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十二.雪が溶けてまだらに


 雪が溶けてまだらになった地面の上で、二つの影が相対して剣を振るっている。

 一方は赤髪、一方はプラチナブロンドだ。ベルグリフとサーシャである。


 トルネラ村には春が訪れ、一斉に野山に花が咲き出すと同時に、積もった雪が解けて地面をまだらにした。

 雪の下からは麦の芽が顔を出し、太陽の光をいっぱいに受けてぐんぐんと伸びようとしている。

 春先、雪がすっかり溶けるとトルネラでは一斉に畑が始まる。

 麦を踏み、畑を起こし、芋を植える。それが一段落すると春告祭だ。誰も彼も冬の間満足に動かせなかった体を思う存分に伸ばして働く。


 ベルグリフも春の仕事でばたばたしている所に、雪が溶けて道が通れるようになったからだろう、サーシャが訪ねて来た。

 何か用事があって来たらしいが、来てすぐに、まずは剣を合わせて欲しいと頭を下げられ、ベルグリフは苦笑交じりに了承した。冬の間、鍛錬をしなかった日はないが、満足いく程に体を動かせたとは言えない。久しぶりに思う存分体を動かしたい、とも確かに思ったからだ。


 二人は鞘を付けたままの剣を振るう。

 前回戦った時よりもサーシャの動きは遥かに洗練され、一撃一撃も重くなった。重心の移動がよりスムーズになり、剣を腕だけで振るう事が少なくなったようだ。

 そのせいで当初はある程度拮抗してたものの、次第にベルグリフは劣勢に立たされ、柄にもなく熱くなった。


「――! やあッ!」

「むっ」


 サーシャの一撃がベルグリフの剣を弾き飛ばす。サーシャはパッと顔を輝かせた。

 だが、ベルグリフは咄嗟に手を伸ばしてサーシャの手首を掴み、捻じり上げた。サーシャは悲鳴を上げて剣を取り落す。その声を聴いて、ベルグリフはハッとして手を離した。


「す、すみませんサーシャ殿! つい癖で……お怪我はありませんか?」


 サーシャは涙目になりつつも、ぶんぶんと首を振る。


「いえ、これはわたしが悪いのです……流石は師匠! 戦いは、勝ったと思って油断した瞬間こそ一番危ないという事ですね! それを知らせる為に敢えて手を抜いてくださるとは……このサーシャ・ボルドー、まだまだ未熟なようです……」

「い、いや……いやいやいや、私はあくまで本気で……」

「次こそは油断せずにきっと一本取って見せます! どうか失望しないでください、師匠……!」


 サーシャは懇願するように涙目のままベルグリフの手を握る。どうしてこう思い込みが激しいのだろう、とベルグリフは苦笑した。

 まあ、どうせ次にやった時は完膚なきまでに負けるだろう。そうすれば誤解も解けるに違いない。


 ベルグリフはサーシャを促して家に入り、お茶を淹れた。サーシャは香りの良いお茶を飲んでふうと息を吐く。ベルグリフは干し葡萄を出して勧めながら言った。


「ボルドーはこちらよりも春仕事が早いでしょう」

「ええ、あちこちで畑を起こし、麦を踏んでいます。魔獣の数はかなり減って来たので、わたしも最近は冒険者稼業よりも内務を手伝う事が増えまして」

「平和なのは良い事です。しかし、何故魔獣が少なくなったのでしょうね」


 ベルグリフが言うと、サーシャはきょとんとした顔でベルグリフを見た。


「えっ……まだ、お聞き及びではないのですか? オルフェン近郊に潜んでいた魔王が討伐されたのですよ。魔獣はその影響で増えていたらしいのです」


 成る程、そういう事だったのか、とベルグリフは納得した。

 魔王というのが本当にいたというのは驚きだったが、冬の貴婦人に言われた事を思い出す。『冬さえも支配しようとした者たち』というのは魔王の事なのだろうか?

 伝承によれば魔王は一体だけではない筈だ。すると、魔王というものが次々に復活するという事だろうか。そうすると、今回はその最初の一度に過ぎないのではなかろうか。


 考え込むベルグリフの前で、サーシャはちょっと興奮した様子で続ける。


「しかもその討伐のメンバーが凄い! “龍殺し”のマリアを筆頭に、“しろがね”のドルトス、“撃滅”のチェボルグ、そして、魔王と相対してこれを下したのは他でもない“黒髪の戦乙女”アンジェリン殿ですよ! てっきりわたしはもうご存知なのかと……」


 ベルグリフは驚いた。まさか娘のやった事だったとは。

 自分も名前を知っている大物冒険者たちとアンジェリンの名前が並ぶのは、何だか自分の事のように嬉しく誇らしい反面、あまり危ない所に行って欲しくはない、とも思う。

 親心とは複雑だ、とベルグリフは顎鬚を撫でた。


「トルネラは冬の間は物資も手紙も殆ど入って来ませんからね……恥ずかしながら今知りました。サーシャ殿、ありがとうございます」

「い、いえいえ……それならば新聞も持って来るべきでした……」

「なに、気にしないでください。魔獣の数が減ったなら、あの子もぼつぼつ帰って来るでしょうから……それで、用事というのは何ですか?」

「ああ、そうです。今回は姉の使いで来たのです。これを渡して来るようにと」


 サーシャが差し出したのは手紙である。宛先は村長のホフマンになっている。ベルグリフは首を傾げた。


「私ではなく村長宛てのようですが……」

「ええ、実はボルドーからトルネラへの道を整備しようという計画が持ち上がっていまして」


 サーシャによると、秋祭りの時にヘルベチカは初めてトルネラに来たのだが、その時は整備されていない悪路に驚いたらしく、ボルドー伯の治める地でありながらも、これでは行き来が難しいと感じた。何かあった時に孤立してしまう可能性もある。

 それに、秋祭りの時に味わったトルネラのチーズや果物の加工品は質が高い。街道を整備すれば、それらをより効率よく外へ売る事が出来るし、トルネラにもより多くの品物を運ぶことが出来るだろう、という事であった。

 確かに、それはそうだろう。もしちゃんとした街道になるならば、冬にだって手紙や物資を届ける事も出来るようになるかも知れない。

 だが、これはベルグリフの一存では決められない。それにそもそも手紙はホフマン宛だ。


 ベルグリフは手紙を持って立ち上がった。


「ともかく、村長の所に行ってみましょう」


 ホフマンは畑を起こしている最中だった。作業歌を歌いながらロバに鋤を引かせている。


「おーい村長」


 ベルグリフが呼びかけると、ホフマンは作業を止めてやって来た。


「おうベル! どうした?」

「ちょっと話があってな。こちらはボルドー家のサーシャ殿」


 ベルグリフに紹介されて、サーシャはぺこりと頭を下げる。


「サーシャ・ボルドーと申します。トルネラの村長殿ですね? 今日は姉、ヘルベチカ・ボルドーの使いで参りました」

「りょ、領主様の妹君……? こ、こいつは失礼をば……」


 跪こうとするホフマンを、サーシャは慌てて止める。


「そんな! いいのです、いいのです! 別に偉ぶりに来たわけではありませんから!」


 その光景を見て、ベルグリフは笑った。


「村長よ、前から思っていたが、あんたの腰の低さは何だか変だぞ?」

「ぐむっ……い、田舎者なんだから仕方がなかろうが」


 ホフマンは大きな体を恥ずかしそうに縮込ませて言った。サーシャはくすくす笑う。

 サーシャを始め、ボルドーの三姉妹は貴族の割にあまり平民に対して偉ぶった態度を取らない。

 元々ボルドー家は地方豪族が祖であり、ボルドー周辺を農民と共に汗水流して開拓した者たちの子孫だ。公国の一部に組み込まれて爵位を与えられてからもその気質は変わっていないらしく、彼女たちは政務の合間合間によく領地を見回り、時には農民たちと作業を共にする事もあるらしい。

 しかし立ち振る舞いは優雅そのものだ。その両面が彼女たちに親しみやすさと近づきがたさの相反する不思議な魅力を与えていた。

 とはいえ流石に遠いのか、トルネラに訪れた事はここ最近が初めてなのだが。


 領主の妹に立ち話をさせるわけにはいかない、とホフマンは家の庭のテーブルに二人を案内した。

 庭の隅には雪が寄せられて山になっている。小さな子供たちがその山を棒でつついたり上ったりして遊んでいた。ホフマンの孫たちのようだ。


「おーいカーチャン! お客さんだぞ! 一番良い茶を淹れてくれ!」


 ホフマンは家の中に大声でそう言い、テーブルに着いた。千切れ雲が流れて、風はまだまだ肌に冷たいが、陽光は暖かい。

 ホフマンは手紙を読んでふむふむと頷く。


「なるほど、街道を……そいつは助かりますな」

「そう言っていただけるとありがたい。是非協力してもらいたいのです」

「ええ、喜んで! ベル、いいよな?」


 ベルグリフは運ばれて来たお茶をすすって頷いた。


「悪い事はないだろう。しかし、決めてしまう前に一度村の皆に言った方がいいと思うな」

「おお、そうだな。後々揉め事になると面倒だからな! サーシャ様、多分誰も反対しねえとは思いますが、そういう事でいいでしょうか?」


 サーシャは快活な笑みを浮かべた。


「勿論! ゆっくりじっくり話し合って下さい! ……このお茶美味しいですねえ!」

「おっ、そうですかい!? こいつは庭で採れたレントの葉のお茶でして! ネリの花の干したのをちょっと入れるのが隠し味なんでさあ!」


 サーシャに褒められてホフマンは舞い上がる。ベルグリフは笑いながらお茶をすする。確かにうまい。レントの葉のお茶はベルグリフもいつも淹れるが、ネリの花を入れるだけでこれだけ違うのか、と少し驚いた。

 サーシャはしばらく歓談した後に帰って行った。春先でボルドーの本領が忙しいようだ。

 別れ際、サーシャはキラキラした表情でベルグリフの手を握り、ぶんぶんと振り回す。


「では師匠! 今回はこれにて失礼いたします! 次回こそは師匠に本気を出していただけるように頑張りますので!」

「あの、サーシャ殿……だから私は」

「それでは! また今度参ります!」


 サーシャは颯爽と馬に乗って駆け去った。個人でAAランク冒険者の腕を持つ彼女は護衛の類を必要としていないらしい。ベルグリフは嘆息した。


「良い子なんだが……」

「おいベル、忙しくなるぞ! 早速今夜は村民会議だ! がはははは!」


 ホフマンはトルネラ始まって以来の大事業に発奮している。ベルグリフは苦笑して顎鬚を捻った。

 まあ、それはホフマンやケリーに任せておこう。午後は子供たちに剣を教えてやらねばならない。



  ○



 がたがたと荷馬車が揺れる。所々に雪が残っているが、もうすっかり辺りは春の気配に満ちて、道の脇には新緑も見て取れた。

 馬車は一頭立てで、手綱を引いているのはアネッサだ。後ろに繋いだ荷車にはアンジェリンとミリアムが荷物の間に挟まるようにして乗っている。

 ミリアムは乾燥させた南部の果物を齧りながら、機嫌よさげに言った。


「空気がおいしー! 胸がすーっとするねー」

「ふふん、そうだろう……この辺は空気が綺麗なんだ」

「ねー。オルフェンってやっぱりちょっと汚かったんだねえ……若作りのおばばもこういう所なら肺にいいかもなー……」


 と無意識に呟いたミリアムは、ハッとして視線を移した。アンジェリンがにやにやして見ている。


「……ミリィはマリアばあちゃんが大好き」

「ちちちち、違うもん! あんなババアの事なんか知らないもん!」

「ふふん、そういう事にしておいてやろう……ほい、アーネ」


 アンジェリンはにやにや笑いながら、手綱を握るアネッサに乾燥果物を渡す。


「ん、ありがとアンジェ。けど、やっぱり結構かかるな。道が悪いのもあってそんなに早く動けないし」

「ねー。でものんびりしてていいじゃない」

「だなあ。急ぐ旅でもないし……あ、アンジェは急ぎたいのか?」


 アネッサの言葉に、アンジェリンは首を振る。


「もう引き留められはすまい……休暇の期限があるわけでなし、とってものびのびした気分。ふふ、突然帰ったらお父さん、驚くぞ……」


 魔王の討伐からひと月以上が経っていた。

 魔王が討伐された頃、オルフェンでは雪解けが始まっていたが、トルネラはまだ雪が深かった。直ぐに帰ろうかと思ったアンジェリンだったが、肩を怪我していた事もあり、雪解けまでは肩を癒しつつ待つことにした。

 そうして雪が溶けた今になって、何とアンジェリンは荷馬車と馬を自前で購入した。そこに土産物を山と積んで、アネッサとミリアムも誘ってようやく里帰りの段になったのである。


 あれ以来災害級の魔獣は何回か出現したが、それは古参の老兵たちが難なく片付けてしまった。それが残党だったらしく、それからは一昔前のその日暮らしの依頼待ちの日々が始まっている。出て行った冒険者たちも少しずつ戻って来ているようだ。

 また、帝都からライオネルのかつての仲間たちも到着した。

 彼らはドルトスやチェボルグらと共にギルドの改革に携わり、まだ試験段階ではあるが、オルフェンの冒険者ギルドは、ギルドマスター一人の采配ではなく、合議制によって方針や問題の対策を決めるように変わった。

 そうする事で、オルフェンのギルドは中央ギルドの既得権益重視の方針から少しずつ脱しつつあるようだった。だが中央からの圧力もかなりあるらしく、問題はまだまだ山積みのようである。


 しかし、最早アンジェリンはそんな事に興味はない。

 オルフェンやその周辺地域の脅威は去った。心置きなくベルグリフに会える、という事が彼女の一大事であった。


 そういうわけで、おおよそ八日ほど前にオルフェンを出てからボルドーを経由して、今はトルネラに向かう最後の旅路だ。今のところトラブルはない。今日中には辿り着く予定である。

 アンジェリンは荷物に背を預けて頭の後ろで手を組んだ。空は青く、陽は温かだ。うつらうつらとするが、時折馬車が石を踏んでがたんと揺れる度に起こされる。

 そやそやと吹く風は春の匂いだ。萌え出したばかりの新芽の爽やかな緑がそのまま香りになったようである。


「ねーアンジェ、薄荷水って何処にしまったー?」

「ん、こっち」

「ミリィ、わたしにもちょっとくれ」

「あいさー。アンジェはー?」

「……わたしはいいや」


 ミリアムが薄荷水の栓を抜くと、胸が透くような匂いが立ち込めた。ミリアムは一口飲み、瓶をアネッサに渡す。アネッサも一口飲んで、ふうと息を吐いた。


「とうとうアンジェのお父さんに会えるのか……楽しみだな」

「けど“赤鬼”って怖そー……優しいのはアンジェに対してだけだったりして?」


 ミリアムがからかうように言うと、アンジェリンは口を尖らせた。


「お父さんはそんな小さな人間ではない……誰にでも優しくてとっても強いんだ」

「はは、アンジェがそう言う人ってのは凄いよなあ……っと」


 向かいから馬に乗った少女がやって来たので、アネッサは馬車の速度を落とし、道の真ん中から少し脇に寄せる。

 馬に乗った少女はすれ違いざまに会釈して通り過ぎようとしたが、何やらハッとした顔になって荷車を見、馬を取って返して馬車の前に出て来た。そして朗々と通る声で言った。


「あいや待たれよ! 馬上から失礼いたします。荷車の方! その見事な黒目黒髪……もしや“黒髪の戦乙女”アンジェリン殿ではございませんか?」


 アンジェリンは怪訝な顔をして頷く。


「そうだけど……どちらさま?」


 少女は馬からひらりと降りて快活な笑みを浮かべて近づいて来た。


「おお、矢張り! わたしはサーシャ・ボルドーと申します! 妹のセレンを助けていただき、誠に感謝の念に堪えません! よもやこんな所でお会い出来るとは……」


 少女はサーシャであった。丁度トルネラから帰る所のようだ。憧れの人物に会えた感動でその目は輝いている。

 しかし、アンジェリンの顔からは表情が消えた。


「……セレンのお姉さん?」

「はい! 同じ冒険者としても、アンジェリン殿の事は尊敬して――」

「そうか……お前がそうか……」

「えっ」


 アンジェリンは荷車から飛び降りた。

 ゆらり、と幽鬼の如き足取りでサーシャにゆっくりと近づく。恐るべき闘気と威圧感である。殺気すらも出ているようだ。AAランクの実力を持つはずのサーシャが、本能的に怯えを感じて後退った。


「ア、アンジェリン殿……? わ、わたしが何か……」

「わたしを差し置いてお父さんを取ろうとは良い度胸だ……しかし、軽々とわたしのお母さんになれると思うなよ……」

「な、何をおっしゃっているのですか!?」

「しらばっくれるなよ……お父さんを無理矢理にボルドーに連れて行こうとした事は知ってるんだぞ……」

「い、いや、それは誤解です! それはわたしではなくて姉――」

「ふ、ふふ……ふ……言い訳無用。お前がきちんとお父さんの素晴らしさを理解しているのか、わたしが徹底的に確かめてやる……!」

「な、なにをするのですか!?」


 アンジェリンはがっしりとサーシャの肩を掴んで、顔を覗き込んだ。修羅の如き形相である。サーシャは恐怖のあまり「ひい」と小さく悲鳴を上げた。Sランク冒険者とはここまで恐ろしいものなのか。

 アンジェリンはゆっくりと口を開いた。


「……第一問……お父さんの好きな食べ物は?」

「ひっ…………え? た、食べ物ですか? ベルグリフ殿の好物?」

「そう……早く答えろ」

「わ、分かりません! 一緒にお茶を飲んだ事しかなくて、食事を共にした事はないのです!」


 サーシャが叫ぶように答えると、途端にアンジェリンはフッと嘲笑するような表情になった。


「そんな事も知らないのか……いいか、お父さんは羊の肉とクリョウの実を一緒に煮込んだのが好きなんだ。塩は少し濃い目に効かして、干したオレガノで香りを付ける……それに薄パンを浸して食べるんだよ……わたしも大好きだ。それと」

「アンジェ、ちょっと落ち着け馬鹿」


 アネッサがこつんと頭を小突いた。アンジェリンは目を細めてアネッサの方を向く。


「なに? 今忙しい……」

「ちゃんと聞いてやれよ……話が噛み合ってないぞ」


 アンジェリンは首を傾げる。ミリアムは荷車でくすくす笑っている。

 サーシャの必死の弁解で誤解は何とか解けた。早とちりしたアンジェリンは赤くなってむくれてしまい、サーシャは震えが止まらずしゃがみ込んだ。その背中をアネッサがさすってやった。


「大丈夫でしたか? あいつ、父親の事になると人が変わるもので……」

「は、は、はい。何とか……」


 サーシャは何度も深呼吸をして、ようやく落ち着きを取り戻した。ミリアムが薄荷水を飲ませてやる。清涼感のある水で胸を透かしたサーシャはぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございます、おかげで落ち着きました」

「いえいえ、こちらこそうちの馬鹿が失礼しました。ほら、アンジェ。いつまでもむくれてないでちゃんと謝れ」


 アンジェはとムスッとしたままサーシャに頭を下げた。


「ごめんなさい……」

「い、いえいえ、誤解が解けて何よりです……」

「けど、サーシャさんも冒険者なんだねー。貴族からドロップアウトした冒険者は知ってるけど、貴族のまま冒険者やってる人って初めて会ったかもー」


 ミリアムの言葉に、サーシャは照れ臭そうに頬を掻いた。


「ええ、普通の貴族は、卑しい職業として冒険者を蔑みますからね……わたしなどは珍しい存在でしょう」

「AAランクだっけ? もう少しすればランクも上がりそうだねー」

「わたしなどまだまだ! せめてベルグリフ殿に本気になっていただく事が出来て、初めて一人前になれるかと」

「ベルグリフ……ってアンジェのお父さんですよね? サーシャさんはアンジェのお父さんに剣を?」


 サーシャは目を輝かせた。


「ええ! そうなんです! アンジェリン殿の父君にして師である“赤鬼”のベルグリフ殿! 素晴らしい剣技をお持ちなのです! 右足は義足なのですが、それをそうと感じさせぬどころか、むしろそれを活かした変則的な動きを自ら編み出されておられる! 振るわれる剣は腕だけでなく全身のしなりを使っている為に、速く、重い! また、戦術眼にも長けていらっしゃる! 先ほど立ち会わせていただいた時、わざと手を抜いてわたしの剣を受けられた! そして師匠の剣を飛ばして有頂天になったわたしの手を捻じり上げたのです! 戦いとは勝利した時こそ油断するな! 今日も素晴らしい教えを授けていただきました! 次回こそは師匠に本気を出してもらえるよう、わたしも努力したい!」


 熱弁するサーシャに、アネッサは若干引き気味である。ミリアムは面白そうな顔をして聞いている。


 アンジェリンはというと、音も立てずにゆらりとサーシャに近づき、がしっとその肩を掴んだ。

 先ほどの恐怖が身に染みているサーシャは思わず凍り付く。


「……サーシャ!」

「はっ、はいっ!」

「あなたを誤解していた事、許して欲しい……あなたは同志だ……!」


 そう言って、アンジェリンは感動した面持ちでサーシャを抱きしめた。


「お……おお……! み、認めていただけるのですか、アンジェリン殿……! このサーシャ・ボルドー、早くあなたに追い付けるよう努力する所存です……!」


 サーシャは感激のあまり涙を流してアンジェリンを抱き返す。そうして二人して抱き合ってくるくる回っている。

 アネッサが呆れたように呟いた。


「なーんか……やっぱり噛み合ってない気がする」

「ふふっ、サーシャさんっておもしろーい」


 一行は少しの歓談の後、サーシャと別れて再びトルネラへの道を辿る。


 次第に開拓された土地が広がり出した。青々とした麦の若葉が、溶けかけた雪から顔を出している。

 もうあと少しでトルネラに付く。近づくほどにアンジェリンは懐かしさで胸がいっぱいになるようだった。


「もう少しだ……」

「おー、畑が広がってきたな。綺麗だ」


 アネッサが気持ちよさそうに深呼吸する。ミリアムはいたずら気に笑ってアンジェリンに話しかけた。


「アンジェ、もうちょっとでお父さんに会えるよー。今の気持ちはどーですかー?」

「とても嬉しいです……! 生きてて良かった……!」

「何言ってんだか……」


 アネッサは呆れながらも、馬に檄を入れて少し急がせる。

 荷車から見る風景は、ここを出た時と殆ど変わっていないように思われた。

 同世代の子供たちと遊びまわった平原、ベルグリフに連れられて歩いた小道、どんぐりを拾った林、そんなものが目に飛び込む度に、アンジェリンの胸はきゅうと締まった。

 長い事寂しかった。もうその寂しさは埋まる。


 しかし、同時に妙な不安が頭に浮かんで来た。

 風景は変わっていない。しかし、ベルグリフはどうだろう?

 アンジェリンには、オルフェンでベルグリフに代わる存在はいなかったが、ベルグリフにはいるとしたら?

 現に、サーシャという新しい弟子もいるようだ。彼女は年齢がアンジェリンと同じである。快活で、明るくて、可愛らしい。あれだけ夢中になって語れる程にベルグリフに心酔している。一途に慕われて悪い気はすまい。

 また、幼い子供たちはトルネラにもいるだろう。ベルグリフの事だ、その子たちも自分の子供の様に可愛がるだろう。


 それに、ボルドーの女伯に迫られたとも聞いた。

 セレンもサーシャも美人だ。その姉なのだから、きっと美しいだろう。

 ベルグリフは断ったようだが、もしそれが自分のせいだったら?

 責任感の強いベルグリフの事だ、自分が足枷になってしたい事が出来なくなっている可能性だってある。

 自分がいなくても大して寂しがっていなかったら?

 自分が帰って来る事をそんなに楽しみにしていなかったら?

 心の中では自分の事を疎んでいるとしたら?


 アンジェリンはぶんぶんと首を振った。


「……お父さんはそんな人じゃない……!」


 しかし、不安は逃げて行ってくれない。村が近づくほどに、不安が大きくなり、あれだけ帰りたかったトルネラから、不意に逃げ出したくなるような気持ちに駆られた。胸の中がもやもやする。


 村の中に入る。

 仕事をしていた村人たちが奇異の目で馬車を見、アンジェリンに気付いて目を剥く。しかしアンジェリンは俯き気味のままそちらを見ようともしない。


「アンジェ、どっちに行けばいい?」


 アネッサが尋ねた。アンジェリンはハッとして顔を上げる。見慣れた懐かしい風景が目に映る。


「……あっち」


 馬車はアンジェリンの示す方に進む。


 やがて、一軒の家の前に来た。アンジェリンは恐る恐るそちらを見る。

 庭に子供たちが集まっている。木剣を持って振っているようだ。それをベルグリフが優し気な目で見守っている。

 胸が締め付けられる。涙がこぼれそうだ。


 アンジェリンはおずおずとした足取りで荷車を降りた。

 子供たちの一人がアンジェリンに気付き、指を差して何か言う。ベルグリフがこちらを向いた。少し皺が増えただろうか。けれど、同じだ。同じ、優しい目だ。


「……! あのねっ!」


 アンジェリンは思わず駆け出して、庭に飛び込んだ。そうしてベルグリフの前に立って喚き立てる。


「わたし……わたしっ! いっぱい頑張ったよ! Sランクになって! 魔獣をいっぱいやっつけて! あのっ、そのっ、この前は魔王ってのも倒したし……えっと……わたし、頑張って……」


 言いたい事がまとまらず、しどろもどろになるアンジェリンの頭に、ふわりと大きな手が置かれた。長い間剣と鋤を握り続けたごつごつした手の平が、愛おし気にゆっくりと髪の毛を撫でる。フッと力が抜けた。

 ベルグリフが言った。


「大きくなったなあ」

「……うん」

「髪の毛も伸びたな。よく似合ってる」

「……うん」

「すっかり立派になった。一瞬誰だか分からなかったよ」

「……うん」


 自分は、どうしてこの人を疑ってしまったんだろう。ぼろぼろと、涙がこぼれた。

 ベルグリフはにっこりと笑った。


「お帰り、アンジェリン」

「……ただいま、お父さん!」


第一部終了です。

ちょいと書き溜めをしたいので、次回更新は未定です。

他の素敵な作品を読みながらのんびりとお待ちください。

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