第88話 ヴァリスの決断
窓から差し込む光が、さっきより少し低くなっていた。
地図は机の上にあるままだった。五つの墨の点が羊皮紙の上にある。ヴァリスは地図に向いていた背を起こして、室内に向き直った。
「方針を話す」
全員の顔が向いた。
「公表はしない。聖戦にも参加しない。こちらで動く」
三つ、続けて言った。それだけだった。
ミリアが最初に口を開いた。「公表しない場合、教国はどのタイミングで動いてくることになるの」
「それは今の段階では分からない」とヴァリスは言った。「ただ——」一拍置いた。「教国を動かす前に、こちらで確かめる。戦になると、真実より立場が先に立つ」
ミリアが窓の外に目を移した。「うん」と言った。「それはそうだよ。教国に大きな声で動かれたら、あたしでも押さえにくくなる。旗を立てた後の動きは速い」
レイナが続けた。「アルヴェリアとしての体制はいかがお考えですか?」
「少人数で動く。この会合自体も、記録に残さない。ここ側は——俺が政治の蓋をする。外からの視線が増えても、内側は動かさない。レイナには騎士団の管理を頼む。いつも通りに見える状態を保ってほしい」
「承知しました」レイナは短く言った。
「ミリアには楔の外縁を補強してほしい。封印の劣化を一日でも遅らせることが今の最善だ」
「できる範囲で」とミリアは言った。「あたしひとりで全部は無理だよ。でも、持続する時間は延ばせる。やってみないと分からないけど、やる」
「それで十分だ」ヴァリスはユミナの方を向いた。「エルセア側については、ヘルマ・ノルの班に地盤の安定化を続けてもらう。ヴェルダ・ロートには記録の解読を。ユミナには——送信術式と楔の構造解析を続けてほしい。作戦の中心になる」
ユミナが書き付けから顔を上げた。「できる範囲で尽力します」
「頼む」
恒一は地図を見ていた。点と点のあいだに、動く人間たちが配置されていく。ここにいない仲間の名前も、その場所に入っている。ヘルマならば「報告書を書いていれば問題ない」と言いながら、すでに動いているはずだった。
「コイチの役割は」とミリアが聞いた。
ヴァリスが少し間を置いた。「それはあとで話す」
ミリアが一度だけ恒一を見た。軽口の間が少し長かった。目が軽くなかった。「うん」と一言だけ言って、視線を外した。
レイナが最初に立った。「準備に戻りますわ」と言って礼をした。扉を引いた。廊下の空気が一瞬入ってきて、また閉まった。
ミリアも続いた。立ち上がりながら言った。「あたしは今夜、聖堂で確認したいことがある。封印の外縁の状態を、直接感じてきた方がいい」扉の前で一度振り返った。「ヴァリス、無理しないでね。政治の蓋がなくなったら、こっちが動けなくなる」
「分かってる」
「本当に分かってたら言わなくていいんだけど」とミリアは言った。それだけ言って、出ていった。
ユミナが書き付けをまとめた。「調査の続きに戻ります」と言って立った。恒一を一度見た。何かを確認するような目だったが、何も言わなかった。扉が静かに閉まった。
部屋に二人が残った。
ヴァリスが椅子を引いて腰を下ろした。机の向こうから恒一を見た。「座ってくれ」
恒一は椅子に座った。地図を挟んで向かい合う形になった。ろうの細い匂いが燭台から来ていた。窓の光は橙に近くなっていた。
---
「ユミナの話をしたい」とヴァリスは言った。
「聞く」
「消耗が進んでいる」ヴァリスは言った。「今日の会議中も、石を使っていた。一度だけだが、俺には分かった。以前と比べて回数が違う」
恒一は何も言わなかった。
「理由については——断定はできない。干渉が変質しているのか、研究の負荷が加わっているのか、あるいは両方か。いずれにせよ、ユミナ自身はまだ俺に話していない」
「俺にも話していない」と恒一は言った。「ただ——石の回数は数えていた」
ヴァリスが少し止まった。「知っていたか」
「先週は一日一回だった。今日は四回だった」
ヴァリスが机の端を一度見た。「問い詰めてみたか」
「一度だけ、聞いた。「全部話してくれ」と」
「返答は」
「「まだ確認が足りていない部分があります」と言った」恒一は続けた。「嘘じゃないと思う。ただ——確認が足りていないから話せないのと、確認が済んでも話さない可能性があるのは、別の話だ」
ヴァリスがわずかに頷いた。「そうだ」と言った。「あの女は——問われた範囲で最適な答えを返す。それ以上は渡さない。善意でやっているから性質が悪い」
「そういう作りになってる」
「そうだ」
短い沈黙が来た。ヴァリスが机の上の地図に目を落とした。
「だから、頼みがある」
恒一は待った。
「君には剣ではなく、判断を頼みたい」
「何の判断か」
「ユミナが——自分で選べるうちに話を引き受けられる唯一の相手が、君だ」ヴァリスは言った。「俺は政治の立場がある。ミリアは教国との間に立っている。レイナも、フェリルも——みんな何かを背負っている。ユミナが話す時、政治の計算の外に立てる人間が必要だ」
「それが俺だということか」
「そうだ」ヴァリスは言った。「ユミナが壊れる前に、誰かが受け取れる場所にいなければならない。その場所が計算できる人間ではなく——ただそこにいる人間でなければならない。話させようとするのではなく——話す気になった時に、そこにいる人間が」
恒一は机の角を見た。書き付けの端が一枚、折れていた。
向かい合ってみると、ヴァリスが言っていることは分かった。政治でも能力でもない。二十年間ひとりで何かを抱えてきた人間が、最後に口を開く相手——その場所に立てるかどうかの話だった。
「分かった」と恒一は言った。「引き受ける」
「……時間が、多くはないかもしれない」とヴァリスは言った。声がわずかに落ちた。「正確には分からない。しかし——早い方がいい」
「頼む」ヴァリスは地図を一枚折った。「これで今日の話は終わりだ」
---
廊下は静かだった。
カルスの姿はなかった。遠くで扉が一度開いて閉まる音がした。それだけだった。
判断を頼む、とヴァリスは言った。剣ではなく、と言った。ユミナが話す時にそこにいろ、と言った。それだけだった。
何をすれば正解なのかは、教えてもらえなかった。当然だった。ヴァリスにも分からないから頼んでいる。分からない状況で、ただそこにいることを求められている。
会社員として20年、待つことだけは覚えてきた。会議の結論を待ち、承認を待ち、状況が動くのを待った。しかし今のそれは質が違った。結論を待つのではなく——人が自分から口を開くことを待っている。壊れる前に。
廊下の石は冷たかった。試験線の石畳と違って、ここは乾いている。
恒一は部屋に向かって歩いた。ユミナはまだ書き付けを続けているかもしれなかった。今日何回石を使ったかは、もう数え終わっている。明日からまた、一から数える。
それだけだった。




