
ともあれ、今日一日は休みだ。ベルグリフに会いに行く事など勿論出来ないが、パーティメンバーでもある気の置けない友人たちと過ごすのも嫌いではない。
「しかし、稼いだ金を使う暇もないな……使い道があるわけでもないけど」
とアネッサが嘆息した。ミリアムが笑う。
「だったら今日どんどん使っちゃおうよー。わたし、気になるお菓子屋さんがあるんだー」
「そんなもので減るわけがないだろう……アンジェ、お前はどうしたい?」
「甘いもの、賛成」
「はーい、二対一。行こ行こー」
ミリアムは嬉しそうな足取りで二人を先導した。
お菓子屋は大通りに面した大きな店だった。最近出来たばかりらしく店内も綺麗で、並べられたお菓子をお盆で取って、それぞれ会計するシステムらしい。買ったお菓子は店内や店の前の席で食べる事が出来る。
色とりどりの菓子を前にアンジェリンとミリアムは目を輝かした。アネッサは一歩引いているが、彼女も矢張り甘いものは好きらしい、ごくりと喉を鳴らした。
「うわあー、すっごい綺麗。美味しそうー」
「ミリィ……片っ端から制覇するしかない……!」
「よーし! がんばっちゃうよぉー!」
「ほ、ほどほどにしとけよ、二人とも……」
アンジェリンとミリアムは片っ端からお菓子をお盆に載せて行く。アネッサも興味がないようなそぶりをしながらも、気になったお菓子を幾つか選ぶ。Sランクだ、AAAランクだといっても、彼女たちも年頃の女の子なのだ。
山盛りの菓子に頬をひくつかせる店員に代金を払い、三人はテーブルに陣取った。
「ちょっと買い過ぎたかなあ?」
ミリアムは山盛りのお菓子を目をぱちくりさせて見る。アンジェリンは首を振った。
「問題ない……お茶を頼もう」
花茶を頼み、早速お菓子を堪能する。ミリアムもアンジェリンもだらしなく表情を緩める。
「んー、おいひぃー」
「最高……アーネ、そっちの頂戴」
「いや、これわたしの……というか、さっき昼食取ったばかりなのに、よくそんなに食えるな二人とも」
アネッサが呆れたように言うと、アンジェリンもミリアムも首を傾げた。
「甘いものは別腹だよー? ねー、アンジェ?」
「淑女の嗜み……」
いや、それはおかしい、と言いかけたが、結局嘆息するだけのアネッサであった。しかし自分の分のお菓子を頬張るとうまい。予想以上にうまいので、少し夢中になっていると、アンジェリンとミリアムがにやにやしながら見ていた。
もぐもぐと蜂蜜のかかったお菓子を噛みながら、アンジェリンが呟く。
「うまい……お父さんにも食べさせてあげたい……」
「あー……この前は残念だったな」
「結局帰れなかったんだっけー?」
「そう……次はいつ休暇が取れるやら……諸行無常……もぐもぐ」
悲し気な表情でお菓子を頬張るアンジェリン。アネッサとミリアムは顔を見合わせて苦笑した。アネッサが慰めるように言う。
「けど、助けたのってボルドー伯の娘だろう?」
「……ボルドー伯って誰?」
「え……そりゃ、トルネラも含めた地域の大領主じゃないか。北部の有力貴族とつながりが出来るなんてすごいよ」
「……そんなものには何の興味もない……でもセレンがお父さんに会えて良かった」
「そ、そうか……」
何だか打算的な事を言ってしまった自分が恥ずかしくなったのか、アネッサは少し頬を赤らめた。冒険者としては間違っていない思考の筈なのだが。
「しかし……!」アンジェリンは頬張っていたお菓子を花茶で流し込んだ。
「次こそは必ず帰る……! 今のペースで依頼をこなしていけば、次の長期休暇の申請もギルドは断れない筈。ふ、ふふ、ふ……アーネ、ミリィ、わたしに付いて来るがよい……」
怪しげに笑うアンジェリンを見て、アネッサはやれやれと首を振る。
「付き合わされるわたしらの気持ちにもなれよ……まあ、いいけど」
「んふふ、わたしはあちこち行けるし、美味しいもの食べられるから問題なーし」
アンジェリンは次なる休暇を得るために、現在は来る依頼を片っ端から受けて片づけていた。その速度たるや、通常の冒険者たちの倍近い。また実績を積み続ければ、休暇の申請も断りづらくなるだろう、というアンジェリンの計画がある。
副産物として――本来の冒険者の目的はこれの筈なのだが――お金はどんどん貯まる。装備は既に新調する必要もないくらい良いものを揃えてある。依頼の合間合間にこうやって散財をしているが、それでも貯まる方が早い。
ふと、アネッサが呟いた。
「使い道がないなら……孤児院に少し寄付してあげるのもいいかも知れないな」
「ああー、そうだねー。シスター喜ぶよぉ」
とミリアムが同意する。
聞いた事のない話に、アンジェリンは首を傾げた。
「孤児院……?」
アネッサは苦笑しながら頬を掻いた。
「あー、わたしらは教会孤児院育ちだから」
「シスターがお母さん代わりだったねー。だからお父さんはいなかったなあ」
「だな。お金もあんまりなくて、だから必死になって冒険者になったっけ」
「そうそう。最初のパーティは孤児院の仲間で組んだんだよねー」
「シスターには猛反対されたけどな」
アネッサはくすくすと笑い、ミリアムも笑いながらまたお菓子をつまむ。
それは知らなかった、とアンジェリンは目を細めた。考えてみれば、自分はこの二人の仲間の事をあまり知らない、と気付いた。そして自分の事もあまり話していない、とも。
がたんがたんと椅子の佇まいを直して、アンジェリンは改めて二人と向き合った。
「わたしは捨て子で、お父さんが山で拾ってくれた……」
「え」
「わあ、なにそれ、なにそれ」
アネッサもミリアムも興味深げに身を乗り出した。
よし、今日は全部話そう。村の事、お父さんの事、自分の事……。
そして全部聞こう。二人の小さかった時の事。孤児院の事。シスターの事。
花茶をもう一杯頼んで。