『血天井の手』
京都・養源院。静寂に包まれた境内には、蝉の声さえも遠慮がちに響いていた。
僕がこの寺を訪れたのは、大学の民俗学ゼミの調査の一環だった。けれど、学問的な興味よりも、もっと曖昧で、肌の下にひそむ“何かが違う”という直感に突き動かされたような気がしていた。
受付で靴を脱ぎ、ひんやりとした畳に足を滑らせると、本堂の空気は一層重たく感じられた。静かだった。人の声も、物音も、すべてが遠のいたような、薄く膜を張ったような沈黙がそこにあった。
天井を見上げた瞬間、僕は息を呑んだ。
その板張りの天井には、確かに“手形”があった。
赤黒く滲んだ掌の跡。
斜めに伸びる指先は、今まさに何かにしがみつこうとするようで、いや、むしろ何かを掴んで離すまいとする執念すら感じられた。
「……見えるんやな、あんたにも」
背後から、低く落ち着いた声がした。
驚いて振り返ると、僧衣をまとった中年の僧が畳の上に立っていた。穏やかな目元だったが、どこか焦点が合っていないような、虚ろな印象を受けた。
「手形や。あれ、夕方になると動くことがあるんや」
「……動く?」
「正確には、“位置が変わる”と言うべきかもしれん。見る者によって、あるいは“見える覚悟がある者”によって、現れる場所が違うんや」
僕は再び天井を見上げた。
──あれ?
たしか中央にあったはずの手形が、今は右端に移っている。錯覚だ、と言い聞かせた。光の加減か、視線の角度か。
だが、そのとき心の奥にひやりとしたものが走った。
まるで誰かが、僕の頭上で這い回っているような──そんな錯覚。
「それ、伏見城で討ち死にした武士たちの血の跡や。供養のために天井に据えたんやが、なかには……まだ“納得しとらん魂”もおるようでな」
僧侶の声は冗談のようでいて、どこか冗談で済ませられない冷たさを帯びていた。
その夜、宿に戻って撮った写真を確認していたとき、僕は思わず声を上げて立ち上がった。
──写っていたのだ。
一枚だけ、天井の染みの中に“顔”があった。
眼窩が深くくぼみ、口が開いている。
無表情だが、見ている。こちらを、はっきりと。
そしてその顔の頬には、血のようなものがこびりついた三本の指が、まるでそこに押し当てられているように見えた。
僕は翌朝、いても立ってもいられず再び養源院を訪れた。
あの僧侶に、もう一度会って話を聞きたかった。
だが、寺務所で僧侶の特徴を伝えても、「そういう者はおりません」と淡々とした声が返ってきただけだった。
その瞬間、喉の奥がきゅっと縮まるような感覚に襲われた。
じゃあ、あれは誰だった? 誰が、僕に語りかけてきたんだ?
それ以来、夜になると夢の中にあの天井が現れる。
血の染み、手形、そしてあの顔。
夢の中で見上げるたび、その“位置”が変わっている。
まるで僕の動きを追うように、あるいは逃がさぬように。
そして、毎回、最後に聞こえるのだ。
「……わしの顔、踏んだんは……お前か……?」




