変わらない呼び方
気づけば、澪と付き合って二年目に入っていた。
大学のキャンパスでそんなことを考えていると、自分でも少し不思議な気分になる。二年、という数字は短いようでいて、思い返せばずいぶん色んな季節を一緒に過ごしてきた気がした。
春に出会って、夏を越えて、秋に少し距離が縮まって、冬に正式に「付き合おう」と言われ。それからまた春が来て、今は二度目の春。
澪は今、高校三年生。私は大学二年生。
数字だけ見れば、たった二歳差。でも、その「高校生」と「大学生」の間には、思った以上に大きな溝があることを、私はもう十分に知っている。
駅前のカフェで待ち合わせをしていると、制服姿の澪が入口から入ってくるのが見えた。
背筋を伸ばして、周りを気にしながら、まっすぐこちらに歩いてくる。
「白石先輩、お待たせしました」
きちんとした声、きちんとした距離。
私は小さく笑う。
「ううん、今来たところ」
澪は外では、ずっとこうだ。
敬語で、少しよそよそしくて、誰が見ても「後輩と先輩」にしか見えない態度。
でも、それは約束みたいなものだった。
――外では、ちゃんとした距離を保つこと。
席に座って、注文を済ませて、他愛ない話を少しだけする。学校のこと、受験のこと、私のレポートの愚痴。
周囲から見れば、よくある先輩後輩。
でも、店を出て、少し人通りの少ない道に入った途端、澪は小さく息を吐いた。
「……つかれた」
声が、急に柔らかくなる。
「お疲れさま」
「もう、外の澪は終了」
そう言って、私の袖をちょっとだけ引く。
「ねえ、紬」
名前の呼び方が変わる。それだけで、胸の奥のスイッチが切り替わる感じがした。
澪は、二人きりになると本当に分かりやすい。
外ではあんなにしっかりしているのに、今は少しだけ歩くペースを落として、私の隣にぴったり寄ってくる。
「今日、模試でさ……」
「うん」
「全然できなくて、ちょっとへこんでる」
「そっか」
「だから、今日は甘やかして」
さらっと、そんなことを言う。
私は苦笑するしかない。
「はいはい」
付き合い始めた頃は、こんなふうに素直に甘えてくることは少なかった。
少し遠慮がちで、どこか一線を引いていて。
でも二年経って、澪は「二人のときの自分」を隠さなくなった。
それは嬉しい反面、少しだけ怖くもある。
――この子は、私の前でだけ、こうなんだ。
それって、すごく特別で、すごく重たいことでもある。
家に着くと、澪はすぐに靴を脱いで、ソファに座り込む。
「つかれたー……」
「制服、しわになるよ」
「あとで着替える」
そう言って、そのまま動かない。
私はキッチンでお茶を用意しながら、ちらっと様子を見る。
ソファの背にもたれて、ぼーっと天井を見ている澪は、外での澪とはまるで別人だ。
「はい」
「ありがと」
カップを受け取って、一口飲んでから、澪は少し間を置いて言った。
「ねえ、紬」
「なに?」
「……もうすぐ、卒業だね」
その一言で、胸の奥が少しだけ重くなる。
「うん」
「そしたらさ、私も……そっちの世界に行くんだね」
そっちの世界。
大学生、という意味だろう。
「来たいところに来ればいいよ」
「……それは、そうなんだけど」
澪は、カップを両手で持ったまま、少しだけ視線を落とす。
「ねえ、紬はさ。私が大学生になっても、ちゃんと一緒にいる?」
分かっている。
ただの確認だって。
でも、その「ちゃんと」という言葉が、妙に引っかかった。
「いるよ」
そう答えながら、私は自分の声が少しだけ慎重になっているのを感じた。
澪は、私の顔をじっと見てから、少しだけ笑う。
「……よかった」
それから、ソファの端に少しだけ近づいてくる。
肩が、軽く触れるくらいの距離。
外では絶対にしない、二人だけの距離。
私は、その重みを感じながら、ふと思う。
付き合って二年。
関係は、安定している。たぶん。
でも、澪の世界は、これから大きく変わる。
高校を卒業して、大学生になって、きっと新しい人間関係ができて、新しい場所に行く。
私は、その「少し先」にいるだけの存在でいられるのか。
それとも――置いていかれる側になるのか。
「ねえ、紬」
「ん?」
「ずっと、今みたいでいられたらいいのにね」
その言葉に、私はすぐに「うん」とは言えなかった。
今みたい、は、永遠じゃない。
分かっているからこそ、私はただ、澪の頭にそっと手を置いた。
「……変わっても、一緒にいればいいでしょ」
澪は少しだけ驚いた顔をしてから、すぐに安心したように笑った。
「それ、ずるい言い方」
「なにが」
「安心するから」
春は、また来る。
今年の春は、澪にとって「終わり」と「始まり」の季節だ。
澪の隣に、私はまだ、いられるだろうか。
答えは、まだ分からない。
でも、少なくとも今は――
澪は私の隣で、私の名前を、特別な呼び方で呼んでいる。
それだけを、私は大事にしていた。




