最終話 「青く晴れた、この空の下で」
春が来る。道を閉ざす雪が解け、恵みの水となって山に蓄えられ、湧き出た水はやがて川となり海へと注ぎ、蒸発した水分が雲を作って雨を──雪を降らせる。そうして世界は回ってきた。それはこれからも変わらない。
変わりはしない。
あの日……一人の女がただ二人のために世界を救ったあの時からでさえ。
救済が叶ったと知ったのは彼女が光の壁の向こうに消えてからしばらく後だった。突如として起こった地震に、彼女を見送った一同はうろたえ地面に伏すことしかできなかった。やがて大地は隆起を始め、海面以下であったすり鉢の底は標高を高くし、それと同時に辺りには凍えるような冬の風が吹き始めた。天を穿つ光の軸は地形の変動が収まる頃に消え去り、極夜の空を彩った錦の衣も見えなくなっていた。
まるでそこには初めから何もなかったかのように。
天には星が瞬くだけであった。
だが、その美しさだけで世界の救済が叶ったのだと分かった。
分かってしまった。
東ノ国の巫女はそれを見て膝をつき、これまでこだわっていた全てがどうでもよくなってしまったと呟いた。残りの人生、片時も忘れず彼女を思って生きようとも言った。
同じようなことは北の軸でも起こっていた。南の軸と違ったのは、地面の振動が終わった瞬間に(光の壁に落ちたという)人間が戻ってきたことである。
口汚く暴言を吐きながら虚空から転がり落ちてきた彼は、すぐさまその場の騎士に取り押さえられ、数々の殺人の罪で捕らわれることとなった。彼の悪鬼は共々そろって大陸へと移送され、王都で一連の事件に関する裁判が行われた後、その代償は斬首という形で支払った。その際、男は死人も同然の精神状態で、少女の方は常に奇妙な笑みを浮かべ、最後までその罪を悔い改めることはなかったという。
このようにして……世界は救われた。たった一人、異世界からやってきた女の献身によって。
それから十年の時が経った。
世は並べて事もなし。
今、北限の村ソルテにもまた春が訪れようとしている。屋根に積もった雪は日に日に溶け、ひさしの下に大きな水たまりを作る。その水面に映るのは真っ青──とはいかないが、やや色あせた水色の空でもこの地方では十分に晴れやかな青空である。日差しも暖かくなり、そうなると雪深い山奥の田舎村でもようやく冬が終わるのだと実感することができた。
そんな村の中でも小高い場所にある教会では、今日は特別に明るい声が響いていた。
「ジーノ、ジーノ。みんなが王都のガッカイから帰ってくる日って今日だよね?」
癖のある黒い髪の毛と茶色の瞳が彼女を彷彿とさせる少女がそう言う。
「ええ、そうですよ。待ち遠しいですか?」
「うん! お父さんたちと会えるの、すごく久しぶりだもん!」
今年で八歳になる彼女の名前はミラという。
ミラは父が帰ってく来るのを今か今かと待ちかまえ、先ほどから何度も玄関と居間を行き来し、ジーノと顔を合わせる度に「今日だよね」と同じことを聞いていた。ジーノはそれを煩わしいとは思わず、小さな可愛らしい生き物がふわふわチョロチョロと行き交う様子に頬を緩めていた。
「ミラ。そんなにソワソワしなくても、お父さんはちゃんと帰ってくるよ」
「分かってます! でもミラが一番に会いたいの~」
「そうかぁ。それじゃあ仕方ないな」
「はい。仕方ないのです」
暖炉の前で腰掛けに座り新聞を広げるスランもまた、ジーノと同じような表情を浮かべてミラの行動を眺めていた。
ミラは「まだかな」と言って玄関の戸を開け、もしかしたら礼拝堂の方から入ってくるかもしれないとそちらへ足を運び、寒くなったからと言って居間に戻ってくる。
それを十数回繰り返し、そろそろ家の中だけで歩き疲れ眠気がやってきた頃、玄関の戸に吊した鈴の音が鳴った。腰掛けの上でジーノに膝枕をしてもらい眠気の波に押し流されそうになっていたミラであるが、その音だけは聞き逃さなかった。彼女は猫のような俊敏さで起きあがり、目を輝かせて部屋の扉も開けっ放しにしたまま玄関へと走っていった。
その後をジーノが追う。
「お父さん! お帰りなさい!!」
ミラが一目散に走っていって抱きついたのは、この地方では珍しい褐色肌の青年──セナだった。
「ただいま、ミラ。元気にしてたか?」
「もっちろーん」
握った拳を突き合わせると、セナはミラを抱え上げて玄関をくぐった。その後ろにはエースとケイが足踏みをしていた。
「お帰りなさいませ、お兄様。ケイ先生」
「ただいま、ジーノ」
「うむ……ただいまだ。何とか戻ってきたぞ……」
「先生は随分とお疲れですね?」
「そりゃあな。この村への道のりは老体にはキツすぎるんだ」
「そんなこと言って、道中で雪玉投げて遊んでたのは師匠じゃないですか」
「そう。それで疲れたんだよ」
「師匠……」
ニヤリと笑ったケイに、エースは呆れた顔をする。
「ふふふ。今はとにかく暖かいお部屋で休んでください。お父様も待っていますし」
「そうだな。ついでに温かい飲み物か何かを入れてくれないか。真冬ほど寒くはないが、やはり冷えてしまった」
「だからそれも遊んでいたせいでしょうに……」
「エースは年々うるさくなるなぁ……誰に似たんだか」
やれやれと頭を掻くケイの目の前で、会話が切れるのを待っている者が一人──セナに抱えられたミラが挨拶をしたそうにしていた。
ケイはそんな彼女と視線を合わせてニカッとする。
「ただいまだ、ミラ」
「えへへ。お帰りなさい、先生! エースおじさんも、お帰りなさい!」
「うん。ただいま」
少女はそう言って二人と手を合わせ、自分を抱える父を振り返ってジーノを指さす。
「お父さんも、ジーノにただいましないと」
ね? と首を傾げ促されたセナは気まずそうに目をそらしながら、しかし愛娘に言われたのではそうしないわけにはいかず、口ごもりながら小さく呟いた。
「……、ただいま」
「おかえりなさい……」
ジーノも同じく口元をぎこちなく動かして受け答える。そのやりとりにミラは頬を膨らませ、「ちょっと~」と苦言を呈した。
「お父さんとジーノっていつまでそうなの? そんなに仲悪いの?」
「そ、そんなことない……ぞ」
「ええ。そのようなことは……」
ミラにジト目で交互に見られ、先に音を上げたのはセナだった。
「心配かけて悪いな……。まだ時間がかかるんだ」
「ふーん。仲直り長いねぇ」
「面目ない」
「でも挨拶できたし、上出来? そしたら早くお部屋行こう~。スランおじいちゃんきっと待ちくたびれてるよ」
セナの腕から降り、代わりにその手を握ってミラは奥の居間に向かって父をグイグイと引っ張っていく。狭い廊下を一列に並んで通り抜け、半開きのままになっていた扉を開いて中に入る。
「スランおじいちゃん、みんな帰ってきたよ」
「それはよかった。怪我とか具合が悪くなったとかはなかったかい?」
「ただいま戻りました、お父様。三人とも怪我なく無事ですよ」
「うむ。風邪を引くようなことも特になかったしな」
「帰りの馬車の車軸がイカレてたせいで、何だか未だにケツが痛い気がしますけどね」
「もー、お父さん言葉が乱暴」
「確かに。娘の前で先ほどの発言はいただけませんね」
「他に言いようないだろ……えーっと、車軸が壊れてて尻が痛かった……?」
「お尻!」
「お尻が痛かった、です……」
「よろしい~!」
セナはミラが相手だと途端に気が弱くなる。彼は仁王立ちになって自分を見上げてくる娘に頭が上がらないようだった。それを見ていたエースたちは小さく笑う。
「さあさあ、みんな座って。今回の旅の話を聞かせてほしいな」
スランは杖をついて立ち上がると、暖炉の前から食卓の方に移動した。それぞれが思い思いの場所に座る中、ジーノはやんわりと手を叩いて部屋の出口へ向かった。
「ケイ先生のお願いもありましたし、私は温かい飲み物を用意してきますね」
「あ! ミラも手伝う。だからお父さんたちのお話はすこーし待ってて」
「分かった。ゆっくりやってこい」
「はーい」
ミラはセナに手を振り、ジーノとともに居間を後にする。椅子に座るスランとケイの前で、床に置いた旅の荷物の中からを土産を広げる姿を見ながら、「絶対に、待ててね」。ミラはそう言って念を押し、先に廊下を歩いていったジーノを追った。
少し気温が下がる台所でかまどに火を入れ、水を注いだやかんをかける。湯を沸かす間、ミラはジーノの顔色を見ながら言った。
「ねえ、ジーノ。ちょっと答えにくいかもしれないこと、聞いていい?」
「何でしょう?」
「ジーノは、お父さんのこと許せない?」
かまどの下で赤い炎が揺れ、静かな室内にシュンシュンとやかんの底が鳴る音が響く。ジーノはしばらくやかんの口を見つめて考え込んだ後、棚から茶葉を取り出しながら答えた。
「……ミラに嘘はつけませんから。正直に言いますね」
「うん」
「私はあの人を、まだ許せません」
「そう、かぁ……」
「でも……それは私自身も同じなのです。あの方を犠牲にした世界でこうして生きている自分を……私は許せない」
「ミラもジーノと同じで今を生きてるけど……、それだとミラのことも許せないことになっちゃう?」
「……ええ。一人を責め始めると、今度は誰も許せなくなってしまう。そうして私はまた過去と同じ間違いを犯してしまう……けれど、そんなことはあの方も私も望んでいない。だから……」
「……」
「いつか……、許すことができたらと思っています」
「そうなんだ……そっか、そっか」
ミラはどこか気恥ずかしそうに後ろ手に腕を組んで、腰を左右に揺らす。
「ありがとね、ジーノ」
年端も行かない少女のその言葉に、ジーノは思わず分けていた葉を台の上にこぼして目をぱちくりとした。そして彼女は自分こそが恥ずかしいと言って頬を赤く染め、作業を一度取りやめてしゃがみ込み、ミラと視線を合わせてきちんと自分の思いを伝える。
「お礼を言うのは私の方ですよ。ミラ」
「そうなの?」
「はい。貴方には気を使わせてばかりです」
「お父さんとかいっつもそうだよ?」
「あら、そうなのですか。ふふ……そろいもそろって駄目な大人たちですね……。ごめんなさい」
「別にいいよー。そんなのお互い様だし」
「……本当に、ありがとう。ミラ」
「ヘヘ~ン!」
ミラは手の届く位置にあるジーノの頭をひと撫でし、人数分の器と受け皿を出し始めた。ジーノも茶を入れる作業に戻る。
それを終えてミラが盆で茶を運び、ジーノがそれを先導して居間に戻ると、大人たちはちょうど食卓いっぱいに土産を広げて盛り上がっているところだった。
「あ! ちょっと~、ミラたちのことちゃんと待ってた!?」
「まだ包み広げてただけだって」
「待っててって言ったのにぃ……」
「中身は見せてないんだからいいだろ?」
「駄目です。お父さんはお茶を配ってください」
「はいはい。仰せのままに」
セナは椅子から立ち上がり、ミラが持つ盆の上から口の広い器を皿ごと持って行き、スランから順に置いていく。それが皆に行き渡り、全員が着席すると、ミラが真っ先に土産物の箱を開けて中身を吟味し始めた。
まず、セナが買ってきたのは主に菓子の類だった。何と言っても帰りを待つ娘は無類の甘党である。そんな彼女が興味を引かれたのは様々な形と味のさこいつ──それらは焦げ茶一色ではなく赤や桃色、白、緑といった彩り豊かな物だった。ミラは本人の好きな色である緑色のそれをつまみ上げると、上から下からと丹念に眺めていた。そして、父から進められるがままに口へ運ぶ。
「おいしい! これは……お茶の味?」
「正解だ」
「やったー」
親子はニカッと笑いあって手を合わせる。
続けてエースが広げたのは本の山だった。それはほとんど自分のための土産のように思われたが、中にはきちんとミラの教材やスランが好きな作家の新作、ジーノにも料理本が用意されていた。
「食べ物はセナに任せたから、俺は読み物ね」
「やった。お父さんに教えてもらおっと」
「王都の料理本ですか。珍しい献立があったら早速作ってみましょう」
「嬉しいなぁ。この年だと麓の街に行くのも大変だし、こんな山奥だと売り本屋もなかなか来てくれないから、この新作を手にするのはもう少し先だと思ってたんだ。ありがとう、エース」
「みんなに喜んでもらえてよかったです」
エースは自分の分の書物を隠すようにして箱鞄につっこみ、はにかむ。
最後に開けた箱はケイからの土産物で、舌で楽しむ「食」と頭を鍛える「知」を取られてしまったら、残るは目に見て華やかな「美」を選ぶしかないだろうと選んだものだった。彼女は贈る相手の好みを的確に捉え、スランには精緻な細工の施された筆記用具を、ジーノには最近王都で流行りの耳かけの飾りを、ミラには結わえた髪を飾る絹の織物を用意していた。
「いつものことだが、お前の目利きは外れがないね。これは手紙を書くのが捗るよ」
「うむ、うむ。それで私に文を寄越すといいだろう」
「ケイ先生。これはどうやって耳にかけるのですか? こうです?」
「ああ、それでいい。あしらわれている石は光を最も美しく反射するように形を整えた一品だ。片耳だけだがそれが洒落者の証だそうだぞ」
「先生~。私の、結んで!」
「おう、いいとも。こっちは二本で一組だからな、頭の左右で結ってやろう」
「わーい!」
そうして土産の披露が一段落したところで、ジーノが今回の旅の成果を問う。
「ところで……セナさん。魔女についての調べはきちんと学会で発表されたのですよね?」
「ああ」
問われたセナはジーノに向き直り、確かな仕草で頷いた。
「それ、ミラも気になってた。今回の発表会は魔女さんの地位を回復する最初の一歩だったんだよね? 成功した感じ?」
「概ね、な」
「怒られたりしなかった?」
「いやそれが怒られたってか、アホかってほど野次られたんだわ……」
セナはがっくりと肩を落として心労を露わにする。
「あまりの騒ぎに退場者続出だったね」
「見事にセナ一人で針のむしろだったな。壇上で泣き出すかと思ったぞ」
端で見ていたエースとケイも胃が痛くなるほどの紛糾ぶりだったらしい。それでも最後まで調査の結果を報告し終えたセナの精神力は並ではない。本人曰く、騎士学校のしごきに比べればお上品すぎる柔らかな罵倒だったそうだ。
実のところ王都での出来事をほとんど気にしていないセナは、既にいつもの飄々とした表情に戻っていた。
「まぁ仕方ねぇよ。最初の最初だかんな」
「まさか、くじけそう……などとは言いませんよね?」
釘を差すようにしてジーノが言う。
「冗談でも言うかよ。むしろやる気満々さ。手応えがなかったわけじゃないしな」
「そうですか。それならいいのですが」
彼の決意を試すような言葉を口にしたことを詫びる意味も込めて、ジーノは小さく頭を下げる。ミラは黙ってしまった二人を交互に見、話の間をつなげる。
「うんうん。それを聞いてミラも安心しました。お父さんから聞く魔女さんのお話、ミラ大好きなんだ。お父さんがこの十年間がんばってきたことも知ってるし……だから諦めないでね」
「もちろんだ」
「ミラも大きくなったらお手伝いするし~」
「それなんだけどな……、お前まで俺の償いに付き合うことないんだぞ?」
「ミラがそうしたいの」
「だが──」
「もう! 確かにお父さんは魔女さんにひどいことしたよ? それを聞いたとき、ミラはプンプン怒ってお父さんとたいぶ口きかなかった。でも、お父さんは自分が悪いことしたなって思って、後悔してて、何とかごめんなさいできないかって考えて、魔女さんのこと調べてるんでしょ?」
それは確かにその通りだが、セナとしては自分の過去にケジメを付けるための行為に無関係の娘を巻き込むのは気が咎めた。その気持ちを理解した上で、ミラは人差し指を立てて演説するようにして話を続ける。
「お父さんがずっとずっと一生懸命だから、ミラはお手伝いしたいのです。血はつながってなくてもミラはお父さんの子どもだし、お父さんはミラのお父さんなんだもん。一緒に頑張りたいっていう……、うーんと……。子どもゴコロ? 的な?」
「──ッ、ミラ……! お前……お父さん泣いちゃうだろ……!!」
「泣いてよろしい。ミラはお父さんの味方です」
ミラに肩を叩かれたのをきっかけに、セナは割と本気で男泣きを始めた。その様子を見て、ケイとエースが目を丸くする。
「喧々囂々の学会でもしれっとしていたセナがミラの一言で泣くとはな」
「愛娘の言葉ですからね。俺もグッときちゃいましたよ……」
「お前も涙もろくなったな~」
肘をついて茶の器を傾け、ケイはからかうようにしてエースをつつく。その正面でスランはニコニコと満面の笑顔を浮かべていた。
「ミラはいい子に育ったね」
「セナはミラを連れてた間もちゃんとお父さんしてましたからね。俺、一緒に旅してて本当にびっくりしたんですよ。ちょっと予想外の姿で……」
「それについては私もお兄様と同じでかなり驚きました。あの図太いセナさんが小さな女の子相手にタジタジなんですから」
「まさか騎士をクビになった少年が赤ん坊を拾って旅すがら育てていたとはな。私も想像してなかったよ」
「私もセナくんについては初対面の時のつっけんどんな態度しか記憶になかったからなぁ。うん、別人かと思ったよね」
「何だか俺、散々なこと言われてるような気がしますけど……ミラは魔女の軌跡を探して各地を放浪してたときに偶然見つけて──放っておけなかったんですよ」
「そう。ミラはお父さんに見つけられちゃったのです。運命だね」
「まさしくな」
片目をつぶる仕草をしようとして不器用に両目をつぶってしまったミラに対し、セナはきっちり片方だけの目をつぶって彼女の言葉に応えた。
「──それはそうと、エースおじさんと先生の成果は?」
ミラはエースの方を向き、茶の器を小さな手に収めながら首を傾げて聞いた。
「魔術のゆーよーせいはみんなに教えられた?」
「うん、ばっちりだったよ。最初は鼻で笑われたけど、これまでの実績を目に見える形で示したら案外あっさり受け入れてもらえた」
「おじさんたちの場合は、十年よりいっぱいだもんね?」
「そういうこと。俺と師匠が積み重ねてきたことは、誰にも否定なんてさせないよ」
「しかしだ、エース。これからのことを考えると、やはり魔術の技術報告は王都で行った方がいいのかもしれないぞ。旧体制の魔法院とは異なる新しい組織──魔法術学会が運営する会合だったからこその成果であることは否めん」
「確かにそうですね。ノーラ博士がご健在のうちに学者さんたちとの関係を作って地盤を固めておかないと……」
エースは人との関係となると少し気が重くなるようだった。そんな彼にサッと手を差しだし、セナが言う。
「俺だって伝手も何もないとこから始めなきゃだし、一緒に頑張ろうぜ」
「そうだね。心強いよ、セナ」
「まぁそれに関しては私も手伝ってやれることはあるだろう。遠慮なく頼るといい」
「はい。よろしくお願いします、師匠」
「よろしく、ケイ先生」
三人は互いに握手をし、協力を誓い合う。スランは一連の仕草を笑みを絶やさず見つめ、うんうんと何度も頷く。そして彼は唐突に思い当たったようにして手の平に握り拳を落とした。
「肝心のノーラ博士はご息災だったのかな?」
「ああ。元気も元気、念願の元老──と同等の地位に納まって少し気が抜けてるかと思ってたんだが、一向に落ち着きがなかったな」
「師匠と同じくらい活力にあふれてましたよ」
「博士は確か……今は魔法術学会の上級役職で、獣使いの能力について詳しく研究しておられるのですよね?」
「そうなんだ。あいつがそんなことを考えていたとはな。これもまた予想外というやつだ。いやはや……宿借りの事件さえも踏み台に、よくもまぁ逆境を乗り越えたもんだよ。さすがの私もあそこまで弁は立たん。あいつの執念は恐ろしいところがあるぞ」
「ふむ。そうなると、魔法院の総本山で元老の椅子に座るという夢は叶わなかったけれど、王都でその地位に就けたのは……それでよかったのかもしれないねぇ」
スランの言葉にはセナが大いに頷く。
「博士のおかげで俺みたいな素人が魔法学会に出席できたんだから、そりゃもう御の字ってもんですよ」
「ははは! セナの言うとおりだな」
「違いありませんね」
「はいはい! そしたらミラからもう一つ質問。王都と言えばだけど、ロカルシュおじさんには会えた?」
挙手してそう聞くミラにセナが答える。
「いや。正騎士に上がってから王宮での仕事が忙しいらしくて、今回は無理だった」
「元気そうであることはノーラから伝え聞いたぞ。研究でいろいろと協力してもらっているようでな、会うたびにとにかくうるさいそうだ」
「いつもどおりって感じだね~」
そこまで話すとミラは一人先に茶を飲み終え、すたんと椅子から降りてセナの服の裾を引っ張った。
「お父さん、そろそろ一端おうちに戻ろ」
「そうだな。掃除とかもしないとだし……」
「ざんねーん! お父さんがいない間はジーノのところにお泊まりしてたけど、毎日ちゃんと綺麗にしに行ってたから! お掃除の心配はありません」
「お? じゃあ採点しないとな」
「上から目線、くるね~?」
「悪い悪い」
「……そうしたら私も一度、宿の方に戻るとするか。あちらにも挨拶しておかないとだしな」
「お土産を渡すの忘れないでくださいね、師匠」
「そうだった。すっかり失念していた」
それぞれが立ち上がる中、ジーノもまた席を立ち胸の前で手を握って小さく微笑む。
「皆さん、今日のお夕食はうちで食べていってくださいね。腕によりをかけてお作りしますので」
「ジーノの料理も久しぶりだね。楽しみにしてるよ」
「そうだな。ありがたくご相伴に預かるとしよう」
「じゃあミラも後でお手伝いに来なきゃ」
「ふーん。それなら俺は──」
「お父さんは待っててくれればいいから!」
「セナさんは大人しくお父様と一緒に座って待っていてください」
「あのな……俺だって料理くらいできるんだが?」
「お父さんの料理、不味くないけど……不味くないだけなんだもん」
「ウッ……!!」
「食べられればいいだけのものを料理とは言いません」
「うぐぐ……っ!」
「アッハッハ。私と一緒にってところが肝だねぇ」
「いや、いやいやいや……さすがの俺も調理台を爆発させたりとかはしたことないですよ……」
セナは若干引き気味にそう言う。スランは一人で台所に立つと何かしらを燃やし爆発させ大惨事になる。そんな話を聞くと、ジーノたちがいなかった期間の彼の食事はいったいどうしていたのかと疑問に思うこともあるだろうが……そこは彼の人徳が物を言い、村の有志が持ち回りで世話を焼いてくれたのだという。のほほんとしているように見えて普段からきちんと祠祭としての役目を果たしていたおかげである。
「それでは……まだ時間もありますし、私たちは祠の方にご挨拶に行きますか?」
「そうだね」
ジーノとエースは互いを見合わせて頷く。
「……俺も後で行く」
「それミラもついてこ~」
「おや? そうしたら私はこのあと家に一人になってしまうのか……なら、私もジーノたちについて行こうかな。最近は足が悪いからってご無沙汰だったし」
「分かりました。ではゆっくり行きましょう。私はお茶のお片づけをしますので、その間にお兄様と一緒に用意を整えてくださいまし」
ジーノが茶の器を盆にまとめ始めると、ミラが眉をハの字にして下から見上げた。
「あ! ごめんジーノ……お片づけお願いしていい?」
「構いませんよ、ミラ」
「ありがと! また後でね~」
「はい」
ミラは元気な声で礼を言い、荷物を両手に持つセナを後ろから押して教会の家を出て行った。ケイも荷物と宿への土産を手に家を後にする。
健気で愛らしく賑やかな少女がいなくなると、居間は一気にしんと静まった。ジーノは食器を持って台所へ向かい、エースはその間にスランの外出の支度を手伝うことにした。年のせいか膝も肩も動きが悪いスランは一人で身支度を整えるとなると、できないことはないが、かなり時間がかかってしまうのだった。彼が外套に袖を通す頃にはジーノも片づけを終えていた。
三人はそろそろと歩いて家を出て、林の奥の祠へと向かう。
青の絵の具を薄く水に溶かしたような空──そこに輝く太陽が木々の間を通って白い雪の上に影を作る。緩やかに吹く風の中を進み、数年前に作り直した階段を上りきると、開けた場所に出る。
かつてそこにあった聖域はもう存在しない。自然結界も消え失せ、その向こうにあった不可侵の洞窟もただの洞穴に変わってしまっていた。世界の救済が叶い「地の軸」の光が消えたのと同時期に、「聖域」は役目を終えたかのように姿を消した。
それでも人々の信仰は消えない。
祠の前までやってくると、スランが体の具合を悪くしてから祠祭の職を代行しているジーノが真っ先に頭を垂れ、それに続く形でエースとスランも胸の前で手を握った。
エースは王都への旅の間に起きた出来事を報告し、スランは礼拝堂で毎日しているように軸に座する尊き者への祷りを捧げ、ジーノは兄たちが無事に帰ってきたことの喜びと、道中を見守っていてくれたであろう彼女への感謝を伝える。
風も止み、鳥のさえずりもなく、枝が擦れる音さえもない。
耳に痛いほどの無音を破ったのは木から落ちた雪だった。
ドサリ、と……誰かが地上に降り立ったかのようなその音を合図に三人は胸中の会話を切り上げ、一様に少し切なそうな笑みを浮かべた。
「戻りましょうか」
そう言ったジーノの背後──結界はなくなれど畏れ多くて誰一人として入ることのできない洞窟の奥から、不思議なことにヒタヒタと何かが歩いてくる音が聞こえた。冬の寒さを凌ぐために野生動物が巣でも作ったのだろうかと思い、三人は探るような視線を洞窟の中に向ける。
音は次第に反響を失い、ジーノたちに足音の主が出口のすぐ近くまで迫ってきていることを知らせる。
そこに突然、カラカラと乾いた音が響く。洞窟の出口から転がり出てきたのは、どこかで見たことのある杖だった。先端には透明な鉱石がはめ込まれているが、それは元の形から半分に欠けてしまっているようだった。
「わっと、と……。ちょ、待って待って……」
そして、その杖を追いかけるようにして、懐かしい──もう二度と耳にすることはないと思っていた声が聞こえてくる。
「この声……。それにあの杖は、私の……?」
「そんな、まさか……あれはあの時、俺の剣と一緒に──」
ジーノとエースの言葉を聞いていたのか、その声は小さく笑って言った。
「そのまさかだよ。二人とも」
そうして洞窟の影から姿を現したのは……。
髪の色が白に変わり、瞳も青く変色してしまっていたが……分かる。
眠たそうな瞼に、こう言っては何だがしまりのない表情。
再び吹き始めた風になびく左の袖。
別れたその瞬間を、昨日のことのように思い出せる──その姿。
ジーノは口元を手で覆い、驚きに目を瞬かせる。
「あ、えっと……せっかくカッコよく登場しようと思ったのに。なかなか上手くいかないね。その……、十年ぶりで何て言えばいいのか……」
どこか軟派な印象を与える口調までそっくりだ。彼女は足下に転がる杖を拾い上げると、何やら気まずそうに視線を上方へ逸らしながら言葉を続けた。
「元気にしてた……?」
半笑いの表情はまさに「彼女」であった。
それを見て、ジーノは飛び上がるようにして駆け出す。
「お帰りなさいませ! ソラ様──!!」
どうして戻ってこれたのか。
光の壁の向こうで何があったのか。
疑問はいくつも思い浮かんだが、今すぐに問わずともいい。戻ってきてくれたのなら、この後でいくらでも聞くことができるのだから。ジーノは落ち着きというものをかなぐり捨てて、両手を広げて彼女に抱きついた。
エースもまた、一歩一歩を踏みしめながらジーノの後を追い、優しく二人を抱きしめる。
スランはそんな三人の姿を、涙をたたえて見守っていた。
その熱烈な歓迎ぶりに少々戸惑いながら、彼女は晴れ渡った空のような笑みを浮かべる。声を上げて泣き出したジーノの髪を一生懸命に撫で、
「ただいま、だね」
晩冬の蒼穹。
白く陽が輝くその下で、彼女は叶えた願いを抱きしめる。
心から愛するただ二人のために、異世界の神にも等しき存在と添い遂げることを決めた女。
──これは彼女が悔いなく生きた、その物語。
続編「魔女の葬送」(完結済)
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