5.カケス
夜はまだ浅い。
鳥かごに押し込められることなく、わたしはまだヨダカの膝の上で抱きしめられ、温められていた。
けれど、心は冷え冷えとし始めていた。
それもこれも、わたしが戯れに質問なんかしたからだ。ヨダカはきちんと答えてくれたのだろうけれど、そのお陰でわたしは脈が強まるほどの動揺を覚えていた。
――愛している子?
その言葉をヨダカ本人の口から聞いた瞬間、確かにわたしは嫉妬したのだ。それは、心から熱望したのにも関わらず、好みの人と誓いの唄を歌い合う立場を他の歌鳥に取られてしまった時と同じ感情だった。
ヨダカはそんなわたしには気付かないようで、そっと教えてくれた。
「うちに居る僕妾の中にはね、あまり恵まれた境遇ではない者が結構いるの」
同じ人間なのに、運が少し違うだけで立場が変わってしまう。
歌鳥だって同じだ。恵まれて番え、一生人間と関わらずに歌鳥として幸せな一生を終える者もいれば、このわたしのようにあっさりと人間に捕まる者もいる。そして、人間に捕まった後でも、その人間によって運命は大きく分かれていくものだ。
きっと歌鳥の血を引かぬ人間も同じなのだろう。
ちょっとした考え、ちょっとした環境の違いで、何もかも変わってしまうのだろう。
「だいたいはムクやコマに紹介された子がここに来ることになる。この屋敷を住まいとし、しっかりと働いてもらうことになる」
でもね、とヨダカは微笑む。
「カケスはちょっとだけ違うの。あの子は……あの子は、大昔に、兄に頼み込んで市場で買ってもらった娘なの」
「市場で買ってもらった……?」
その言葉に驚いた。
だって、カケスは歌鳥の血を引かない人間だからだ。もしかして、歌鳥以外にも獣とされている一族がいるのだろうかと一瞬考えたけれど、やはり違うと思いなおした。だって、そうだったらカケスが妾として立派に働くなんてないはず。
つまり、人間が人間を買うということだ。
「驚いているの、カナリア?」
「市場では獣でない人間までも売っているの……?」
「ええ、そうよ。いろんな事情で行き場のない子達がお金で取引されているの」
淡々とヨダカは語った。
それが異常な事だなんて考えてもいないらしい。では、わたしの方が間違っているとでもいうのだろうか。一瞬、迷ってしまったけれど、やっぱり理解出来なかった。だって、歌鳥が歌鳥を支配し、金で取引することなんて聞いたことも考えた事もなかったのだから。
――歌鳥の血を引かぬ人間は残酷なものなのだよ。
一瞬、父の顔が脳裏を過ぎった。
お父様、娘は今になってやっとその意味をきちんと理解出来た気がいたします。
――ああ、けれど、お父様、そしてお母様。
それでも、わたしはどうしてもヨダカに失望したり、嫌いになったりすることが出来なかった。そもそも、彼女がわたしを騙して毒を盛り、閉じ込め、誓いの唄を強制しようとした時でさえも、ヨダカの美貌の虜であり続けたというのに。
一体どうして、わたしはこの女に惚れこんでしまったのだろう。
見栄えのせいだろうか。
歌鳥が伴侶を選ぶ際に注目するところは歌声の美しさが一番だけれども、その次に来るものはやはり見た目なのだと言われている。
そんな事はないと反感を覚えた事もあった気がするけれど、独り立ちをしてしばらく時が経てば、嫌でもその特徴を認めなくてはならないと自覚してしまうものだった。
わたしが好きになり、契りを期待するのはいつだって美しい人であったし、わたしに惚れこんでくれた他者の中で、ひと時の夢すら考えられずに断る選択をした相手はいつだってわたしの中の美意識に全く引っかからない者だった。
つまり、わたしがヨダカに惹かれてしまうのは美貌のせいに過ぎない。
では、そうと分かっていれば理性を取り戻せるのだろうか。答えは決まっている。そんなわけがない。ヨダカが姿を見せるだけで、わたしを呼んでくれるだけで、そして、わたしの身を少しでも労わってくれるだけで、わたしは幸せな気持ちになってしまうのだから。
だから、同じ人間にも関わらずカケスを買ったという話を聞いたくらいで、わたしがヨダカを軽蔑するようなことなんてあり得ない。
それでもわたしの心が震えるのはどうしてだろう。
認めよう。醜くもわたしはカケスに嫉妬しているのだ。今よりも若い頃、ヨダカに気に入られてこの屋敷に入ったカケス。わたしよりもずっと長く、そして、ずっと多くのことを知っているお気に入り。
深く考えれば考えるほど、わたしは何故だか泣きだしそうな気持ちになった。
そんなわたしの内心など気付いてもいないのだろう。ヨダカはわたしを見ることも無く、話し続けた。
「買われたばかりの時、カケスはいつだって怯えていたわ。私の機嫌を損ねないか心配だったのね。身の上を聞けば、彼女の生みの両親はとんでもなく楽観的な人で、それが災いして食うに困り、彼女が売られる事となったそうよ」
信じられなかった。どうしてそんな事になるのだろう。
金というものに縛られなくていい野生の歌鳥の世界では考えられない話だ。そもそも、そんな状況になったとしても、自由を約束されているような身分でありながら、我が子を売りさばいてしまうなんて恐ろしい話だった。
この世界の人間達は幸せなのだろうか。ふと、わたしは思った。
かつては人間を羨んだ。歌鳥を当然のように支配できる身分は妬ましかった。
だけどそんな人間であっても、ヨダカのように確かな地位があっても、落ちぶれれば我が子を売らなくては生きていけないほどの状況に立たされてしまうのかもしれないのだ。そんな社会が生み出した産物がカケスであり、そのカケスを救ったのがヨダカたち。
「あの子は多分、これからもずっと心を開いてはくれない。当然でしょうね。期待もしていないわ。でもね、カナリア、私はあの子を放っておけないの。同じ年頃で、同じくらいの時を生きてきた私達がこうも違ってしまっている事はどうしようもないけれど、せめて、私が引き取ると決めた以上、あの子の事は最後まで責任を持ちたいのよ」
その強い意思を伴った言葉を前に、わたしは口を噤むしかなかった。
醜い嫉妬はあてもないまま虚しく燻ったままだ。どんなにヨダカの事が好きでも、わたしは想い知ってしまったのだ。ヨダカのカケスに対しての想いに関しては、わたしの出る幕は何処にもないのだと。
それはわたしにとってみれば、確かに切なくて苦しい事実であった。