第76話 ミリアの祈り
城の東側に礼拝室がある、とカルスから聞いていた。
公式行事の場ではない。城に滞在する者が朝夕に使う、小さな部屋だという。本来は内輪のものだが、来客にも開放している——そういう説明だった。
午前の作業が始まる前に廊下の配置を頭に入れておこうと、恒一が東区画の通路を歩いていた時のことだった。廊下が折れたところで、扉が半開きになっていた。明かりが漏れていなかった。音もなかった。それでも足が止まった。通り過ぎようとして、一歩目が出なかった。
扉の隙間から中を見た。
小さな部屋だった。天井が低く、石壁に嵌められた燭台の火が一本だけ揺れていた。窓がなかった。床の石畳の上に、跪く人影があった。栗色の髪が肩から落ちていた。背が丸まっていた。いつも軽く張っている肩が、内側へ向かっていた。両手が胸の前で組まれていた。
ミリアだった。
頭が、降りていた。
エルフェイン公爵家の一人娘だ、とヴァリスから事前に聞いていた。アルヴェリア王家に次ぐ立ち位置にある家の、唯一の後継ぎ。幼い頃から神聖魔法の才覚が突出していて、ザイラント教国から聖女の認定を受けた。今はアルヴェリアと教国を行き来しながら、その両方に顔を持っている。王妃レイナとは幼い頃からの親友でもあると聞いた。「ザイラント教国に籍を置いてはいるが、信用してやってほしい」——ヴァリスの言い方は短かった。その短さに込められているものは、分かった。
声はなかった。口が動いているかどうか、隙間からは分からなかった。ただ全身がそちらへ向かっていた。意識が外に出ていない人間の形をしていた。
立ち去るべきだと分かった。一歩引いた。それでも扉の前から離れられなかった。
「立ってると疲れるよ」
声がした。
ミリアが上体を起こして、こちらを見ていた。燭台の明かりが側顔に当たっていた。
「すみません。通りかかって——」
「理由をつけなくても大丈夫」
以前に聞いた時と同じ声。軽い言い方だった。ただ、立ち上がる動作にわずかな時間がかかった。片膝を立て、石畳に手をつき、それから上がった。重いものを降ろした後のような、微かな間があった。
ミリアは扉の隙間を少し広げた。言葉はなかった。中に来てもいい、という意味だと受け取って、恒一は扉を通った。
燭台の火は小さかった。油が焦げるかすかな匂いがあった。部屋の奥の壁際に小さな台があり、木彫りの像が一体置かれていた。エリンやターレ港で見たザイラント教国、引いては神聖魔法の力の源泉とされるザイ=アリオスの神像とは少し形が違った。
「毎朝、ここに来るんですか」
「できる時は」ミリアは燭台の台の縁に触れながら言った。「習慣みたいなもの」
「アルヴェリアにも礼拝の場所があるとは思いませんでした」
「あたしが戻った時に困るからって作ってもらったの。ヴァリスに」
あっさりとした言い方だった。ヴァリスが政治と信仰を意識して切り離してきた国で、それでも求めれば部屋を用意する。二人の間にある信頼の形が、その一言に出ていた。
「何に、祈っているんですか」
言ってから踏み込んだかと思った。しかしミリアは気にした様子がなかった。
「色々だよ」と言って、台の前に戻り、木彫りの像を一度だけ見た。「今日の一日が誰かにとって普通であるように。どこかで誰かが今日も生きていられるように。——それから、封印が今日も持っていてくれるように、とか」
最後は、前の二つと同じ軽さで言われた。
恒一は答えなかった。
封印、という言葉が部屋の中に残った。
ミリアの声のトーンは変わっていなかった。それでも、言葉の重さが違った。「今日の一日が誰かにとって普通であるように」と「封印が持っていてくれるように」が、同じ息継ぎで並ぶのか。恒一は何が封印されているのかを知らなかった。聞いても即座に答えが返る問いではないと判断した。ただ、この人間が毎朝それを祈っているという事実の意味が、ゆっくりと輪郭を持ってきた。
「……今も、その封印というのは魔族のことですか?」
魔族ヴァル=ノスティア、異端魔法を操る、主神ザイ=アリオスの不倶戴天と言われる存在であり、この殲滅を国是としているのがザイラント教国と聞く。
かつて、アルヴェリアとザイラント教国の介入により解決したベルテア騒乱時には、人が召喚した魔族たちが国を崩壊に導いたという話をユミナから聞いていた。
ミリアは燭台に向いたまま答えた。「変わってきてる。ゆっくり、でも確かに」
「あなたが、どうにかしなければならない」
「そういうことになるかな、最終的には」
笑い方ではなかった。嘆きでもなかった。事実を述べる声だった。
恒一はミリアを見た。礼拝室の中にいるミリアは、試験線で話しかけてきた時と同じ人間だった。声も顔も変わっていなかった。それでも、ここにいる人間は別の側面を持っていた。
「コイチくんはさ」とミリアが言った。「怖いものってある?」
突然だったので、答えるまでに一拍かかった。
「……ある状況では」
「どんな状況?」
「自分が観察しても手が届かないと分かった時」
「ああ」ミリアは小さく言った。「それ、分かるかも」
「あなたが、ですか」
「あたしにも手の届かないものはある」ミリアは少し言葉を選んだ。「でも——手が届かないと分かってるなら、どこに立てばいいかは分かるじゃない。手が届かないものの手前に、立てるかどうか。それが問題だから」
恒一はその言葉を聞いていた。
手が届かないものの、手前に立つ。
ミリアがやっていることは、そういうことだった。毎朝ここへ来て、封印が持つよう祈ることで、自分が立つべき場所を確認している。神聖魔法の使い手として、守護する側に立ち続けるために。
「重くないですか」
口から出た言葉は、自分でも少し意外だった。
ミリアはしばらく像を見ていた。
「重いよ」と、言った。「でも——降ろせないもの、あるじゃない。降ろしたら他の誰かが拾うしかない、というものが」
「そうですね」
「コイチくんも、持ってるでしょ。そういうもの」
恒一は少し考えた。「どうかな。まだ、そこまでの重さとは思っていないですが」
「謙遜じゃなくて?」
「謙遜ではないと思います。ただ——持てるかどうか分からないものを、持とうとしている最中です」
ミリアはそれを聞いて、「ふうん」と言った。否定も肯定もなかった。「それで十分だよ、きっと」とだけ言った。
恒一にはその言葉の根拠が分からなかった。しかし、それ以上は訊かなかった。
「お邪魔しました」
恒一は礼をして、扉を出た。
「またね、コイチくん」
明るい声だった。廊下に朝の光が差していた。恒一はしばらく扉の前に立っていた。遠くで城下の音が始まっていた。荷車の軋み、鐘の音、遠い子どもの声が混ざっていた。
中央ダンジョンの五層で、ノルが父の命を落とした場所の前に立って祈った時のことが頭に浮かんだ。声を出さなかった。口の形だけが動いていた。神聖魔法を核にした信仰を持ちながら、あの祈りは個人として向けられていた。亡くした人へ、継続として積まれてきた時間のものだった。
ミリアの祈りは外側へ向かっていた。封印へ。世界の均衡へ。個人の喪失ではなく、これから起きうるものへ。
どちらが重いとは言えなかった。どちらも本物だった。
異端魔法の存在が確認された時、ザイラント教国は聖戦を発動する——ユミナがエリンで話していた言葉を思い出した。ミリアはその中核を担う者だった。ベルテアを巡る騒乱で、大陸の歴史の中で初めて儀礼魔法を単独で使った者だった。
その人間が毎朝、封印が持つよう祈っていた。
聖戦は、遠い話ではない。
その認識は今日初めて生まれたものではなかった。しかし礼拝室の扉の外に出た今、それは前よりも重さを持っていた。
足を動かした。廊下の朝の光の中を、歩いていった。




