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八.オルフェンの都の西、大小の


 オルフェンの都の西、大小の岩が転がる荒れ地で、幾つもの複雑な幾何学模様が空中に漂ったと思ったら、そこから強烈な雷撃が迸り、辺りを駆け回っていた蜘蛛の魔獣を黒焦げにした。


「まだまだ行くよぉー」


 ミリアムが軽い口調と共に杖を振る度に、空中には幾何学模様が現れ、次から次へと雷撃が走る。

 その少し後ろで、アンジェリンとアネッサはその様子を眺めていた。


「……こういう殲滅戦は魔法が便利」

「ホントだな。けどミリィの奴、ストレスでも溜まってるのか?」


 ミリアムの魔法の勢いは尋常ではない。怒っているかのようだ。アンジェリンはにやりと笑う。


「多分……お気に入りのお菓子が売り切れだった」

「……あり得ないと言い切れないのが悲しい、っと」


 アネッサは機敏な動作で三本まとめて矢をつがえ、放つ。

 矢は雷撃が仕留め損ねた蜘蛛の魔獣の眉間を正確に撃ち抜き、炸裂した。矢に爆発の術式が刻んであるらしい。

 爆風に煽られて、ミリアムの大きな三角帽が飛んで来た。


「おっと」


 アンジェリンは駆けて行って帽子を捕まえる。

 程なくして、荒野を所狭しとうごめいていた蜘蛛の魔獣は全滅した。少女たちは涼しい顔をしている。一応AAランクの災害級魔獣なのだが。

 アンジェリンは伸びをした。


「アーネ、この調子で早くSランクになってわたしに楽させて……」

「なんだそりゃ……」


 ミリアムが足早に駆けて来た。


「あーん、帽子が飛んだぁ」


 帽子を被っていない頭の上には、猫の耳がぴんぴんと揺れている。

 いつもは帽子で隠しているから分からないが、ミリアムは獣人である。ローブの中には尻尾も隠れている。

 とてとてと駆け寄って来たミリアムに、アンジェリンは帽子を手渡した。


「ほい」

「ありがとー、アンジェ」


 ミリアムはアンジェリンから帽子を受け取り、目深にかぶった。そうしてぶるるっと体を震わせる。


「うー、さむーい。もうすっかり冬だねえ」

「そうだな。早く戻ってホットワインでも飲もう」


 三人は連れ立ってオルフェンに戻る。帰路の途中、朝から分厚く垂れ込めていた雲が一層暗さを増し、とうとう雪を降らせ始めた。

 風はすっかり冷たくなり、風花が混じるようになった。むき出しの耳や鼻は冷風に晒されて赤くなる。吐く息は白い。

 大陸でも北部に位置するオルフェンの冬は寒い。しかし、さらに北部のトルネラ育ちのアンジェリンは、この程度の寒さは何という事もなかった。

 手にはーっと息を吹きかけながら、アネッサが呟いた。


「冬か……手がかじかむのは困るなあ」

「弓使いは指先大事だもんねえ。手袋でも買うー?」

「んー、素手で慣れちゃってるからな。指出し手袋ならいいかもな」

「いや……むしろアーネが活動できない事を理由に冬の間は仕事を休むべき。そしてわたしはトルネラに帰る。完璧」

「またそんな事言って……大体、この時期は雪がひどくて北部には行けないだろう」

「ぐむう……」

「でもわたしも休みたーい。温泉とか行きたいなあ」


 秋に入ってからというもの、細々とした休みこそあったけれど、三日以上も続けて休んだ記憶は確かにない。どれだけ討伐しても、魔獣たちの動きは落ち着きを見せるどころか活発化しているように思われた。最近はAランク程度の魔獣でもアンジェリンたちに声がかかる。あまりの魔獣の多さに辟易した冒険者たちが少しずつオルフェンの町から出て行っており、冒険者の数が足りていないのだ。


「……ギルドの冒険者不足が深刻」


 アンジェリンは呟いた。アネッサが同意して頷く。


「うん、それはわたしもそう思う。せめてBランクでいいからもう少し増えてくれるといいんだけど」

「オルフェンから離れる冒険者も多いらしい……高位ランクの連中も離れ出してる。まずい」

「そりゃ、これだけ魔獣ばっかり発生してちゃ休む暇もないからな」

「ねー。災害級は依頼料も多いから普段なら皆喜ぶけど、これだけ続いちゃ疲れちゃうよねえ」

「だな。それに冒険者って元々束縛されるのが嫌いな連中ばっかりだから」

「……何か考えねば」


 ともかく三人はギルドに戻って、討伐依頼の完了を報告する。受付嬢はにこにこしながら、しかしどこかくたびれた様子で完了印を押す。ミリアムはうーんと伸びをした。


「よーし、酒場行こー。甘いホットワイン飲みたーい」

「……先に行ってて」

「どうした? 何かあったか?」

「野暮用……後で合流するから」

「ふぅん?」


 アネッサとミリアムは首を傾げながらも、じゃあ先に行ってるね、と出て行った。アンジェリンは受付に向き直る。


「ねえ、ギルドマスターいる……?」


 ムスッとしたアンジェリンの言葉に、受付嬢はギョッとしてしどろもどろになった。


「え、え、あの、なんでですか? 何か不都合でも?」

「不都合がないと思っているのか……ッ! でも今回はいつにも増して真面目な話だから居留守はなし。呼んで」


 受付嬢は迷っていたが、やがて観念したように後ろの扉に入って行った。しばらくしてから、白いものが混じったぼさぼさの茶髪をだらしなく伸ばした中年男が現れた。オルフェンの都のギルドマスター、ライオネルだ。

 ライオネルはくたびれた様子で面倒くさそうにぼりぼりと頭を掻いた。アンジェリンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「今日は逃げずに出て来たな、ギルドマスター……」

「なんか用? 長期休暇はもうちょい待ってよ、アンジェさん」

「今日はその事じゃない……冒険者が不足し過ぎ。大体、高位ランクの冒険者がギルド勤務みたいになってるのがおかしい。冒険者は、本当は束縛される存在じゃない。依頼を受けるかどうかは自由意思の筈だろ……だから冒険者もオルフェンから逃げるんだ」


 ライオネルは困ったように頬を掻いた。


「いや、だって今は災害級の魔獣が異常発生してるんだからさ、自由意思に任せっぱなしじゃ一般人の死人が増えるし、潰れる村とか町だって増えちゃうから……」

「だったら早く魔獣の大量発生の原因を調べて……いつまでもわたしたちばっかり拘束されるのは不公平……」

「いや、それに関しては申し訳ないと思ってるし、めっちゃ感謝してるよ。けどAランク昇格の時に、高位ランクの冒険者は災害級魔獣対策に、ある程度の拘束があり得るって、説明したじゃない。そりゃ、ちょっと前はここまで災害級ばっかり出る事はなかったからその辺は緩かったけど、この現状じゃ仕方がないじゃん……どっちにしても約束は守ってよ。力がある人にはある程度の義務があるもんだって」

「現状を打破しようとしないなら、文句くらい言う権利はわたしにだってある……!」

「だから、その分依頼料も増額してるし、固定給も出してるじゃないのさ。今までこんな事なかったんだよ? 俺が現役の頃なんかさあ」


 ライオネルの言葉を遮って、アンジェリンはイライラした様子で言う。


「お金の問題じゃない……! わたしは魔獣を殺し続けるために冒険者になったわけじゃないんだぞ! いつまでもわたしたちに甘えてられると思うなよ……! 冒険者もどんどんオルフェンから離れてるじゃないか! 早く原因を解明しないとジリ貧だぞ、分かってるのか!」

「んー、そりゃ俺も思ってるんだけど、そういう調査だって冒険者の仕事になるじゃない? だけど魔獣の発生の方が早くて中々暇がないんだよね。人命無視して調査に人割くわけにいかないし、近隣の町のギルドも同じだから、冒険者の数が多いウチに次々仕事が回って来るし、困ったもんだよ。おかげでおじさんもくたくた」


 アンジェリンは眉を吊り上げた。


「しらばっくれるなよギルドマスター……! 自分が面倒臭いから怠慢してるだけだろ……! 人が足りないなら傭兵とか仕事にあぶれた腕自慢をスカウト出来るし、その気になれば引退した冒険者を引っ張って来て臨時の冒険者にでも出来るし、オルフェン周辺じゃ冒険者がいないならエストガルの冒険者に応援を頼めよ! それに領主に軍隊を動かしてもらえばいいだろ! これはもう冒険者だけの問題じゃないんだぞ!」


 ライオネルはバツが悪そうに口を曲げた。


「だってなあ……これ以上仕事が増えるとおじさん過労死しちゃうよ、もう三十九だし」

「わたしたちに散々働かせておいて何を言うか……ッ! 前線で命をかけないんだから、もう少し骨折りしろ! だから冒険者も逃げて行くんだよ!」


 アンジェリンは拳骨でカウンターをぶっ叩いた。受付嬢が「ひええ」と一歩引く。ひび割れがさらに深くなった。

 ライオネルは諦めたように言う。


「分かった分かった。色々手続きやらあるからすぐには無理だけど、何とかするよ」

「約束だぞギルドマスター……早くしないといずれ本当に死人の方が増えるぞ……」

「まあまあ、いざとなったら俺も本気出すから。ほら、おじさんこう見えて元Sランクだし」


 なだめるように言うライオネルを見て、アンジェリンはふっと嘲笑を浮かべた。


「……わたしに一撃で負けた癖に偉そうな事を」

「ちょっ! それは言わない約束でしょアンジェさん! 嘘! 今の嘘だから! ギルドマスターはギルドで最強です!」


 受付嬢がジトッとした目でライオネルを見ている。


 ひと昔前、凄い勢いでランクを上げて行くアンジェリンを面白く思ったライオネルは、こっそりと模擬戦を申し込んだ。調子に乗った小娘に少しお灸を据えてやろうという思いもあったのだが、結果は脳天への一撃で昏倒したライオネルの完敗であった。

 ギルドマスターとしての威厳がなくなる、とライオネルはこの事を秘密にしておいて欲しいとアンジェリンに頼んだ。しかし元々ライオネルにそういった威厳はない。誰も口に出しては言わないが、ギルドの職員から冒険者まで皆そう思っている。その親しみやすさが彼の長所であり、短所でもあった。


 ともかく言質を取ったアンジェリンは肩を怒らせながらギルドを出て、いつもの酒場に向かった。

 雪は次第に強くなり、雲が分厚いのもあってとても暗い。まだ日暮れ前だというのに、街灯に火が灯され始めていた。

 酒場の中は狭いのに人が多く、熱気でむせ返るようだった。暖炉で赤々と火が燃えているし、酔っ払いが大騒ぎしている。隙間から吹き込む風も涼しいと感じるようだ。

 カウンター席に腰かけていた二人の隣に座る。


「……ホットワイン。スパイスたっぷり入れて。あと鴨肉のソテー」


 酒場のマスターは他の客に対応しながらも、ちらとアンジェリンに目をやって頷く。もうこのマスターとも顔馴染みだ。恐ろしいほど寡黙で愛想もないからあまり話した事はないし、未だに名前すら知らないのだが。

 ミリアムがうまそうにワインを舐めながら言う。


「野暮用って何だったのー?」

「……魔獣の大量発生の原因解明に力を入れろと釘を刺したの」


 アネッサがチーズを勧めながら言った。


「そう上手く行くかな? 高位ランク冒険者は皆依頼で引っ張り出されてるか、現状に不満を持って他のギルドに逃げてるのに、誰が調べるのさ」

「引退した人たちを引っ張って来ればいい……しろがねのおっちゃんとか、マッスル将軍とか」

「チェボルグさんをマッスル将軍て呼ぶのやめろよ……でもあの人たちもう結構な歳だからなあ……大丈夫かな?」

「……ホントにそう思うの? アーネ」

「……いや、正直あの人たちが老衰でどうこうなっているのは想像できない」

「でしょ? 何で引退したのか、謎……」


 アンジェリンは前に置かれたホットワインをちびちびと舐めた。蜂蜜とスパイスがたっぷり入っていて、甘くて熱くて香ばしくて、体の底に火が灯るような心持だ。鴨肉のソテーもいつも通り脂が乗っていてうまい。

 次第に外は風も強くなっているらしい、びょうびょうと鞭を鳴らすような音がして、締め切られた窓ががたがた言う。人が出入りするたびに開く入り口から風と一緒に雪が吹き込んで来る。今夜は特に冷えそうだ。


 トルネラに暮らしていた頃は、こういう寒い冬の晩はいつも以上にベルグリフにくっ付いて眠った事を思い出す。

 冒険者になるためにオルフェンの都まで出ると決めてからは極力一人で眠るようにしていたが、あんまり寒かったり心細かったりするとベルグリフの寝床にもそもそと潜り込んだものだ。アンジェリンの手足が冷たいからベルグリフはびっくりしたが、結局苦笑しながら一緒に寝てやっていた。

 アンジェリンは、ほうと嘆声を漏らす。


「お父さんは温かかった……」

「なんだって?」

「お父さんは抱き付くととっても温かかった。こんな寒い日は特に」

「アンジェはホントに甘えん坊だねー。あははー」


 けらけら笑うミリアムに、アンジェリンは口を尖らした。


「お父さんに甘える事は何も恥ずかしい事ではない……そういう二人はどうだったの」

「んー、わたしらは孤児院だろ? 冬も一応寝床は別々だったけど、布団の数が増えるわけじゃないからさ、何人かで同じ寝床に詰まって、それで布団を重ね掛けして寝たな」

「そうそう。アーネはねー、寒がりだからよくわたしに抱き付いてたんだよぉー」

「なっ、馬鹿言うな! 抱き付いて来たのはお前だろ!」


 気付くとミリアムは既にホットワインを何杯も干して良い具合に回っている。頬が赤くなり、目はとろんとして、やたらとアンジェリンやアネッサに甘えた。


「ふにゃーん、いいきぶんー」

「ああもう、飲み過ぎだ馬鹿。大して強くもない癖に」

「寒いからうまい……仕方がない」

「手遅れになる前に連れて帰ろう……アンジェ、お前はどうする?」

「わたしはもっと飲む。鬱憤を晴らすのだ……」

「あーん、わらひももっとのむぅー」

「お前は駄目! じゃあ、また明日な」


 ふにゃふにゃと暴れるミリアムを引っ張ってアネッサは店を出て行った。二人は小さな家を共同で借りているらしかった。こんな晩は、二人は同じ寝床で寝るのかしらん? とアンジェリンは思った。


 一人になったアンジェリンはホットワインをもう一杯と焼いた腸詰、酢漬けの蕪を頼む。

 もしも傭兵や仕事にあぶれた腕自慢をスカウトし、かつての高位ランク冒険者たちが復帰して来れば、冒険者の数はまかなえる。原因の解明も早まるし、解明した後の対策も取りやすいだろう。アンジェリンたちの負担も大分減る筈だ。高齢などで依頼を受ける事が出来ない元冒険者でも、下位ランクの冒険者たちの指導くらいは出来るだろう。冒険者の質を底上げすれば、結果的にアンジェリンは休暇を取りやすくなる。


「けどな……そううまくいくかな……」


 思い出せば、お父さんは教えるのがとっても上手だった。あまり喋り過ぎず、けどずっとわたしの事を見ていて、必要な時にきちんとアドバイスしてくれたっけ。お父さんがギルドの教官だったらなあ。

 と、そこまで考えて、アンジェリンの脳裏に稲妻が走った。


「なんで…………思いつかなかったんだろう……」


 自分が帰るのではなく、ベルグリフを都に呼べばいいではないか。今の自分の収入ならば十分に可能である。そうすれば依頼を受けて帰って来る度にベルグリフに撫でてもらえる。自分の見知った人たちに紹介するのだって容易い。

 だが悲しいかな今は冬。トルネラは雪に閉ざされ、都まで出るのも一苦労だ。手紙も容易に届かない。


「くそう、わたしのお馬鹿さん……」


 アンジェリンはホットワインを一口で半分飲み、ふうと息を吐いた。


「…………けどなあ……」


 何となく、ベルグリフとトルネラはセットのような気もするアンジェリンである。

 確かに都にベルグリフを呼んで、この酒場や美味しいお菓子屋に連れて行ってあげたい。アネッサやミリアムを始め、仲の良い冒険者たちを紹介したい。

 けれど、それ以上に自分はトルネラの山で岩コケモモを取りに行きたいし、あの小さな家で皿を洗ったり、畑を耕したり、そういう事がしたいのだ。そこにベルグリフがいて見守ってくれていれば言う事はないのだ。


「……やっぱり帰りたい」


 アンジェリンはべたーっとカウンターに顎を付けた。ひんやりしていて、ワインで火照った顔に心地よい。


 空いた隣の席に別の客が座った。こんなに寒くて雪も降っているのに、お客は次々に出入りしている。きっと皆ぬくもりを求めているに違いない、とアンジェリンは思った。


「……ん」


 マスターが腸詰と酢漬けの蕪、ホットワインの追加を前に置いた。相変わらず愛想も何もない。

 アンジェリンは会釈して硬貨を何枚かカウンターに置く。

 肉汁のたっぷり詰まった腸詰をかじっていると、隣から「あら」と声がした。見ると、青髪の女行商人が座っていた。

 意外な人に会った、とアンジェリンも目を丸くする。


「おや……いつかの」

「どうもどうも、アンジェリンさん。その節はお世話になりまして」


 女商人はにこにこ笑った。

 彼女とはセレンを盗賊から助けた時以来である。半年近く顔を合わせていないが、二人きりの道中が何日も続いた事や、セレンと盗賊の騒動、さらにボルドーまで引き返すという印象的な出来事で、アンジェリンも彼女の事を覚えていた。女商人の方も“黒髪の戦乙女”の事を忘れる筈がない。


「元気そうでなにより……」

「ええ、おかげさまで」

「……オルフェンに来てたんだ」

「あはは、今さっき着いたんですよ。エルブレンの魚をボルドーに運んで来まして。この時期は冷蔵魔法要らずで経費が安いですからねえ」

「ボルドーか……ここより寒かったんじゃない……?」

「ですねえ、すっかり冬ですし。あたしはエストガル出身だから、寒いのはちょいと苦手なんですよね」

「なのに北部に来ちゃったの……」

「たはは、そこが行商人の因果な所です。あれ以来ボルドー家の方からの覚えも良くてですね、すっかり北部での商売がやりやすくなっちゃったんです。あたし、橇まで買っちゃいまして」


 女商人はえへへと笑いながら、ホットワインを一口すすった。彼女もセレンの恩人の一人としてボルドー家から色々便宜を図ってもらっているらしい。

 ふと、女商人は思い出したように言った。


「そういえば、秋祭りの時にトルネラに行ったんですが、お父さんにお会いしましたよ」


 途端、アンジェリンはずいと女商人に詰め寄った。女商人は「ひえ」と小さく悲鳴を上げた。


「どうだった? お父さん、元気だった?」

「え、ええ。具合が悪い感じじゃなかったですよ、ボルドー家の親衛隊を難なくあしらってましたし」

「え……なにそれ。どういう事……?」


 女商人は秋祭りでのヘルベチカとベルグリフの悶着を説明した。アンジェリンは不機嫌そうに眉をひそめ、口をへの字に曲げ、指先でカウンターをしきりに叩いた。


「おのれ……お父さんを横取りしようとしやがって、セレンのお姉さんだからって許さんぞ……!」

「ま、まあまあ、結局その話はなくなったんですから」

「うむ……流石はお父さんだ……クール。カッコ良かったでしょ?」

「ええ、正直驚きました。動きに無駄がなくて、右足が義足なのにしばらく気付きませんでしたもん」

「そう……きっと両足があればもっと凄い」

「“赤鬼”って感じの見事な赤髪でしたねえ。落ち着きがあって、大人の男性って感じで、アンジェリンさんが会いたがるのも分かりましたよ、ふふ」


 リップサービスのつもりだろう、女商人は軽い調子で言う。だがアンジェリンは目を輝かせて女商人の肩を掴んだ。


「あなたは話が分かる……」

「え、あ、はい」

「こうなったら今夜はとことんお父さんの魅力を語り合う他ない……!」

「ちょ、ちょっとアンジェリンさん?」

「大丈夫、ここの支払いはわたしが持つ」

「そ、それはありがたいですけど、わたし明日は商談が」

「気にしない。損が出ればわたしが出す」

「いや、商人って信用も大事なんですけど……」

「マスター、ホットワイン二つ追加。あとチーズ。大至急」


 アンジェリンは財布から硬貨を無造作に掴み出してカウンターに置く。目が据わっている。ホットワインが良い具合に回っているのだろうか。

 駄目だ、これは逃げられない、と青髪の女商人はため息交じりに笑い、覚悟を決めた。Sランク冒険者に捕まっていた、と説明すれば明日の商談相手も納得してくれるだろうか、などと淡い期待を抱きながら。


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