第33話 灼熱の密室と、震える料理人の手
装甲付き水陸両用魔導馬車の車内は、完全に灼熱の密室と化していた。
魔力冷却水が枯渇し、空調システムが停止した分厚い金属の箱は、外の直射日光をたっぷりと吸い込み、内部の空気をオーブンのように熱し続けている。換気のために僅かに開けた小窓からは、砂漠の熱風と、死に絶えたオアシスの腐臭が入り込んでくるだけだった。
「はぁっ……、あ……」
居住区画のベッドで、シオンが苦しげなうわ言を漏らした。
彼の端正な顔は異常な高熱によって赤黒く腫れ上がり、額からは玉のような脂汗が絶え間なく吹き出している。首筋から胸元にかけては、毒の進行を示す不気味な紫色の斑紋が、まるで生き物のようにゆっくりと広がっていた。
「くそっ……。シオン、しっかりしろ! ベリア!」
アベルはひび割れた唇から血を滲ませながら、残されていた僅かな清潔な布で二人の汗を拭い続けていた。
しかし、布を濡らすための水が一滴もない。乾いた布で皮膚を擦っても、彼らの体温をわずかに下げることすらできなかった。
隣のベッドでは、頑強なドワーフであるはずのベリアが、呼吸をするたびに胸を激しく上下させ、ヒューヒューと掠れた音を立てている。彼女の褐色の肌もまた、毒の熱によってひどく乾燥し、今にもひび割れてしまいそうだった。
「どうすればいい……。俺の『同化召喚』は、物理的な敵を斬り裂くことしかできない。毒や病気を治す力なんて、どこにもないんだ……ッ!」
アベルは布を握りしめ、自身の無力さにギリッと奥歯を噛み砕くほど強く食いしばった。
彼自身の身体も、極度の脱水症状によって限界を迎えている。立ち上がるだけで激しい目眩に襲われ、胃の奥がギュッと捻り潰されるような吐き気が常につきまとっていた。
ザザの地下迷宮で、どんなに傷ついても、泥に塗れても、決して折れることのなかったアベルの心が、音を立てて軋んでいた。
姿の見えない『毒』と『渇き』という自然の暴力の前に、剣も、知略も、不屈の闘志も、すべてが無意味だった。特命部隊の誇る戦力は完全に機能不全に陥り、ただ沈黙の中で死を待つことしかできない。
「アベル……」
背後から、震える声が響いた。
振り返ると、居住区画の隅で、キップが床にへたり込んだまま、分厚い一冊の革表紙の本を抱きしめていた。
それは、フェザーン王国最高の料理人である彼の師匠、バクスから出立の際に託された『特製薬膳の調合書』だった。
「キップ……。ごめんな、俺が不甲斐ないばかりに。お前だけでも、少し休んでろ」
アベルは無理に笑みを作ろうとしたが、その顔はひどく青ざめ、頬はこけていた。
キップはブルブルと首を横に振った。
彼の大きな獣耳は恐怖で完全にペタンと垂れ下がり、目には大粒の涙が浮かんでいる。
戦闘能力が皆無であるキップにとって、最強の剣士であるシオンと、無双の怪力を持つベリアが、たった一杯の水であっけなく倒れてしまった現実は、あまりにも恐ろしかった。次は自分たちが死ぬ番だという恐怖が、彼の細い身体をガタガタと震わせている。
だが、キップは抱きしめていた調合書を床に広げ、涙で滲む目を必死に擦って、そのページをめくり始めた。
『キップ。いいかい、料理ってのはな、ただ腹を満たすためだけのものじゃない。疲れた戦士の心を癒し、時には毒を払い、命を繋ぎ止める最大の魔法なんだ。お前のその手には、剣よりも尊い命を救う力が宿っていることを忘れるな』
出立の日の朝、バクス師匠が自分の頭を撫でてくれた時の、大きく温かい手の感触が蘇る。
「……シオンとベリアが飲んだ水、シオンの氷の魔法をすり抜けたって言ってたよね」
キップは震える指先で、調合書の古びたページをなぞりながら言葉を紡いだ。
「ただの毒草や魔物の毒液じゃない。魔族が自身の『呪い』を直接水分子に定着させた、極めて悪質な特殊毒素だ。……この本に、昔の砂漠の民が同じような呪いの毒に苦しめられた時の記録が残ってる」
「呪いの毒……。治す方法があるのか!?」
アベルがすがるような思いで身を乗り出す。
「うん。……物理的な解毒魔法は効かないけど、『熱』と『薬効』を極限まで高めた薬膳スープを体内から直接吸収させれば、呪いの魔力を中和して、汗と一緒に毒素を排出できるって書いてある」
キップの言葉に、絶望に沈んでいた車内に一筋の光が差し込んだ。
「本当か、キップ! そのスープを作るには、何が必要なんだ!」
「問題は、そこなんだ……」
キップは調合書のページを見つめたまま、悔しそうに唇を噛んだ。
「ベースになる水は、馬車の浄水機能に俺の魔力を直接流し込んで、濾過フィルターを限界まで酷使すれば、なんとか数杯分くらいの安全な水は絞り出せると思う。……でも、解毒の要になる『陽炎草』っていう砂漠特有の薬草が、馬車の備蓄にはないんだ」
「陽炎草……」
「このオアシス都市の周辺にある、干上がった岩場にしか生えない特殊な草だ。それがないと、呪いの毒は中和できない……」
キップの言葉に、アベルは自身の右手に視線を落とした。
指先は脱水で震え、立ち上がることすらままならない。だが、行くしかない。仲間を救うために。
「わかった。俺が、その陽炎草を探してくる」
アベルがベッドの手すりを掴み、無理やり立ち上がろうとした瞬間。
「駄目だよ、アベル!!」
キップが悲鳴のような声を上げ、アベルの胸に飛び込んでその身体を押し留めた。
「今のアベルが外の熱砂に出たら、十分も持たずに倒れちゃうよ! そしたら、誰がシオンとベリアを護るのさ! 外にはまだ、水を腐らせた魔族がいるかもしれないのに!」
「でも、俺が行くしかないだろ! お前をこんな危険な外に出せるわけが……」
アベルの言葉を遮るように、キップはアベルの胸倉を小さな手で強く握りしめた。
「俺が行く!!」
その叫びは、いつも怯えて仲間のお荷物にならないように小さくなっていたキップからは想像もつかないほど、力強く、腹の底から絞り出されたものだった。
「俺は弱虫だし、剣も魔法も使えない。アベルみたいに戦えないし、いっつもみんなに守ってもらってばっかりだ……。でも、料理だけは! 食材を見分けて、みんなの命を繋ぐことだけは、俺の役目なんだ!!」
キップの大きな瞳から、涙がボロボロとこぼれ落ちる。
恐怖で膝は震え、尻尾の毛は逆立っている。それでも、彼は決してアベルから目を逸らさなかった。
「アベルはここで、二人を護って。俺が絶対に、陽炎草を見つけて、世界で一番美味しい薬膳スープを作ってみせるから……!」
その小さな料理人の決意に、アベルは目を見開いた。
自分が全てを背負わなければならないと思っていた。リーダーとして、自分が無理をしてでも仲間を救わなければならないと。
しかし、特命部隊はアベル一人で成り立っているのではない。各々が自身の誇りと役割を持ち、互いの弱さを補い合うために存在しているのだ。
「……キップ」
アベルはキップの両肩をしっかりと掴み、その震えを真っ直ぐに受け止めた。
「わかった。陽炎草の採取は、お前に頼む」
「アベル……!」
「ただし、俺もギリギリまで馬車の外に出て、お前の護衛をする。魔族が襲ってきたら、俺が盾になる。だから……絶対に生きて、その薬膳スープを俺たちに食わせてくれ」
「うん……ッ! 約束する!」
キップは涙を乱暴に拭い、力強く頷いた。
灼熱の密室の中で、戦闘力を持たないただ一人の料理人が、仲間の命を繋ぐため、恐ろしい死の砂漠へと足を踏み出す決意を固めたのである。




