『新京極の鏡のない美容室』
京都・新京極通には、通称「七不思議」と呼ばれる不可解な噂が存在する。
その中でも、最も奇妙で、あまり語られないのが――
鏡のない美容室”だ。
その美容室は、日が沈んだ頃、アーケードの中ほどに現れるという。
誰も入っていくのを見たことがないのに、確かに「行った」という人が、少数ながら存在する。
だが、その客たちは口を揃えてこう言うのだ。
「行かなきゃよかった」
「もう、自分の顔を忘れてしまった」
「……あの美容師、“私”に似てなかった?」
私がその噂を知ったのは、京都の大学に進学して間もない頃だった。
新生活で環境も変わり、心機一転、髪型でも変えようかと考えていた。
けれど、どの美容室も予約が埋まっていて、なかなかタイミングが合わない。
そんなとき、Twitterで奇妙なポストを見つけた。
「飛び込みで入った美容室、鏡なかった。なんか変だった……でも髪は完璧」
「新京極の美容室、看板もないし記憶も曖昧。けど帰ったら顔が違う気がする」
冗談だと思って読み流した。
でも、その日。
新京極通りをふらふらと歩いていたとき、目に入ったのだ。
真っ白なガラス扉。中は異様に静かで、無音の空間が広がっている――美容室だった。
看板もロゴもない。
それなのに、不思議と惹かれるものがあった。
(今なら、すぐに切ってもらえるかもしれない)
何の気なしに、私はその扉を開けてしまった。
中は静まり返っていた。
壁も天井も床も、すべてが白。
椅子がひとつ。
カウンターの奥には、大きな姿見がある――と思ったのだが、近づくとただの白い板だった。
そう、鏡が、ない。
「いらっしゃいませ」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、そこには白いエプロンを着た女性が立っていた。
年齢は分からない。若くもあり、老けてもいる。
目元を長い前髪で隠していて、表情が見えなかった。
「今日は、どんな髪型をご希望ですか?」
私は反射的に答えた。
「……イメチェンしたくて。雰囲気を変えたいです」
「かしこまりました。それでは、こちらへ」
言われるがまま、椅子に座った。
不思議なことに、まったく緊張はなかった。
むしろ、心の中がぽかりと空っぽになるような心地よさがあった。
カットが始まる。
チョキチョキというハサミの音が、まるで遠くで鳴っているようだった。
不意に、美容師が口を開いた。
「最近、何か変化がありましたか?」
「……引っ越して、友達とも離れて。自分がどんな顔してたか、よくわからなくなってきて」
「なるほど。ならば、本来のあなたに戻してあげましょう」
私は深く頷いた。
そのときは、まるで催眠にでもかかったように、何も疑わなかった。
やがて、カットが終わった。
「お仕上がりをご確認ください」
美容師が差し出したのは、小さな手鏡――の“枠だけ”だった。
ガラスがない。中は空っぽ。
なのに私は、「ありがとう」と言ってしまった。
料金は……なぜか覚えていない。
財布を開いた記憶も、支払った記憶も、曖昧だ。
その夜、帰宅して鏡を見た私は――愕然とした。
顔が、違う。
たしかに、面影はある。
けれど、何かが少しずつ“ズレている”のだ。
目の形。
口角の位置。
昔コンプレックスだった頬骨が、今は妙に整っている。
いや、それ以上に――
この顔、どこかで見たことがある。
誰だったか。思い出せない。
でも確かに、どこかのSNSで、何度も見た“誰か”の顔だった。
それからというもの、鏡を見るたびに不安が募っていった。
この顔は本当に私なのか。
私の“私”は、どこへ行ったのか。
そしてある日、何気なく美容室を探して再訪しようとしたが――
その場所は、どこにもなかった。
アーケードの構造が変わったように思えるほど、跡形もなかった。
もう一度、自分の“本当の顔”を取り戻す方法はないのか。
鏡に映るこの顔は、誰のものなのか。
ネットで調べてみると、「鏡のない美容室」にまつわる同様の書き込みがいくつも出てきた。
「目元が他人のまま戻らない」
「ふとした瞬間、自分の顔が“笑ってなかった”」
「最近、自分が誰だったのか思い出せない」
そして、ある古い投稿が目にとまった。
『あの美容室は、“自分を失くしたい人”の最後の出口』
『鏡がないのは、“あなたがそこにいない”から』
『本当の顔を忘れたとき、またあの扉が開く』
私は今日も、毎日鏡を見ている。
そして、時々、知らない表情をしている自分にゾッとする。
それは、あの日の美容師の顔に――少しずつ似てきている気がするから。
新京極のあの道を、あなたが夜に歩くことがあったら。
白くて無機質なガラス扉には、絶対に手をかけてはいけない。
中に入った瞬間、あなたはもう、あなたではなくなるから。




