嵐の夜
この日の夜は、数年に一度と言われる激しい嵐に見舞われていた。
暴れる風に流された雨粒が容赦なく顔面を打ち、ぬけるみに足を取られては転倒してばかりだ。
「負けて…たまるか…!」
シノブ・コウサカは半ば怒鳴るように自分にそう言い聞かせると、唇をきつく結ぶ。
『次に肺炎を起したら、覚悟してください』
恋人であるマリ・トクナガの主治医は、高熱に苦しむ彼女に薬を投与すると、静かな口調でシノブにこう告げてきた。
「覚悟なんてしない…!マリは死なせない…!」
シノブは最悪の未来を頭から振り払った。
そうしないと、嵐の中を疾走する自分が愚かしく思えてしまうから。
そうしないと、マリを助ける新たな主治医を見つけられないから。
シノブがこの悪天候の中を走り続けるのには、理由があった。
『現デスルーラーの住むノクティス家に、ノエル・ヴァレンティスという医師がいるそうです。彼はこの医学書の著者なのです』
主治医がそう前置きして差し出してきたのは、一冊の医学書だった。
分厚くて専門用語ばかりが並び、素人のシノブには何が何だかさっぱりだ。
だが、主治医はこんな風に話を続けた。
『その書が世間に出回ってからというもの、多くの医師が指南書として使っています。医学界の宝とも言えるでしょう』
マリの病気を治したいのであれば、ノエルの手を借りてくれ、ということだった。
主治医が「匙を投げた」とも言えるだろう。
それから、シノブがノクティス家の住所を調べたところ、自分達の住まいから徒歩で約十五分という距離であることがわかった。
だから、こんなに悪天候でありながら、シノブは医学書を片手に、ノクティス家を目指しているのだ。
「シノブ、どこに行くの…?」
家を出る前にマリの様子を見ると、薄っすら目を開けた彼女が問うてきた。
「ちょっと、用があってさ。ああ、心配はいらない、すぐに戻るから」
彼女を安心させようと、努めて穏やかに言うと、シノブはマリの黒髪を撫でる。
その手に、マリは自分の手を重ねてきた。
少し熱っぽく、汗で湿った感触だった。
「無茶はだめよ…外は荒れているわ」
シノブはハッとして意識を外に向ける。
しばしじっとしていると、窓を叩く雨粒の音や、外で吹き荒れる暴風の音が聞こえてくる。
マリを案じるあまり、周囲の雑音から完全に意識が外れていたらしい。
「無茶はしないよ、マリ」
シノブはマリの手を、愛しむように両手で包んだ。
「だから安心して寝ててくれ。俺はお前の命を絶対に諦めたくないんだ」
「シノブ…」
「今はきっと、悪い夢ばかりを見る時期なんだ。でも、その次はいい夢を見られるようになる。俺が保証するから」
シノブとマリが出会い、付き合い始めたのは、約四年前、二人が十八歳の頃のことだった。
付き合うほど惹かれ合い、自然と結婚を意識するようになっている。
そして、マリが病気を患ってから、そろそろ二年が経過しようとしていた。
最初はただの貧血だったのに、いつから重病人になってしまったのか。
それは、シノブにもマリにもよくわかっていないことだった。
だが、これだけは絶対に実行しようと決め手いる。
「絶対だ…絶対にノエルという医者にマリを診させて見せる…!」
シノブのマリへの愛が、シノブの体を支配し、動かしている状態だった。
そのうち、目の前に広大な屋敷のシルエットが見えてきた。
暗闇の中、邸内の電気の力だけでその輪郭を闇に示す様は、圧巻だ。
「あれが…ノクティス邸か!」
シノブとマリの家とは比べ物にならないくらい、大きくて荘厳さを感じさせる建物。
ここがデスルーラーの本拠地で、ノエルの住まいでもある。
「でも、なんでデスルーラーの家に、医師がいるんだ?」
この時のシノブは、このことについてあまり深く考えていなかった。
道中何度も転倒しているシノブは、背筋を伸ばして玄関のドアを大きくノックした。
チャイムを鳴らすよりも、自分の大きくて太い声の方が、嵐の中でよく通るだろうと判断してのことだった。
「開けてください、ヴァレンティス医師!あなたに、診察をお願いしたい人がいます!」
ありったけの勇気を振り絞って大声を放つと、ゆっくりと内側から玄関が開かれ、「どなた様ですか?」と執事らしき人物が聞いてきた。




