第1話 語り継がれる英雄の伝説と、半端な王子の憂鬱
青く澄み渡る空に、リュートの軽やかな音色と、ダークエルフの吟遊詩人のよく通る声が響き渡っていた。
「さあさあ、新しき夜明けを知る子供たちよ、耳を傾けなさい。かつて理不尽な世界をひっくり返した、一人の不器用な戦士と、孤独な召喚師の物語を」
活気に満ちた王都の中央広場。巨大な石造りの噴水の前には、人間の商人、獣人の子供たち、エルフの魔法使い、そして屈強なドワーフや魔族たちが、種族の垣根など全く存在しないかのように肩を並べて座り込み、詩人の歌に聞き入っている。
「魔法と召喚術がすべてを支配していた旧世界。魔力を持たず、ただ剣を振るうことしかできなかった戦士は無能と呼ばれ、勇者パーティーから泥水の中へと追放された。痛覚を持たない欠陥品だと蔑まれた彼は、しかし、同じように世界から異端として迫害されていた一人の少女と出会う」
詩人がリュートを激しくかき鳴らすと、子供たちが目を輝かせて身を乗り出した。
「対象の肉体に直接、神々や英霊を憑依させる禁忌の術、同化召喚。通常の肉体なら激痛で自壊するその力も、痛みを知らぬ戦士の強靭な肉体という最高の器を得て、真の力を解放したのだ。彼らは、他種族を迫害する腐敗した旧世界の人間たちに抗い、ダークエルフの王を打ち倒した。そして、誰もが平等に暮らせる理想の地を求め、巨大な方舟で大嵐の絶海を越えてこの新大陸へと辿り着いたのだ」
観衆から感嘆の吐息が漏れる。それは、今やこの大陸で知らぬ者はいない建国神話であった。
「新大陸の猛威を退け、土地を切り拓いた彼らを待っていたのは、最奥部で開きかけた『魔界への扉』から溢れ出す絶望の軍勢だった。しかし、底辺の戦士と無能の召喚師は、最高の仲間たちと共にその絶対的な脅威を退け、次元の扉を完全封印した。そうして創り上げられたのが、我らが誇る自由と平等の大地、フェザーン王国である」
歓声と拍手が広場を包み込む。
それから二十年の歳月が流れた。
新大陸で巨大なミスリル鉱山が発見されたフェザーン王国は、圧倒的な資源と技術力を手に入れ、かつてない黄金期を迎えていた。見上げれば、バルガンが開発した巨大な飛空艇が何隻も空を横切り、豊かな物資を世界中へと運んでいる。街角からは国営レストランから漂う極上の香辛料の匂いが鼻をくすぐり、行き交う人々の顔には明日への希望と絶対的な平和への安心感が満ち溢れていた。
英雄ヴァンとセリアが血と涙の果てに勝ち取ったこの平和な世界は、永遠に続くかのように思われた。
しかし、そのまばゆい光が強ければ強いほど、足元に落ちる影もまた、色濃く深くなる。
「……っ、はあっ、はあっ……」
王都の喧騒から遠く離れた、王城の裏手にある私的な修練場。
そこで、一人の若者が荒い息を吐きながら、木製の訓練用ダミーに向かってひたすらに剣を振るっていた。
彼の手にあるのは、極めて一般的な鋼の長剣。派手な装飾のない実用的な軽鎧を身に纏うその姿は、かつての若き日のヴァンを彷彿とさせる。しかし、その端正な顔立ちと、意思の強さを感じさせる瞳は、間違いなく母であるセリアの面影を強く受け継いでいた。
フェザーン王国第一王子、アベル・アッシュクロフト。十八歳。
世界を救った最強の戦士と最高の召喚師、その二人の血を引く、次世代の希望の星。
「まだだ……。こんなものじゃない、父さんの剣は……もっと、速くて、重い……」
アベルは歯を食いしばり、汗にまみれた前髪を振り払って再びダミーへと踏み込んだ。
鋭い踏み込みから放たれた一撃が、ダミーの肩口を捉える。鈍い音が響き、硬いオーク材に深い亀裂が走る。
常人の年齢からすれば、十分に卓越した剣技だ。しかし、アベルの顔に満足の色はない。
父ヴァンの剣は、ただの物理的な斬撃ではない。空間そのものを圧迫し、災害級の魔物の装甲すら紙切れのように両断する、規格外の暴力と技術の結晶だった。それに比べれば、自分の剣などただの小手先の技術に過ぎない。
「なら、これならどうだ……」
アベルは剣を構え直し、深く深呼吸をした。
目を閉じ、己の精神を内なる魔力回路へと接続する。母セリアから受け継いだ、失われた古代召喚術。
「我が肉体を器とし、その力を現せ……『猛炎の獅子』」
アベルが呪文を紡いだ瞬間、彼の足元に真紅の魔法陣が展開し、修練場の空気が一気に灼熱へと変わった。
空間が歪み、燃え盛る炎のたてがみを持つ獅子の幻影が雄叫びを上げながら宙に現れ、次の瞬間、アベルの胸の中心へと吸い込まれるように激しく激突した。
中級の幻獣である炎の獅子の魂が、アベルの肉体へと直接憑依、同化していく。
「ぐっ……、あぁぁぁっ」
全身の筋肉が異音を立てて軋み、血管の中をマグマが逆流するようなすさまじい痛みがアベルを襲う。
これが同化召喚の絶対的な代償。他者の魂を己の肉体に宿すという行為は、本来なら肉体が内側から破裂するほどの激痛を伴う。
父ヴァンは痛覚を持たないという特異体質と異常な生命力を持っていたからこそ、複数の神々や最強の英霊すらも無制限に肉体へ降ろすことができた。
しかし、アベルは違う。彼は、普通の人間と同じように痛みを感じる正常な肉体を持って生まれてきたのだ。
中級召喚獣を同化させるだけで、アベルの額には大量の脂汗が滲み、激痛で呼吸が浅くなる。これ以上の高位の存在、例えば母が喚び出していたような神々や神獣などを己の肉体に降ろせば、アベルの精神と肉体は痛みに耐えきれず、一瞬で崩壊してしまうだろう。
アベルは痛みを必死の気力でねじ伏せ、全身から立ち昇る陽炎のような炎のオーラを纏ったまま、ダミーへと跳躍した。
獅子の強靭な腕力と瞬発力がアベルの肉体を弾き出す。そして、アベルの肉体に宿った炎の魔力に呼応するように、手に握られた物理的な鋼の長剣が赤熱し、激しい炎の刃を纏い始めた。
「ハアァァァッ!」
空気を焦がしながら放たれた炎の斬撃が、ダミーを真横から薙ぎ払う。
爆発のような轟音と共に訓練用のダミーが上半身から消し飛び、焦げた匂いと黒煙を立てて周囲の地面に散乱した。
「……はあっ、はっ、はあっ……」
アベルは同化を解除し、その場に膝をついた。
激しい疲労感と、筋肉の繊維が引き千切られたかのような痛みが全身を襲い、しばらく立ち上がることすらできない。熱を持った鋼の剣を杖代わりにして、なんとか上体を支える。
「……中級の魔獣一体で、このザマか」
地面に落ちる自分の汗を見つめながら、アベルは自嘲気味に唇を歪めた。
周囲の人間は、彼を剣術と同化召喚の両方を受け継いだ万能の王子と称賛する。
だが、現実は残酷だ。
剣術を極めようにも、父のような超人的な身体能力や戦闘センスはない。
召喚術を極めようにも、痛覚があるがゆえに、母のように強力な神々を喚び出すことは絶対にできない。
剣も、魔法も。
どちらも使えるがゆえに、どちらも中途半端。すべてが器用貧乏なのだ。
「俺は、父さんにも母さんにもなれない……」
アベルは強く拳を握りしめ、修練場の固い土を殴りつけた。
英雄の血を引いているという事実が、重い呪いのようにアベルの肩にのしかかっている。
誰もが自分に期待している。かつてのヴァンやセリアのように、いざという時は圧倒的な力で国を護ってくれると信じて疑わない。
その期待の眼差しを向けられるたびに、自分の半端な実力が浮き彫りになり、息が詰まりそうになる。
吹き抜ける心地よい風が、アベルの汗ばんだ頬を撫でていった。
王都の空は今日も青く澄み渡り、遠くからは民衆の平和な笑い声が聞こえてくる。
自分がどんなに劣等感に苛まれていようと、このフェザーン王国は圧倒的に平和で、守られていて、自分の半端な力など必要とされる場面はどこにもないはずだった。
アベルは空を見上げ、深く、重い溜息を吐き出した。
偉大な英雄の影で燻り続ける己の刃が、この先、何のために振るわれることになるのか。
この時のアベルはまだ知る由もなかった。
永遠に続くと思われたこの平和な日常の裏側で、かつて塞がれたはずの魔界の扉が再びこじ開けられ、世界を飲み込む新たな暗黒が産声を上げようとしていることなど。




