『千鳥ヶ淵――煉獄のほとりに抱かれて』
嵐山の賑わいから一歩離れ、渡月橋小橋を渡ると、そこは別世界だった。
観光客の喧噪が遠のき、船着き場を抜けた先には、時が止まったかのような静寂が満ちていた。
遊歩道は苔むした石畳が続き、両脇の木々はうっすらと朝霧をまとって揺れている。川面には靄が立ちこめ、時折、どこからか鳥の声が響いてきたが、それさえもこの空間では現実感が希薄だった。
「……なんか、空気が違うね」
隣を歩いていた友人の声に、絵里奈は静かに頷いた。
「うん、まるで……この世じゃないみたい」
道端に、誰が供えたのか、ひと輪の白菊が風に揺れていた。その白さがやけに浮いて見えて、絵里奈はふと足を止める。
その先、視界が開けた。
ごつごつとした岩肌がむき出しになった断崖。そのすぐ隣には白い砂浜のような地面が広がっていた。
川は穏やかに流れているように見えて、しかし底からゆっくりと渦が巻いていた。
「ここが……千鳥ヶ淵?」
思わず呟いた絵里奈に、友人は小さく頷いた。
「地元では、身投げの名所って呼ばれてるんだって。水深が異様に深くて、渦に巻き込まれると絶対に浮かんでこないんだってさ」
ぞくりとした寒気が背筋を撫で、絵里奈は無意識に腕を抱いた。
「……なんか、誰かに見られてる気がする」
「言わないでよ、そういうの……マジで怖いから」
二人はそれ以上言葉を交わさず、淵を見下ろすように立ち尽くした。
そこには、何かがある。
確かに、在るのだ。
時は、明応五年。
帝が崩御し、都が深い喪に包まれていた頃。
この地に、一人の漁師が暮らしていた。
喪の期間中は殺生が禁じられ、彼は上流で筏を流す仕事に身を移していた。
彼には、庄屋に奉公に出した息子が一人いた。
その少年は、庄屋の美しい一人娘に密かに想いを寄せていた。
身分の違いを知りつつも、少年の恋は純粋で、狂おしいほどに一途だった。
彼女の姿を一目見るだけで、胸が痛んだ。
ある日のこと。
少年は千鳥ヶ淵近くで、娘が一人で歩く姿を見つけた。
川霧のなか、白い布をまとった彼女が淡く浮かび上がって見えた。
(……会いたい。せめて、もう一度だけでも……)
衝動のまま、少年は彼女のあとを追った。
竹林を抜け、やがて辿り着いたのは、朽ちかけた古びたお堂だった。
少女はそっと中へ入り、戸が静かに閉じられる。
少年は息を殺して扉に近づき、きしむ音を立てないように少しだけ開いた。
そこには、白い布に包まれた菩薩像が横たわっていた。
いや、その顔は――彼の恋した少女と、瓜二つだった。
「……お嬢……なのか……?」
目を疑いながらも、彼は静かに近づき、膝をついた。
菩薩像の顔に手を伸ばし、頬に触れようとした瞬間。
――ひやり。
冷たい石肌の感触。
それでも彼は、目を閉じ、まるで温もりを妄想するかのように、その手を離せなかった。
どれほどの時が流れたのか。
やがて、少年は誰に何も言わぬまま、千鳥ヶ淵に身を投げた。
その恋が、もうこの世で成就することはないと悟ったのだ。
月日は過ぎ、都の喪が明ける。
漁師は再び保津川に戻り、漁を再開した。
その朝も、何の変哲もない一日だった。
「……今日は大漁だといいな」
そう呟きながら、網を投じる。
だが、すぐに異変に気づいた。
「……なんだ……? 妙に重い……」
渾身の力で網を引き上げると、そこには――
水に濡れ、石のように硬直した息子の亡骸。
そして、その腕にしがみつくように、あの菩薩像があった。
まるで、最期まで離れまいとしたかのように。
「……なんてことを……」
漁師は声もなく膝をつき、震える手で息子の髪を撫でた。
その目から、涙が静かに川へと落ちていった。
それ以来、千鳥ヶ淵では、白装束の少年の姿が夜ごと目撃されるようになったという。
彼は淵のほとりに立ち、水面をじっと覗き込んでいる。
まるで、まだ誰かを待ち続けているかのように。
あるいは、再びあの像に出逢えることを、祈っているかのように。
もし、あなたがこの地を訪れ、ふいに背後から冷たい手に触れられたとしたら――
それは、終わらぬ恋に囚われた、ひとつの魂の記憶なのかもしれない。




