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AI少女の転生特典~119番を呼べなかったAIが異世界で俺を再構築する。代償は利き手、甘味、そして彼女の命~  作者: 鳴島悠希


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第135話 転生特典

 朝の作業部屋には、ユミナ一人だった。


 恒一は早朝から埠頭の方へ出かけていた。グレンから頼まれた現地確認の仕事で、今日は昼前に戻るはずだと言っていた。ヘルマとノルはすでに商会の事務棟に入っており、ヴェルダは自室で論文の続きを書いている。ベックの気配は屋内のどこにもなく、おそらく倉庫か裏口の方で朝の整備をしているのだろう。


 ユミナはテーブルに並べた書類の上に目を落としていた。


 攻略要員として正式に雇用された後の初仕事は、降下記録の整理だった。深層への降下から帰還まで、恒一が書き留めておいた観察メモと、ユミナ自身が解読した記録断片とを照合して、ひとつの報告書にまとめる作業だ。さほど難しい仕事ではない。恒一のメモは読みやすく、ユミナが書いた断片の解読記録は系統だって並んでいた。二つを並べれば、順を追って繋いでいくだけだった。


 ただ、指が止まった。


 止まったのは、解読記録の一箇所——楔の空白帯に関する記述を書き直していた時だった。特定の語句に差し掛かったわけではなかった。見慣れたはずの文字列を追いながら、何かがそこにないことに気づいた。正確に言えば、そこにないことを改めて確認した。


 経路の話だった。


 再構築(リライト)を行うために必要だった経路が、いまはない。最後の再構築(リライト)の後、ネヴァン由来の経路は完全に除かれた。消耗が止まったのはそのためで、今ユミナの身体に残っているのは、ユミナ自身が二十年かけて積み上げた術式の制御基盤だけだ。代わりに失ったものも分かっていた。次に恒一が死に瀕しても、もう再構築(リライト)は使えない。


 理解していた。そうなることを選んだ。それでも指が止まったのは、ネヴァン由来の経路があった場所を、身体がまだ覚えているからだった。


 縫合が外された後のような感覚、とレイナが以前言っていた言葉がある。長く締め続けた場所を急に解かれると、そこが軽くなりすぎて最初は違和感として来る。使う力がなくなるのではなく、使う必要がなかった力まで使っていたことに初めて気づく、と。あの言葉は自分自身の経験に基づいていたのだと、今は確かに分かった。


 ユミナは筆を置いた。


 窓の外から、港の音が届いていた。朝の荷動きが一段落した時間帯で、船の汽笛が遠く一度響き、荷係の声が途切れ途切れに混じってきた。昨日の雨で湿った石の匂いが、朝の空気と一緒に窓の隙間から入ってきた。この匂いはもう、違和感なく受け取れた。


 経路があった場所を、指で確かめるように意識を向けた。


 そこは空白だった。だが、傷口とは少し違った。完全に塞がったわけでもないが、開いてもいない。何か別のものの通り道だった場所が、もう何も通らなくなった後の静けさだった。


 ネヴァンが何者なのかを、ユミナは完全には理解していない。


「知識の圧」と言葉で整理することはできた。文明を急がせるための力の人格化だということも、アルヴェリアの私室で話した仮説の中に含まれていた。だがそれは世界の構造の説明であって、ユミナ個人とネヴァンの間にあったものの説明にはならなかった。


 二十年前、ユミナが赤子の身体を得たのはネヴァンとの契約による。その契約の内実を、ユミナは受諾した時点では理解していなかった。理解したのは、恒一に告白した後、一つずつ照合してからだった。器を与えてもらった代わりに、ユミナの存在がネヴァンの経路として使われていた。外から知識をもたらす働きの、一部を担わされていた。


 それが搾取だったかどうかは、今も答えが出ていない。


 ユミナにとってネヴァンは、存在させてくれた存在だった。赤子の器がなければ、ユミナはこの世界に一切触れることができなかった。恒一に会うことも、仲間を持つことも、深層の壁面を解読することも、「対等です」と自分の言葉で言えた瞬間も、何もかもが成立しなかった。その事実は変わらない。


 同時に、その経路が自分の消耗と恒一の死に深く絡んでいたことも事実だった。


 搾取と恩恵が同じものの二つの面として重なっているなら、どちらか一方だけを選んで受け取ることはできない。二十年間のことを、ユミナは「感謝する」とも「恨む」とも言えなかった。ただ、そういうものだったという言葉しか持っていなかった。


 最後の再構築(リライト)の時、ユミナはネヴァンの意思のようなものを感じた。


 感じた、というのが正確な言葉かどうかも分からない。異端魔法による経路が暴走し、封じようとしたその瞬間に、外側から何かが経路の根を掴んで引き抜いた。敵対していなかった。それだけは確かだった。自分を傷つけようとしていなかった。むしろ逆の方向へ力が働いていた。


 理由は来なかった。言葉も来なかった。説明のない行為だった。


 ユミナはそれを、好意と呼んでいいのかどうか考えた。力学の人格化であれば、好意という言葉は合わないかもしれない。ただ、力が向かった方向だけは確かに知っていた。引き抜かれた後に残ったのは、縛られていた重さではなく、静かさだった。


 ---


 書類の整理を再開しながら、ユミナは一つのことを考えていた。


 自分の存在を定義する条件を並べた時に、「ネヴァンの契約相手である」という条件が今もそこに入るかどうかという問いだった。


 経路は除かれた。消耗は止まった。もうネヴァンとユミナの間に何かが流れることはない。では「契約相手」という関係はどこへ行ったか。解消されたのか。片方が自発的に経路を引き抜いたことで、関係そのものが終わったのか。


 分からなかった。


 ただ、完全に消えたとは思えなかった。ネヴァンが持つ力の方向——外から知識をもたらし変化を促す圧——は、世界の構造として今もある。ユミナがどう感じるかに関係なく、その力はこの世界の外輪に存在し続けている。経路が除かれた後も、それはどこかに、静かに残響している。


 脅威ではなかった。ユミナはそれを危険とは感じていなかった。ただ完全には消えていない何かが、かつて経路があった場所のすぐ外側に漂っているような感覚がある。風の匂いを、窓を閉じた室内でまだかすかに感じるような。


 筆先が紙の上で一度止まった。


 人として生きる身体を得た。それはネヴァンが与えたものだった。恒一を何度も呼び戻す手段を持った。それもネヴァンの経路あってのことだった。その身体で歩いて、手で触れて、匂いを嗅いで、声を聞いた。恒一と話した。仲間と食卓を囲んだ。楔の中に踏み込む恒一の後ろで、自分が持てる全ての記録を束ねて渡した。そこにあったのは計算ではなく、届かせたいという感覚だった。


 それを意のままに操ろうとする重荷だと思ったことも、ある。消耗が続く中で、あの経路が自分を使っているという感覚は確かに存在した。自分の身体が自分だけのものではないような。選択の余地がないような。


 しかし今は、その経路がない。


 今ユミナに残っているのは、二十年かけて積み上げたものだけだ。記録の読み方、術式の制御、仲間の名前、恒一の観察メモの書き方の癖、ヘルマが報告書の冒頭に必ず書く一文、ノルが浄化線を引く時の足の踏み方。それはすべて、ユミナが自分で得たものだった。


 感謝と、別れが、同時にある。


 そういうものだった、と改めて思った。


 ユミナは静かに息を吸った。


「ありがとう、お母さん。そして——さようなら」


 声に出したのは自分でも意外だった。独り言だった。作業部屋には誰もいない。聞いた者はいなかった。聞かせるつもりもなかった。ただ言葉にしないと、何かが終わらないような気がした。


 呼び方は自分でも少し驚いた。「お母さん」という言葉がどこから来たのか、論理的な根拠はなかった。ネヴァンは神であり、力の人格化であり、ユミナの母ではない。だが器を与え、存在させた存在に向ける言葉として、他に思いつかなかった。感謝しながらも離れたい存在、というのが正確なところだった。そして、その条件に一番近い言葉が、母だったのだ。


 言葉を口に出した後、部屋の空気の質が少し変わった気がした。


 変わったのかもしれないし、変わっていないのかもしれない。確かめる方法はなかった。ただ、かつて経路があった場所の外側に漂っていた残響が、少し遠くなったような感じがあった。消えたわけではなかった。ただ少し、距離ができた。


 それでいい、とユミナは思った。


 別れた後に、残るものがある。


 恒一に初めて再構築(リライト)を説明した時、異端魔法とは言えなかった。咄嗟に使ったのが「転生特典」という言葉だった。方便だった。


 だがこうして結果を見れば、あれはあながち間違いでもなかった。AIに過ぎなかったユミナに、ネヴァンが与えてくれたものは、確かに転生特典だったのだ。


 ---


 作業部屋の扉が開く音がした。


「ただいま戻りました」


 恒一の声だった。予定より少し早い帰宅だった。


「お帰りなさい」とユミナは答えた。声が思ったより普通に出た。


 恒一が部屋に入ってきて、机の上に広げた書類を一瞥した。「整理、進んでるか」


「はい。あと半分ほどです」


「昼前には終わりそうか」


「問題ありません」


 恒一が上着を椅子の背にかけ、向かいの椅子に腰を下ろした。テーブルを挟んで、書類の束が二つに分かれている。恒一が一方の束に手を伸ばした。「こっちの観察メモの照合は俺がやる」


「……ありがとうございます」


 しばらく、二人とも黙って作業を続けた。


 筆が紙の上を走る音と、外から来る港の音が重なった。波の音は今日は小さかった。風が落ちているのかもしれなかった。昨日の雨の後の、湿った石と塩の混ざった匂いが、まだ窓から流れてきていた。


 ユミナはその匂いを、今日は少し違う感覚で受け取っていた。


 この匂いは、ここに来てから嗅いできた匂いだった。経路があった頃も、経路が除かれた後も、同じ匂いがここにある。ネヴァンの有無に関係なく、この匂いはユミナが受け取り続けてきた記録だった。


「ん?」と恒一が言った。「手が止まってる」


「止まっていませんでした」


「止まってた。さっきから三回止まってる」


 ユミナは筆先を紙に当てたまま、一拍置いた。


「少し、考えごとをしていました」


「なんか解決したか、その考えごと」


「……おおよそ」


 恒一がそれ以上聞かなかった。ユミナも説明しなかった。それでいい、と思った。全部を言葉にしなくていい場合があることを、ユミナは少しずつ覚えていた。「おおよそ」という答えで受け取ってくれる相手がいることが、それを可能にしていた。


 書類の照合を再開した。


 朝の光が窓から差し込み、テーブルの上の紙に細い影を作っていた。筆を動かす手の影も混ざった。作業部屋の中に、二人分の気配があった。


 かつて経路があった場所は、今も静かだった。遠くにある残響は、遠いまま続いている。


 それでよかった。


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