第23話 「氷都ペンカーデル 2/3」
麓の村で用立てた荷車はごく小さな物で、旅の荷物を積んでしまったら座れるスペースは一人分しかなかった。よって、御者台には兄妹が乗り、ソラは荷物の間に埋もれるようにして座っていた。
今は手綱を握るエースの横で、ジーノが後ろを振り向いてソラの他愛のない話に耳を傾けている。
「それでさ、私ったらミュアーちゃんに口で勝てないの。十歳かそこらの子どもにだよ? こりゃヤバいって思ったね。ホント語彙が貧弱で……うん、ヤバい……」
「あの子は頭の回る子ですから。よくユナと一緒にお兄様のところに勉強を教わりに来ていましたよね」
「そうだね。二人ともなかなか出来のいい教え子でしたよ」
「ふーん。あの子ら本当に積極的だねぇ」
「お兄様にはあまり伝わっていないようですけどね……」
「ん? 俺がどうかした?」
とぼけたわけではなく、本気でソラとジーノの会話が意図するところを理解せず、エースは少しだけ後ろを振り返って首を傾げる。
「うん、エースくんらしい。でもま、ミュアーちゃん……あのお嬢様は偉いよね。怪我しても挫けないで頑張るんだから、カッコいいわ」
「そうですね。お兄様に格好の悪いところは見せられないって言ってましたし」
「何を言ってるんだいジーノ? ミュアーにお兄さんはいないよ?」
「……エースくん、ここで言うお兄様とはキミのことだよ」
「え? 俺ですか? 何で俺に格好悪いところは見せられないんだろう……?」
「本当に気づいてないんだねぇ、キミ」
ソラとジーノはミュアーたちに同情するような表情を浮かべた。エースは首を捻りつつ、「そう言えば」と話を続けた。
「ソラ様はミュアーの怪我のことをご存じだったんですね」
「ベリックくんのお宿でお風呂借りたときにその話になってさ。彼女、何気なく言ってたけど、かなりひどい怪我だったんでしょ?」
「ええ。師匠も自分の足で立てるかは五分五分だと言っていたんですが、ミュアーは本当にすごいですよ。立つどころか歩けるようにまでなってしまうなんて」
「だね。リハビリって大変だもんね。同じこと毎日やってると時々もうやめようかなって思う時があってさ。飽きてくるって言うか、うんざりしてくるって言うか。楽しくないもんだから、なおさらね……」
それで不自由な状態が改善する保証があるのならやる気も継続するのだろうが、ミュアーのように良くなるかどうかも分からない状況下でそれを続けるのはなかなか厳しい。リハビリとはやったことのある者にしか分からない辛さがある。だからこそ、ソラは本心からミュアーを尊敬していた。
ウンウンと頷く彼女に、エースが尋ねる。
「ソラ様もそういった経験がおありなんですか?」
「私の場合はミュアーちゃんほどに重大なものではなかったけどね」
自分こそ何でもない風に言うソラに、彼の隣でジーノが首を振り「そんなことはない」と言った。ジーノは視線をうろうろとさせながら遠慮気味に問う。
「ソラ様のそれは、やはり病気の後遺症によるものなのでしょうか?」
「後遺症って言うほどでもないけど、患部を切ったことでいろいろと体の動きに弊害が出たんで。それでね」
そこで、前を見ていたはずのエースが急に後ろのソラを振り返った。
「その……ベリックの宿でお話を聞いていてもしやとは思っていたのですが、ソラ様はどこかを患っているんですか?」
「ああそっか、エースくんにはその辺はっきりと言ってなかったっけ。正しくは患ってた、ね。病巣は取ったんで、今は悪いところないから心配いらないですよ~」
「一応、どのような病だったか聞いておいてもいいですか?」
「さっすがお医者さん。いいよ。えっとね、分かりやすく言うと……」
ソラはエースの問いにどう答えたものかと考え込み、腕を組んで背中を丸め、傍目にかなり不格好な姿勢になってうなり始めた。
「体の細胞が悪いものに変異してそれが増殖していって、全身に悪影響を及ぼす病気、かな……?」
人はそれを「がん」と呼ぶが、その病名を言ったところでエースにはピンとこないだろう。だから病気のパンフレットで見た言葉を思い出して伝えたのだが、どうしても表面を浚ったような説明にしかならなかった。
語彙のなさが悔やまれる。
「放っておくとどんどん広がって周りの正常な部分も悪くしちゃうから、そのとき悪くなってた部分を切除したんだよね」
その言葉にジーノは痛みを耐えるような表情を作ってソラを見る。少なからず医術の心得があるエースは「なるほど……」と至極当然の対応として聞いているようだった。
「まぁまぁ、ジーノちゃん。そう顔をしかめなさるな。私の場合は内臓を切ったわけじゃなかったし、平気なんだから」
「そうなのですか?」
「そうなのです。んで、その後はお薬で病変を抑える治療をしてたってわけ」
自分の病状を説明し終えたソラはどこかやりきった顔をしてそう締めくくる。「さあ他にご質問は?」と彼女が言うと、真っ先にエースが口を開いた。
「その薬は今もお持ちですか?」
「それねー。困ったことに手持ちはないんだよね」
例え残っていたとしてもそれを常時携帯して移動することはないので、どちらにしろこの世界に持ってくることは出来なかった。ないものは仕方がないとソラは割り切り──そこで突然ひらめいたように御者代の方に身を乗り出した。
「エースくんって調剤できるんだよね?」
「はい」
「ホルモンって知ってる? えっと、何だったかな。体の機能を調節するために分泌される物質、だったかな?」
ソラはおぼろな知識を頭の中から引っ張り出し、自信なさげに頭を斜めにした。エースはソラの言葉に類似する知識を引き出そうと、頭の中にある魔術の引き出しを片っ端から開け始める。黙り込んでしまった兄の代わりに、ジーノが聞く。
「その『ほるもん』なるものが、ソラ様の病気には重要なのですか?」
「うん。どうもそうらしいんだよね。私が服用してたのはその分泌量を抑える作用があるお薬だったんだけど……」
ソラはジーノの方に顔を向け、やはり首を傾げる。するとジーノの頭もつられるように傾いで、耳に掛かっていた髪が落ちて頬に影を映した。彼女の斜め下からの上目遣いは……何というか、抜群の癒し効果をもってソラの目に映った。ソラは自然と口元を緩めて胸にこみ上げる温かな思いを噛みしめる。そこでジーノがさらに表情を和ませたとなると、もうソラとしては(初めてスランと対面したときのように)直視できない状況だった。
少女はさながら天使のようだった。
「んっふふ……」
実際に鼻血は出ないものの、それでも何となく出そうな気がしてソラが鼻を押さえ俯いていると、エースが顔を上げた。
「うーん、そうですね……申し訳ありませんが、聞いたことがありません」
「エッ? あ! そ、そっか」
我に返ったソラは若干鼻声になりながら答えた。
「なので、残念ながら俺の方で代わりになる薬を調合するというのは無理だと思います」
「やっぱりか。まぁ仕方ないね」
薬がもたらす効果が分かっても、作用の及ぶホルモンという体内の物質が認知されていないのでは、薬の作りようがないとエースは言う。
「お力になれず、すみません……」
「仕方ないって。ゆーても諸悪の根元は取ってるんだし、前向きに考えましょ」
ソラは努めて明るい表情でひらひらと手を振った。そんな彼女をジーノが羨望の眼差しで見る。
「ソラ様はお強いのですね」
「強いっつーか何つーか、こういうことには慣れっこっていうね。早い話が何も考えてないだけかな」
考えて……考えすぎて嘆いて、それは結局のところ自分を追い詰めることにしかならない。思考は後ろ向きに落ちていくばかりで、袋小路を行ったり来たりして、どうせ何もどうにもならないという投げやりな考えに陥りがちになる。
つい先日ミュアーにつねられた頬の痛みを思い返し、ソラは困ったように笑う。そんなところに余計な労力を割くくらいだったら、馬鹿だの阿呆だのと思われようとも、いつかどうにかなると気楽に考えていた方が精神には優しいのだろう。
「思えばこの二十七年間、怪我やら事故やら病気やら色々あったからね」
「ソラ様……」
「やだなぁ、ジーノちゃん。そんな切ない顔しないでよ。それでも何だかんだでこうして生きてるんだから、私はきっとこの先もしぶとく生きてくんだよ」
「そうですね……ええ、そうに違いありません! ソラ様は元気です!」
「元気元気! そういうことですよ、お嬢さん」
のらりくらりとするその態度も、以前よりは気力に満ちていた。
そんな取り留めのない話をしながら、ペンカーデルまでの道中は概ね予定通りに進んでいく。途中の街で食べた食事が美味しかった話をしたり、そうかと思えば馬の蹄と車輪が回る音だけを聞いていたりと、三人の雰囲気は終始和やかだった。途中で荷車の車輪が轍にはまるという事故があったが、それ以外には大きなトラブルもなく、ソラたちの行く道は順調に目的地へと向かっていた。天候も晴れもしくは雪のない曇りの日が続き、積雪量はソルテ村から離れるほどに少なくなっていった。
辺りを白銀に彩る雪原が湿り気を帯びてきた頃、ソラたちは約十日間の行程を終えて氷都ペンカーデルに到着した。




