三.獣道を一列になって
獣道を一列になって進む集団がいる。
先頭は十四歳くらいの少年で、後ろには年齢様々な子供たちが十人ばかり連なっている。
殿を務めるのは赤毛の髪と顎鬚を蓄えた壮齢の男だ。ベルグリフである。
「皆、足元もそうだが、周りにも注意を払うんだぞ。ピート、前はどんな様子だ?」
ピートと呼ばれた先頭の少年は肩越しに振り返った。
「ずっと森だよ」
「分かり切った事を言うな、もっと観察しろ。視覚だけじゃなく五感全部を使え」
ピートは眉をひそめ、ジッと前を見た。
「……水の流れる音がする。あと、何だか胸が透くような爽やかな匂い」
ベルグリフはよしよしと満足げに頷いた。
「それはオニバミゼリの匂いだ。この草は綺麗な水のある場所にしか生えない。近くに水場があるって事だ」
子供たちが感心したようにざわめく。
「よし、水場を探してみよう。匂いと音を辿るんだ。ただしそっちばかりに集中するなよ? 水場探しに夢中になって、野獣や魔獣と急に出くわしたら洒落にならないからな」
子供たちは「はーい」と返事をして、銘々に鼻をひくつかせたり耳を澄ましたりして、水場の在処を探った。
そんな光景を見ながら、ベルグリフはアンジェリンと山に入っていた時を思い出す。
アンジェリンは何でも一度やれば覚える子だった。薬草や野草の種類、生えている植物から方角を読む方法、気配の消し方、気配を探る方法、そんなものをアンジェリンはあっという間に習得し、自分のものにした。
アンジェリンは才能の塊だ。Sランクになったのがその証左だ。
駆け出しでドロップアウトした冒険者モドキの子がSランク。陳腐な物語にもなりゃしない。
嫉妬しているのか? 自分の娘に?
ベルグリフは自嘲気味に笑う。俺だって右足さえあれば。
そこまで考えて首を振る。過去には戻れない。それに、足を失ってトルネラに帰って来なければアンジェリンと出会う事もなかった。
「なるようにしかならんさ」
ベルグリフは呟いた。自分に言い聞かせるような口調だった。
その時、ピートがベルグリフに呼びかけた。
「ベルおじさん! あった! あっちが水場!」
「おう、見つけたか」
我に返ったベルグリフは、はぐれた子供がいないか注意深く見ながら、子供たちを促して水場へと下った。
成る程、清流が流れている。岸辺にオニバミゼリが茂り、鼻に抜ける鮮烈な匂いを漂わせている。水の中からはトウレン草が伸びて小さな白い花を咲かしていた。オニバミゼリは乾かして煎じれば薬効のある草だ。胸回りや鼻など、気管に関わる部分によく効く。トウレン草は目立った薬効などはないが、その花弁はかじると甘い味がする。
ベルグリフは子供たちに言ってオニバミゼリを集めさせた。
子供たちはトウレン草の花弁をつまみ食いしながらオニバミゼリを集めた。採りすぎないように注意しながら。
「勝手に遠くに行っちゃ駄目だぞ」
「はーい」
「分かってまーす」
返事だけはいつも元気だ。ベルグリフはやれやれと肩をすくめた。
静かだ。それに不思議と涼しい気がする。水場の近くだからだろうか?
水の流れる音、風が枝を揺らす音、子供たちのはしゃぐ声の他は聞こえない。
ベルグリフは静かに目を閉じていた。その時、不意に妙な気配がした。ベルグリフは立ち上がった。
「皆、いるか?」
はしゃいでいた子供たちは、ベルグリフの鬼気迫る声色にわたわたと互いを見やった。
「ライナスがいない」
ピートがそう言った時、悲鳴が上がった。
「うわああああああ! ベルおじさぁん!!」
七歳のライナスが、茂みの向こうから駆け出して来た。後ろから灰色の体毛の狼が飛び出す。グレイハウンドという魔獣だ。明らかな敵意と殺意を以てライナスに飛びかかろうとしている。
油断した!
ベルグリフは自分の甘さに舌を打ちながら地面を蹴った。
左の足で何度も地面を蹴り、恐るべき速さで跳躍した。
そしてライナスを抱え上げ、同時に剣を振り抜いた。グレイハウンドは真二つに両断される。
ベルグリフは即座に周囲の気配を読んだ。どうやら他の魔獣はいないようだ。
ホッとしたのも束の間、義足から着地した石が濡れていて、ベルグリフは盛大にすっ転んで、水の中に落っこちた。
「お、おじさん!」
「ライナス!」
「大丈夫!?」
子供たちは慌てた様子で水の周りに集まった。
浅い水場だから、溺れることはない。ただ、尻もちを突いたような形になって、すっかり濡れてしまった。
ライナスは大泣きに泣いてベルグリフにすがりついている。
「恰好が付かんなあ……」
ベルグリフはライナスを撫でながら苦笑した。
○
幌馬車に揺られていた。
ギガアントによるアステリノスの町の襲撃から四日、オルフェンの都に帰って来たアンジェリンは改めて荷物をまとめ直し、今度こそトルネラに向かって出発した。休暇はたっぷりひと月取ってある。
Sランク冒険者がひと月不在というのはギルドとしては渋い顔だったが、今までのアンジェリンの功績から考えれば無下には出来ない。
人不足を嘆きながらも、何も起こりませんようにと祈りながら、冒険者ギルドはアンジェリンに休暇の許可を出した。許可を出さなければギルドごと粉々に吹き飛ばされそうな雰囲気であった。
もうここいらは辺境と言っても差し支えないド田舎である。
そやそやと風が吹いて、手入れされていない草原の長い草が揺れている。日差しは段々と夏本番のものになっているが、風が涼しいからそれほど汗をかく心持でもない。
オルフェンを出てからもう一週間が経っていた。
幾つかの町や村を経由して、乗合馬車があればそれに乗り、なければ同じ方角に向かう行商人と交渉して、護衛も兼ねて乗せてもらった。今乗っている馬車は、ボルドーというこの辺りでは一番大きな町で出会った行商人のものだ。もう一つ、小さな村に寄って、それからトルネラに向かう。
何せ移動手段が徒歩か馬しかない上に、トルネラは北のエルフ領に近い所にあるから、ともかく移動時間が長いのだ。
帰りの旅程も考えると、トルネラにいられるのは三日か四日そこらかも知れない。だが、それでも構わない。ベルグリフに会えさえすれば。
実際は、馬一頭でひたすら走り続ければもっと早く着くのだが、アンジェリンは乗馬が得意ではない。猛スピードの馬に揺られ続けていると何だか怖くなるのだ。無敵と思われているSランク冒険者にも弱点はある。
大きな荷物の中には色々なお土産が詰まっている。
野菜の種や布、本、それに日持ちのする焼き菓子が沢山。
これらを父と一緒に手に取りながら話をするのを想像して、アンジェリンはにやにや笑った。
青髪を短く切った女の行商人はにこやかにアンジェリンに話しかけた。
「お嬢さん、随分御機嫌ですねえ」
「そう……やっと帰れる……」
「ははあ、里帰りですか。冒険者ってのは忙しいんでしょう?」
「そうなの……急な仕事で延び延びになってたけど、やっとお父さんに会える……知ってる? “赤鬼”のベルグリフ」
アンジェリンの斜め上の親孝行は続く。
行商人はにこにこ笑いながら馬を走らせる。
「いやあ、あたしは不勉強なもんで知らないんですが、覚えておきますよ。さぞ強い冒険者なんでしょうなあ」
「うん……自慢のお父さん。覚えておいてね? “赤鬼”のベルグリフだよ」
「“赤鬼”のベルグリフさんですね。分かりました」
聞いた事のない名前だ、と行商人は思っていたが、そこは商売人である、そんな事はおくびにも出さずににこにこしている。しかし、“黒髪の戦乙女”アンジェリンの名は知っていた。そのSランク冒険者がここまで絶賛する冒険者ならば、きっと世に出ない隠れた実力者なのだろう、と行商人は一人で納得した。
やがて草原を抜けて山岳地帯に差し掛かった。
一応の街道があるけれど、それほど人の往来があるわけではないから、馬車はがたがたと揺れた。横転を恐れて速度は出ない。
座っていると尻が痛い。歩いた方がまだよさそうだ、とアンジェリンは馬車から飛び降りて横を歩いた。早足で追いつけるくらいの速度だ。
「すみませんねえ、道が悪くて」
「いい……あなたのせいじゃない……」
ふと、見られているような気配を感じたアンジェリンは、素早く周囲に視線を巡らした。荒れ山の岩陰や木立の影に人の気配がする。魔獣ではない。
歩きながら行商人に尋ねる。
「……ねえ、この辺に村はあったっけ……?」
「いえ? ありませんが……」
間違いない、盗賊の類だ。視線に悪意を感じる。この辺りに盗賊の根城があるとは聞いた事がないが、最近になって住み着いたのかも知れない。それとも根無しの放浪盗賊か。
アンジェリンは馬車にひょいと飛び乗ると、行商人に囁いた。
「盗賊がこっちを見てる……」
「ええっ!?」
「しっ。落ち着いて……わたしがいるから大丈夫。知らない振りして行って」
アンジェリンは剣の柄に手を置きながら言った。行商人は不安げな表情をしながらも、言われたまま馬車を進める。しかし矢張り道が悪いから中々進まない。
不意に、風を切る音がした。アンジェリンは剣を抜き放ち、飛んで来た矢を叩き落とした。行商人は「ひえっ」と小さく悲鳴を上げ、小さく十字を切った。
「おお、主神ヴィエナよ、守り給え……」
「黙って見ているだけならよかったものを……」
アンジェリンは不愉快そうに顔をしかめ、馬車から飛び降りた。
今までも犯罪組織や盗賊の集団を討伐する依頼はあった。だから人殺しは初めてではないが、人間を斬るのは好きではない。だから大声で威圧した。
「おい! わたしが“赤鬼”ベルグリフの娘、“黒髪の戦乙女”アンジェリンと知っての狼藉か! 死にたくなければどっか行けこのやろー!」
だが返答は矢だった。アンジェリンは幾本も飛んで来た矢をすべて叩き落とし、怒鳴った。
「無駄だってのが分かんないのか!」
それで静かになった。どうやら諦めたらしい。アンジェリンはフンと鼻を鳴らして剣を鞘に戻す。
その時、盗賊のいる方から「助けて! 助けて!」と悲痛な叫び声がした。驚いてそちらに目をやる。姿は見えないが、どうやら子供の様だ。さらわれたのだろうか。
アンジェリンは逡巡した。
もう少しでトルネラに帰れる。今更厄介事を背負い込むのは御免だ。だけど、ここで知らん顔をしてトルネラに向かっても、ベルグリフは喜ばないだろう。きっと褒めてもくれないに違いない。
アンジェリンは唇を噛んだ。
さっさと片付けて道を急ごう。ちょっと足止めくらいなんでもない。早く済ましてトルネラに行くんだ。
「……待ってて」
「え、あ、はい」
行商人を残して、アンジェリンは地面を蹴った。素晴らしい速度で瞬く間に盗賊たちの潜む場所まで駆け上がる。
突如として目の前に現れたアンジェリンに、盗賊たちは泡を食ったように慌てている。
見れば、盗賊たちは十五歳くらいの少女を羽交い絞めにして、猿ぐつわを噛ませている最中だ。少女はばたばたと暴れている。質の良い綺麗な服を着ている。貴族かも知れない。
アンジェリンは剣を抜いて盗賊たちに向けた。
「死にたくなければ……その子を置いてどっか行け……」
盗賊たちはうろたえたが、自分たちが捕まえている少女がアンジェリンの目的だと分かるや、咄嗟に少女にナイフを突きつけた。
「おい! 何だか知らねえが、下手に動くとこいつの命――」
だが、言いかけた首がすっ飛んだ。何が起きたのか分からなかった。頭があった所には何もなく、血が噴き出して噴水のように飛び散らかった。
「わたしは機嫌が悪いんだ……」
いつの間にか少女を人質に取っていた盗賊の横まで移動していたアンジェリンは、呆然自失の少女を片腕に抱きかかえたまま、幽鬼の如き足取りでゆらりと動いた。
「もういい……ヴィエナの顔も三度まで。このアンジェリンを甘く見た事を後悔するがいい……!」
それは戦闘などという生易しいものではなかった。まさしく虐殺であった。
二十人近くいた盗賊たちは為す術もなく蹂躙され、ものの数分も経たぬうちにそこいらには物言わぬ屍ばかりが転がった。
一仕事終えた後に欲を出し、行商人と護衛の二人連れ、という見かけばかりは絶好の獲物に油断してかかった彼らの失敗だった。獲物は化け物だったのだ。
圧倒的な実力で危なげなく勝利したアンジェリンだが、うんざりした様子で嘆息した。
「ああ……嫌だ。人殺しなんて……碌なもんじゃない……」
アンジェリンはヒュッと剣を振って血を払い、鞘に収めた。それから人質の少女の猿ぐつわや手を縛っていた縄などを外してやった。
「大丈夫……?」
「けほっ……あ、ありがとうございます……」
少女は手首の縄の跡を苦々し気に眺めながら言った。美しい少女だ。プラチナブロンドの髪の毛は薄汚れているが艶やかで、肌は日焼けもしていない。
「何であんな連中に捕まっちゃったの……?」
「……それが」
少女はセレンと名乗った。
ボルドーの領主の娘だそうで、地方の巡察に回っている途中で、父親が病床に臥して危篤だとの知らせを受け、早馬で戻る途中、盗賊に襲われた。
馬車では速度が出ないからと少数の護衛だけで自ら馬にまたがって行ったのが悪かったらしい。奇襲によって護衛は全滅、彼女もなすすべなく捕らえられてしまった。
「……無様です。これでは結局お父様のお見舞いにも行けない」
セレンはぎゅうと拳を握りしめた。涙こそこぼさないが、その内面は激しい怒りと悲しみで渦巻いているに相違なかった。
「……お父さんに会いに?」
「はい……でも、仕方ありませんね。馬もありませんし、今からボルドーまでは徒歩じゃどんなに急いでも四日以上……これも運命です」
セレンは誤魔化すように微笑んだ。アンジェリンはカッとなってセレンの腕を掴んで立たせた。セレンは青い目を白黒させる。
「えっ、あの、アンジェリンさま……?」
「それでいいのか……! 大事なお父さんなんだろ……ッ! 運命だなんて簡単に言うな!」
アンジェリンはセレンを抱きかかえると、下で待っている行商人の所に滑るようにして戻った。
馬車に飛び込むと、行商人は驚いて飛び上がった。
「うわあ、吃驚した! どうしたんですか、お嬢さん、盗賊は!?」
「退治した。ねえ、商品の分全額に加えて手間賃も払う。損はさせないから、引き返して欲しい……」
「ど、どういう事?」
行商人はアンジェリンとセレンとを交互に見てうろたえる。セレンも状況が呑み込めずに口をぱくぱくさせている。アンジェリンはそんなセレンを抱き寄せて、言った。
「この子は病気のお父さんに会わなきゃいけない……お願い……」
「……分かりました。ホントに全額払ってくれるんですね!」
「うん」
行商人は嘆息すると、馬車を方向転換させた。がたがたの道を来る時よりも少し早足で下る。
アンジェリンは肩を落とした。
ボルドーまで戻ってはトルネラに行く事は出来まい。またベルグリフに会えない。しかし、きっとベルグリフは、アンジェリンがセレンを見捨てて自分に会いに来る事を喜ばないだろう。
見ると、セレンが泣いていた。感情を押し込めて気丈に振る舞っていた娘が、今アンジェリンの腕にもたれてさめざめと泣いている。
アンジェリンは嘆息した。
ごめんね、お父さん。でも、また今度、きっと帰るから。
馬車は山道を下って行く。