シノブ・コウサカ
シノブがノクティス家を訪れたその時、リュクサとノエルはリビングでそれぞれの時間を過ごしていた。
リュクサは魔術書を読み、ノエルは新たな症例を見つけたと言って、難しい論文に目を通している。
「ノエル、その論文、おもしろいのか?」
「いえ、手強い論文ですよ。リュクサも読みますか?」
「いや、俺はいい。それで、それを読んでどうするんだ?」
「数年前にやった、医学書の執筆をと思いまして」
ノエルは専属医となって医師免許を剥奪されはしたものの、医学に対する情熱は相変わらずだ。
難しい症例を知れば論文を取り寄せるし、そうして蓄えた知識を医学書にアウトプットしてもいる。
ノエルは医学に携わるために医師免許がなくてもできる方法を探し、医学書という目的を得ているのだ。
それが、リュクサには少しだけ寂しい。
ノエルの興味が自分に向くことはないのかと、少しだけ医学に嫉妬してしまうのだ。
「リュクサ様、ノエル様!玄関にお客様が…!」
二人きりの空間に、慌てた様子の執事が入室してきた。
「客だって?一体誰なんだ?」
リュクサが問うと、執事は落ち着いた口調でこう言った。
「シノブ・コウサカ様とおっしゃる方です。泥まみれなのですが、シャワーを
お使いいただきましょうか?」
リュクサはノエルが小さく首を横に振るのを見て、執事に指示を出す。
「シャワーは貸さなくていい。すぐに玄関に移動する」
「かしこまりました」
執事が出て行ってしまうと、リュクサは大きな深呼吸をした。
「ノエル、シノブ・コウサカという人物は、あなたの知り合いか?」
「いえ、私は知りません。お会いになるのですか?」
「断る理由がない。まあ、会う理由もないけどな」
その言葉に、ノエルは苦笑を浮かべる。
リュクサと出会ってから四年が経過するが、最近の彼は言葉を口にする直前、何かを考えているような感じがする。
今だってそうだ。
ノエルが問いを発してから答えるまでに、ちょっとだけ「間」が空いていた。
『リュクサは、あなたに心を開いていますね』
先日アステルがこの家を訪れた時、リュクサの表情が生き生きしていると言って、ノエルにこんなことを言ってきた。
「心を開く、ですか…そんな大層なものではないと思うのですが…」
リュクサはノエルに心を開いているのではなく、ノエルを繋ぎ止めようとしているように感じる。
それは、リュクサと近しい人が、次々と物理的距離を置いているからに他ならない。
リュクサの生みの母であるオリエと、元ノクシアの住人であるレヴィンとゼノヴァルはエスタリアへ。
リュクサが誰よりも尊敬し、慕っていた異母兄のアステルも、アネモネとの結婚を機にノクティス邸を離れている。
だから一人にならないために、ノエルを傍に置いておきたいのではないだろうか。
階下に下りて玄関に移動したリュクサとノエルは、揃って顔をしかめた。
泥だらけの客だとは聞いていたものの、まさか顔面が泥まみれで顔の判別ができないほどだとも思っていなかったからだ。
「あ!あんたがヴァレンティス医師か!?」
シノブが声を大にして前に立っていたリュクサを見つめるが、彼は「違う」と言ってノエルに視線を定める。
「ノエル、挨拶を」
どこか抗いがたいリュクサの言葉を受け、ノエルはシノブに向き合った。
「初めまして、コウサカさん。私がヴァレンティスですが、どういうご用件でしょう?」
「医師なんだよな!?」
「昔はそうでした」
そう答えた瞬間、シノブは信じられないとばかりに、大きく両目を見開いた。
「昔!?いや、医師だったなら、それでいい!あんたの手を貸してくれ!」
「なぜでしょうか?」
「俺の恋人が今にも死にそうなんだ!今度肺炎を起したら危ないって、主治医に言われてるんだ!」
シノブはビニールに入れたままの医学書を、ノエルの前に差し出してきた。
ノエルはそれを受け取り、医学書の付箋のあるページを見て言葉を失う。
それは、難病の中でも特に症状が重く、根治などあり得ない病だった。
「コウサカさん、この病気ですが…」
ノエルは言いにくそうに言葉を切る。
「完治の可能性が極めて低い難病です」
事実だけを話す。
ノエルが離島で医師として働いていた頃、何度もこうして命の宣告をしてきた。
そこに余計な感情は必要ない。
「助かるかもしれないだろ!?命から逃げるな!」
激昂しているシノブとノエルの間に、リュクサが割って入ってきた。
「ノエルは俺の専属医だ、他者の治療はできない」
「救える命があるってのに、見捨てる気かよ!?」
「俺の命さえ救っていれば、それでいい」
ノエルはリュクサのこの言い分に、少なからず驚いていた。
いつもより強い口調、そして歯に衣着せぬ物言い。
デスルーラーとしての風格が備わりつつあるのかもしれない、そんな風に思った。




