第三節
東雲と名乗った少女は、娯楽にも疎かったようだ。
だが人並の興味心は持ち合わせているようで、藤崎が持っていたゲームや漫画雑誌を指してそれは一体なんなのかと問う事が多かった。
「それはなに?」
東雲は、紗代が持ってきたゲームに興味を持っていた。
「携帯ゲーム。やってみる?」
「いいの?」
聞き返した東雲に藤崎は頷き、ゲームを渡した。
「どういう遊びなの?」
「画面の中にいるハリネズミのキャラクターが走り回るゲーム」
「君によく似ているね」
「ははっ、そりゃ光栄だ」
藤崎はそう言って、ゲームの遊び方を教えた。東雲も要領良くプレイのコツを覚えていく。
「いいなぁ」
画面の中で走るキャラクターを見て東雲が呟いたので、藤崎は何が羨ましいのか尋ねた。
「世界中を旅しているのが。こんなに走る事は出来なくても、いろいろな景色を見ているって羨ましいなぁって」
「あまり外に出た事はないのか?」
藤崎の問いに、東雲は眉を下げながら頷いた。
「お母さんがいつも言うんだ。外は危険だから、あまり出てはいけないって」
「そう、か……」
「大人になったら、この子みたいに世界中を旅できるのかな」
微笑みながら東雲はそう呟いていた。羨望が窺える瞳に藤崎は無責任だったとしても、肯定せざるを得ないと考えていた。
「俺達が住んでいる日本という国は、海に囲まれている」
自分よりも幼く見える少女に、藤崎は教えるように伝える。
「国内でも十分広いと俺は思うけど、この子みたいに世界中を旅するなら、海を渡らなければならない」
「それは大変なことなの?」
「特に、最近になってまた国の外に出るのが厳しくなったらしいから……」
藤崎は先日見たニュースを思い出しながらそう答えた。
数年で国際的問題が相次ぎ、国境を越える事が難しくなっていた。そうでなくても、昨今の世界は治安が悪いそうで、国の外を出るものは徐々に減少していた。
それでも藤崎は希望的観測を東雲に告げたかった。
「でも、いつかきっと行けるよ。今は難しくても、大人になったら良い方向に世界が良くなっているかもしれない」
「その時にはきっと行けるかな……」
「行けるさ、きっと」
藤崎はそう答えながら思案を巡らせる。
世界に興味を持つ、無垢な少女が何故暴漢から逃げていたのか。考えながら、藤崎は彼女が本当に、安全に楽しく旅が出来る未来を願った。
「お昼ご飯の時間ですよ~」
明るい女性の声が聞こえてくる。看護師が二人分の食事を持ちながら入室してきた。
「……ちょっと、もう少し喜んでくれてもいいんじゃない?そんなに不味いのかしら」
口を堅く閉ざした藤崎に看護師が厳しく指摘したので、藤崎は弁明した。
「いや、その……味が嫌いなわけじゃないんですけど。量がちょっと物足りなくて……」
「あまり動いてない人にそんな沢山食べさせられないわ。太っちゃうでしょう?」
藤崎はあいまいな返事を返した。理解はしていたが、それでも腹は減るものだ。
食べ盛りという事もあるが、食欲がわく理由は隣の少女にも原因がある。
「今日はなんですか?」
「冷やし中華と、茄子きゅうりの炒め物よ」
東雲の問い答えながら答えながら、看護師はベッドに備え付けられたテーブルに料理を置いていった。
錦糸卵や野菜、薄く切られたハムによって彩られた冷やし中華を、東雲は目を輝かせながら見ていた。
「それ、一旦預かるよ」
「あ、有難う」
東雲は持っていたゲーム機を藤崎に渡し、今度は箸を手に持つ。
いただきますと小さく呟いた後、食材を口に運んだ。刹那、彼女の顔が明るくなり、美味しいと何度も呟きながら次々と箸を動かした。
藤崎も料理を口に運び始める。冷やし中華は普段食べているものと同じ味だった。一方、茄子ときゅうりの炒め物は素材の味を楽しむことが出来るほどの味付け程度だった。かといって、それで食べる気が失せる気はなく、寧ろ隣で食べている東雲の表情を見て食欲は増すばかりだった。
「アレを見てると、お腹がすくんですよね……」
藤崎は苦笑いを漏らしながら、小さな声で看護師に告げた。看護師も東雲の様子を見て、なるほどと答えた。初日のりんごに限らず、様々な料理を東雲は新鮮な表情で食べていた。
「冷やし中華も初めてだった?」
食事後に尋ねた藤崎の問いに東雲は頷いた。
「炒め物も……初めて食べたけど、凄く美味しかった……あんな料理もあるんだね」
東雲の言葉に藤崎は微笑み、そうだねと返した。今までどのような食生活を過ごしてきたのか、気になっては思いとどまっていた。今は曇らせたくないと、そう思ってしまうと聞くことが出来なかった。
そうして東雲の側で入院生活を楽しく過ごしていた。その時間はあっという間に過ぎ、そうして入院を始めてから三日ほど経ったある日、医師から退院できることを告げられた。
「身体の方も問題なさそうね。お母さんには私の方から伝えておくから」
医師に告げられた時、両拳を掲げたと同時に、ほんのちょっぴり胸に小さな痛みがちくりと刺さった。
東雲もまた同じ心境だったのか、藤崎に教えてもらった時、似たような表情を彼に見せた。
「そっか、もう退院なんだね……おめでとう」
口元は笑みを作っていたが、眉は八の字に傾いていた。
「東雲はもう少しかかりそう?」
「うん、そうみたい……」
その会話っきり、二人は静かになる。
窓の外から聞こえる蝉の鳴き声がここまでよく聞こえてくるのは、入院当初以来だろう。
「君のお母さんは……」
「今日も来てないよ。まだ忙しいみたい」
東雲は眉を下げて答えた。
彼女の母は余程忙しいのか、見舞いに来た事がない。それどころか一切の連絡もなかったようだった。
藤崎は東雲の母に懐疑的になっていた。同時に、自分がこの病院を出たあとの光景を想像して、ほんの少し彼女が可哀想に思えてしまった。だからこそか、藤崎は東雲に見舞いに来ると、咄嗟に言ってしまった。
「本当に?来てくれるの?」
聞き返した東雲の瞳の輝きを裏切ろうとは思えまい。藤崎はすぐに頷いた。
その日の夜は、とても静かだった。二人はいつものようにおやすみと挨拶を交わし、眠りにつく。
それから、どのくらい経っただろうか。小さく聞こえる虫の鳴き声に混じり、動物が草木をかき分けるような音が聞こえ、藤崎は目を覚ました。
一体なんの音だろうかと、窓を見るために左を向くと、月の光を後ろに、大きな人影が一つ、藤崎の身に重なった。
藤崎は思わずなんなんだと叫ぶ。病院の窓には安全のために鉄格子が張られていた。その鉄格子が悲鳴を上げながら曲げられていく。
「起きて、東雲!」
悪い予感がした藤崎は、叫びながら彼女の体をゆする。
「どう、したの……?」
「あいつが、あのデカブツが窓から──」
言い切ろうとするよりも先に、状況が東雲に理解を促した。甲高く割れる窓ガラスの音と、風に揺れ開いたカーテンから見える大きな姿。
「見つけたぜぇ……クソガキども……!」
「捕まったんじゃないのかよ!」
「おまわりのハウスなんか、捻じ曲げてやるさ」
絶叫した藤崎に大男が笑って返す。ねじ曲がった牢屋を想像し、藤崎と東雲は震え上がった。
指を鳴らし近づく大男に対抗するため、藤崎は先日のように刀を出そうとする。
しかし、構えをとっても、手をまっすぐに伸ばしても、どんなに頑張っても刀は出てこなかった。
何故、出てこなくなってしまったのか、わからない。混乱している藤崎を見て、大男は腹を抱えて笑う。
「どうした?今日は手品の準備が整っていないようだなぁ?」
からかうように大男は藤崎に投げかけ、また大きな声で笑った。
歯を食いしばり、藤崎はすぐにナースコールに手を伸ばす。しかし、ボタンを押すよりも早く大男の拳が藤崎の顔面に直撃し、向かい側のベッドに藤崎は吹き飛ばされた。
大きな音とともに崩れたベッドを見て東雲は藤崎の名を叫ぶ。
「女はこっちだ、来い」
起き上がる事ができなかった藤崎には東雲の叫び声と窓から飛び降りる音しか聞こえなかった。
直後、夜勤の看護師が部屋に入ってくる。
「大丈夫?一体何があったの!?」
藤崎に手を伸ばし尋ねる看護師にすぐに答えることはできなかった。
呼吸を整え、藤崎はようやく言葉を発する事ができた。
「東雲が…悪い奴に……」
「まさかあの窓を破って!?」
破壊された窓を見て絶句をする看護師をよそに、藤崎は部屋を飛び出した。彼を呼び止める声が廊下に響いたが、構わず走る。
今は一刻も早く東雲を助けにいかなければ。間に合うかわからなくても、彼は足を止めるわけにはいかなかった。
病院から出ると、東雲と大男は車に乗り込もうとしていたところだった。周りには、彼の仲間らしき人物もいる。
絶望的な想像が頭をよぎり、駆けていく。一閃の光が車目がけて走り、左側の前輪と後輪のタイヤをパンクさせた。
誰だ、と大男が叫んだ。藤崎は咄嗟に駐車場の車に身を潜めたため、大男には気が付かれなかったようだ。
彼は車の影からそっと道路の方を覗く。一人の女性が、大男達にゆっくりと歩み寄っていた。
「いけないねぇ、大人達が寄って集って少女を誘拐なんてさ」
女性は刀で遊びながらぼやく。
周囲の人間を見下ろすような視線は、大男達をイラつかせるには十分な態度だった。
挙げ句の果て、女性は今なら見逃してあげると言った。彼女のその挑発に大男達が乗らないはずなかった。
「女一人でイキリやがって……まとめて襲っちまえ!」
大男が命じると同時に、取り巻き達が襲いかかる。女性は手にしていた刀を持ち直し、取り巻きの振り下ろす棒を流し峰を当てた。
踊るように攻撃を流し、取り巻きを倒していく女性の姿に、そこにいる誰もの目が釘付けとなっていた。
駐車場の影から覗き込んでいた藤崎はこれを好機と思い、駐車場の隅に置かれた竹箒を手にして、影から影へと移動していった。
誰も藤崎に気がつかない。目の前で舞うように戦い続ける女性に釘付けになっていた。少しずつ近づき、あともう少しで彼女を捉えてる大男に辿り着きそうだった。その油断によって藤崎は枝を踏み、折ってしまう。
枝の折れる音が大男の耳に届いてしまったのか、彼は藤崎の事を見つけてしまった。
しまった、と思った時には既に遅く、大男は藤崎を見るや舌打ちをし藤崎を捉えたまま、東雲を大男の仲間に預けた。
「ベッドで大人しくおねんねしとけば良かったのによ」
低い声で大男はぼやく。藤崎は竹箒を両手で持ち、身構えた。
様子を窺ってはいけないと考えた藤崎は、大男が腕を上げるよりも先に竹箒の先端を大男の身体に伸ばした。
竹箒の先端は、大男の腹部を確かに突いた。なのに大男は表情を変えることなく、じっと藤崎を睨んだままだった。
「────いてぇじゃねぇか」
大男の眼差しに藤崎は凍りつく。
これはマズイと思った刹那、大男は藤崎から竹箒を奪い、その場で折ってみせた。
そして大男はすぐに藤崎の肩を掴み、彼の腹部に膝を入れた。
「ちょっと!」
女性が近寄ろうとするが、大男の仲間がそれを静止した。
「おっと!俺達の相手をしてくれなきゃ困るなぁ。この子もいるんだぜ?」
大男の仲間はそう言いながら懐からカッターナイフを取り出し、東雲に向ける。
周りにいる仲間達も起き上がることは出来ないようだが、自分達が優勢であると思っているようでニタニタと笑っている。
迂闊に動けない為、藤崎に加勢する事は難しそうだった。