第35話 「歪の杯 2/6」
盾に押し上げられて宙を舞ったケイだったが、彼女は持ち前の年齢不相応な機敏さを発揮して体勢を立て直し、軽やかに着地した。
その時点で、彼女は一つの違和感に気づいていた。
「お前たち、魔鉱石はどうした?」
「魔鉱石? って、何かどっかで聞いたような……?」
「ぼくたち、そんなのいらない。なくてもまほう、つかえる」
首を傾げるナナシに対して、ジョンは不揃いの髪を振り乱して首を左右に振る。
確かに魔鉱石がなくとも魔法は使えるが、構成を編み間違えれば暴発するおそれがある危険な手だ。加えて言えば、魔法の展開までにかなりの時間がかかる悪手でもある。だというのに、魔鉱石を持たない目の前の少女はケイの行動に多少の後れを取りながらも対処している。
その俊敏さに、ケイは心底驚いていた。
ジョンは盾の隙間から目に見えぬほどの極細の針を広げて、ケイに向かって一点集中で解き放つ。
ケイはそれを空気を裂く気配で察して、すぐさま後方に飛び退いた。それでもまだ追ってくる針の群をかわし続け、ジョンはそれに合わせて次第に攻撃の速度を上げていく。
ジョンは既に、ケイに対して油断は禁物だと認識を改めていた。
彼女の頭の切り替えと順応の早さに、ケイはわずかに冷や汗を垂らす。その後込みのせいで足下への意識が疎かになったのかもしれない。ケイは踵に転がり込んだ小石に足を滑らせ、体勢を崩してしまう。
そんな好機をジョンが見逃すわけがなかった。彼女は凝縮した魔力で赤を通り越して白く燃え立つ炎を生みだし、勢いのままケイにぶつけた。その炎は例えケイが盾の魔法を張ったとしても、それを突き破って襲いかかるだろう。
しかし、そうはならないと分かっていたからこそケイは笑った。
ジョンの白炎はケイの目の前に編み上げた厚い盾に阻まれ、消沈した。続けざま、その防御を援護するように、後方からジョンに向かって弾幕が降り注ぐ。
それを隠れ蓑に、ケイは助けてくれた二人の元まで一息に戻って来た。
「先生! あまり勝手をしないでくださいまし!」
「そうよケイ! 貴方一人で前に出過ぎなのよ!!」
「いやぁ助かった。お前たちなら何とかしてくれると思っていたよ」
「心臓に悪いです!」
「間に合わなかったらどうするのよ!!」
ジーノとノーラに「二度とするな」とこっぴどく怒られ、ケイは首を縮めた。
ジョンはそのやりとりを外野から悔しそうに眺め、
「むー! うっとうしい。ななし。ちょっと、まりょくかして」
「俺の魔力を貸す?」
「こやで、さいしょにやったのと、おなじやつ。ぼく、ななしにえんきょりのこうげき、おしえたげる」
「マジで? やった! 僕もついにレベルアップだな」
ナナシもここに来るまでの間に魔法を使っていたものの、それは乗馬鞭に魔力をまとわせて切りつけるくらいだった。火の玉や氷の針を飛ばすジョンを見てうらやましく思っていたナナシにとって、それは願ってもない提案だった。
「何をするつもりか分からないけれど、そんなことさせないわよ!」
「オカーサン、うるさーい」
ジョンは自分とナナシを球状の盾で囲んでノーラの攻撃を防いだ。その盾は次期元老というノーラの魔法を以てしても、ひび一つ入らなかった。
ジョンの魔力量はジーノに劣るものの、それに次ぐものであることは確かだった。彼女はいつかと同じようにナナシの心臓の上に手を置いて、彼の赤い命の流れを管の上からなぞって鞭を持つ手へと押し流していった。
その儀式的な行為を見つめ、エースが半信半疑で呟く。
「何なんだ、一体。魔力を借りるなんて、実際にそんなことができるのか?」
自分の魔力を他人に譲渡することはできても、それを借りるという話は聞いたことがなかった。興味をそそられつつもおののくエースの後ろで、ソラは自分が持つ確信を持て余して胸元をきつく掴み上げていた。
「……」
ナナシと名乗るあの男の言葉遣い。外来語を口にする彼は自分と「同じ」だ。
「どうしよう。こんなの、想像もしてなかった……」
間違いなく、彼は同じ世界からやってきた異世界人だ。
そんな彼がこの世界で破壊行為を行っている。
破滅的なことを言っている。
話を聞いた限りでは、それには理由があるようだった。具体的に何とは知らないが、とても胸が悪くなるような、それでいて尤もと言うほかないそれが。
だが、ソラにとって彼の理由はどうでもよかった。
ソラはあたりを見回し、現状を把握する。知の都はナナシたち二人の攻撃で無惨に破壊されていた。あちこちにがれきが転がり、建物は崩れ、燃えている。
つい先ほどまでそこにあったはずの平穏はかき消えた。この災難が終わったとしても、すべてが簡単に元通りとはいかない。日常を失った人々は都を襲撃した二人を恨むだろう。
壁の外で再度対峙したあの少年と同じ目をして……。
ソラは少年騎士に言った。世界に仇をなすつもりはないと。自身が善良であろうとするのなら──それを証明したいのなら、ソラが今とるべき行動は一つしかなかった。
後から「なぜあの時、彼を止めなかった」と言われて窮しないために、この時にこそ、行動しておかなければならなかった。同じ世界から招かれた者として、身内の蛮行を黙認することは、のちに自分の破滅へとつながりかねない。
ソラは長らく被ったままだったベールを取り去り、自分の姿を露わにした。
エースは視界の隅から先方へと通り抜けていく黒髪を見て、一瞬その横顔が誰なのか分からなかった。しかし、それは本当に瞬く間のことで、彼は自ら正体を明かそうとするソラの手を掴んだ。
ソラはその手を振りほどいて、ノーラとケイの横を通り抜け、最前にいるジーノの隣に立つ。
「ねえ、そこの貴方」
彼女は果敢な表情を浮かべ、静かに声を上げた。
「──ナナシという人。貴方はさっきからあの人のことをお母さんって言ってるけど、それはそこにいる女の子のお母さん、ってことなの?」
問いかけるソラに対し、ナナシは新たな魔法の使い方を教えようとするジョンの手を取め、人好きのする笑顔を浮かべて快く答えた。
「おう。その通りだぜ、姉ちゃん」
「なん、で……?」
「悪いな。もうちょっと大きな声で喋ってくんね? よく聞こえないんだわ」
「どうしてこんなことするの。この世界の人を恨む理由なんて、貴方にはないはずでしょう?」
世界──と聞いて誰もがソラを見た。
ジーノは素顔をさらすソラの身を案じ、
エースはナナシの正体を察して驚愕し、
ノーラはその横顔に手配書の似顔絵を思い出す。
ケイはどこか懐かしむような表情で、ソラの後ろ姿を見つめた。
「そこの女の子には理由があるのかもしれないけど、貴方にそれはないはずだ」
「ハァ? 理由なんてありまくるってーの。あのクソ親父……人が汗水垂らして働いた金を巻き上げてパチでスりやがって、僕の稼ぎで日がな一日煙草ふかして、その上飯が不味いだの何だのとウルセーったらねぇクソカス。あいつのせいで僕はこんなことに……」
「貴方の父親はこの世界に関係ない」
「何言ってんだよ。親父はオトーサンのことだろ。どう考えたって関係大ありじゃねぇか」
今一つ話が通じないナナシに、ソラは少しひるみながら、それでも気丈に声を張った。
「……貴方のお父さんって、いったい誰なの?」
「誰って、だからオトーサンだよ」
「私が話していたのは、貴方が親父って呼ぶ人のことで──」
「何度も何度もワケわっかんねぇな。オトーサンはお父さんで、親父のことだろうが」
ナナシは眉間にしわを寄せて、いかにも不機嫌そうに言う。
「じゃあ、お母さんって誰?」
「今度はオカーサンかよ。ソレならそこにいるじゃん」
彼はソラの後ろにいるノーラを指さし、彼女を母と言った。
これにはさすがのソラも絶句するしかなかった。
それはノーラも同じだった。目の前にいる男が自分の子どもであるわけがない。フランとの間に儲けた我が子を置き去りに家を出た時まで遡って、さらにその先の結婚当時まで記憶を戻しても、それはせいぜい十年前かそこらのことだ。
ナナシの年齢ほどの時は経っていない。
だから彼は自分の子どもではない。
ケイに子の有無を問われるまでその存在を忘れていたノーラであるが、こればかりは断言できた。
「わ、私は貴方の母親なんかじゃないわ!!」
「彼女の言うとおりだよ。あの人は貴方のお母さんじゃない」
ソラは彼に手を伸ばして、同意を求める。
「ねえ、そうでしょ?」
彼の母親はここにはいない。この世界にはいない。
「だから、こんなことはもうやめて」
ソラはナナシが自身の認識が誤りであることを認めて、自分が差し伸べた手を取ってくれることを期待していた。だが──。
「なに言ってんだ? アレが僕たちのオカーサンだろ」
「え……?」
「あのノーラってのが、僕たちのオカーサンなの」
「……」
彼はその目に何を映しているのか。誰を映しているのか。
いったい何者がその目で母親を見ているのか。
その疑問が浮かんだ時点で、ソラはナナシという存在が自分の手に余ることを知ってしまった。認知のゆがんだ相手と話して、適切に説得できるだけの知識も経験も、ソラにはない。
それでも、
「ち、違う……。彼女は、貴方のお母さんじゃないんだよ。ねえ、お願いだから、よく見て」
ソラは子どもに言い聞かせるようにして、ナナシに相対する。
「うるさいなぁ。よく見ても見なくても、アレが僕らのオカーサンだってば」
「そんな……」
どうすれば自分の言葉を理解してもらえるのか、理解させることができるのか、分からない。
ソラには同郷の、同じ境遇の、不運にも異世界召喚に巻き込まれてしまった同情すべき彼を救う手だてがなかった。震える手を中途半端に下ろし、力の入らない足で後退する。
そんな彼女をついさっき顔を合わせたばかりのケイが労るように抱き留め、後ろのエースにそっと委ねた。
ナナシはどこかすがるような目で、隠れてしまったソラを追った。
「なあ、オカーサンだろ? そうだろ? だってオトーサンが言ってた。ノーラって名前だって。顔も同じだ。オカーサンだ。僕らの。ぼくの──」
その纏わり付くような視線にソラは狂気を感じ、思った。
「気持ち悪い……」
それを口にしてしまったのはノーラだった。
ナナシの視線はゆっくりとソラからノーラの方に移っていった。
「……ジョーン。続き、教えて?」
「はーい」
彼はジョンの隣に膝をついて目を閉じ、その小さな手の導きに従って血潮に乗る魔力を一点に集めていく。
手にした鞭が純白の瘴気を帯び、その切っ先を研ぎ澄ます。
ジョンに手を添えられたまま、ナナシはそれをノーラに向けた。
「そしたら、もういらないや」
「ばいばい。しらないひと」
その場にいる誰もがナナシの行為が無駄であると思っていた。不測の事態に備えて厚さを増したジーノの絶対防御を打ち砕くことなど、何人にもできはしない、と。
ナナシの放った閃光の刃が盾を破るなど、あり得ない。
はずだった。
「いけない! ノーラ!! 避けろ!!」
彼の魔法はジーノの盾に触れると、それ一つ一つが星にでもなりそうなほどの光を発して接触面を浸食──あるいは溶かしているのか、どちらにせよその白光の矛先はいとも容易く障壁を突破し、彼らの求める母ではなかった女の腹を大きく穿った。




