『貴船神社の夜――恋と呪いの狭間で』
京都、初夏の夜。
叡山電鉄の終点・貴船口駅で降りた瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。都の蒸し暑さとは異なる、山間の冷気だった。駅前は静かで、街灯も少ない。カップルの美咲と直哉は、スマホの灯りを頼りに貴船神社へ向かって歩き始めた。
「ねえ……この道で合ってる? マップがなんか変……」
美咲は不安そうに眉をひそめ、画面を見つめる。スマホの地図は突然、進行方向とは真逆を示し始めた。
「だいじょぶだって。ほら、もうすぐ鳥居が見える」
直哉が指差す先、霧の中に赤い鳥居が浮かんでいた。朱塗りの柱は湿気で黒ずみ、まるで長い年月を吸い込んだような深い色合いを放っていた。
鳥居をくぐると、あたりの空気が一変した。
音が、ない。虫の声すら途絶え、ただ二人の足音だけが、湿った石畳に鈍く響いた。
「……なんか変だよ、空気が重い」
美咲が立ち止まり、周囲を見回す。その時だった。
――カン……カン……。
木槌のような音が、森の奥から響いてきた。静寂を裂くように、一定のリズムで打ち込まれるような音。
「……木を打ってる?」
直哉が呟いた。
「こんな時間に誰が……? ねえ、戻らない?」
美咲が腕を掴んだ。その手は微かに震えていた。
だが直哉は強がるように笑った。
「気のせいだよ、幽霊なんているわけ――」
その時、奥宮の方からギィ……と木戸の軋む音が聞こえた。
社殿の扉が、わずかに開いていた。
灯りのない空間から、ゆっくりと現れたのは――白い着物の女だった。
顔は青白く、唇には血のように濃い紅が塗られている。お歯黒の笑みが、ゆっくりと口角を吊り上げていた。
頭には金輪。三本の蝋燭がふらふらと揺れ、風もないのに炎が女の顔を怪しく照らした。
胸元には鏡。足には一本歯の下駄。
「……丑の……刻……参り……」
美咲がかすれ声で呟いた。
女はゆらり、ゆらりと近づいてくる。足音はせず、まるで地面から浮かんでいるようだった。
「……なおくん、逃げよ……」
美咲が息を呑み、腕を引いたその瞬間――
「見た、わね……?」
女の口が確かに動いた。
その声は、耳の奥で直接響くような冷たさだった。
「やばい、逃げるぞ!」
直哉が叫び、二人は神社の境内を駆け出した。
だが、逃げ道は次第に狭まり、霧が濃くなっていく。灯籠の灯りが次々と消えていく中、二人の足は石段でもつれ、転びそうになりながら必死に逃げ続けた。
ふと、美咲が振り返る。
そこにはもう、女の姿はなかった。
だが次の瞬間、すぐ目の前に現れた。
女の顔が歪んでいた。
唇が裂け、そこから無数の目が覗く。口の中には、釘が何本も突き刺さった藁人形が押し込まれていた。
「きゃああああっ!!」
美咲の叫びが夜を裂いた。
だが、その声は霧に飲まれ、すぐに消えた――。
翌朝、貴船神社の境内にカップルの姿はなかった。
杉の巨木に、二体の新しい藁人形が打ち付けられていた。
それぞれには、どこか見覚えのある顔写真が、釘で留められていたという。
その夜も、誰かが見たという。
白装束の女が、神社の奥で何かを呟きながら歩く姿を。
「恋の神様、ですって? ……違いますよ。ここはね、願いの代償を、きちんと返す場所なんですよ」
その声は、木霊のように森に吸い込まれていったという。
貴船神社へ恋のお願いに向かうなら――。
どうか、誰にも見られぬように。
もしも目が合ってしまったなら、その夜、あなたの写真も……杉の木に打ちつけられているかもしれません。




