第二節
目が覚めると、視界に真っ白な天井が広がっていた。
小鳥の囀りが気持ち良く。カーテンから漏れる陽が眩しい。その白い部屋は眩い世界を藤崎に見せたが、自然とそれが心地よかった。直前までの記憶と全く異なる雰囲気に、藤崎は夢を見ていたのではないかと思った。
だが、腹部に残る痛みや、自分が着ている緑色の患者服から、あの出来事が夢や幻ではないことを、徐々に自覚した。
昼間、母親の紗代が藤崎のもとに見舞いに来てくれた。
「昨晩、呼ばれた時は焦ったけど、まぁ元気そうで良かったわ」
紗代は藤崎と何度か会話を交わして、安心したようにふうっと息を吐いた。
「ごめん、母さん……」
「いいわよ。むしろ誇らしいくらいだわ」
紗代は藤崎のベッドの近くにあるテーブルに、お見舞い品の果物やら、暇潰し用のゲームやスマートフォンを置いた。
果物は藤崎が好きな林檎だった。紗代は頑張ったご褒美だと言った。
「しかし人助けなんて、あんたも良い子に育ったわねぇ」
「別に……人の為に生きろって、いつも言ってるじゃん」
紗代に撫でられ、こそばゆくなった藤崎は紗代の手を払いのけ、言い訳を返した。紗代は手を払いのけられたのに、微笑ましそうに藤崎を見た。
「それなら人のためにもうひと仕事、頑張ってもらおうかしらね」
「もうひと仕事?」
藤崎が聞き返すと、母は腕を組みながら、隣のベッドに視線を向けた。
「龍二が助けたあの子……身元がわからないの」
声色が変わって言われた言葉に、藤崎は聞き返す。
「えっ……わからないって……」
「身元がわかる持ち物は特になし。子を探している情報がないか、近隣の人にも聞いたけど、今のところ特にそういった情報はないらしいの」
「そうなのか……」
記憶の中の少女は、確かに手ぶらのようだった。
何も持たずに何をしていたのだろうか。あの家の近くにも住んでいないともなれば、実は家出途中だったとか……そうなると、彼女を追いかけていた大男は何者だったのだろうか。
思案に暮れている藤崎に母親が説明を続けた。
「今、病院の人とお巡りさんが取り調べしているけど、一向に口をきいてくれないようだわ」
考えこむ。あの少女は何を腹に抱え、大男から逃げていたのだろう。
母は両手を一度だけ叩き、藤崎に告げる。
「というわけで、あんたの出番ってわけ」
「……どういうわけ?母さんじゃ駄目なのか?」
「聞けるなら私でも良いけど、私も大人だから信用してくれるかわからないからなぁ。その点、あんたはあの子と年齢も離れていなさそうだし、助けてあげたんだから、多少は話を聞いてくれるんじゃない?」
「そういうものだろうか」
疑念を抱いていると、少女が戻ってきた。彼女は居合わせていた藤崎と紗代に一度お辞儀をして、ベッドに座り込んだ。
「じゃ、あとよろしく」
母親はそう告げると、病室から出て行ってしまった。任されてしまったわけだが、どうしたものかと藤崎は頬を指でかく。
藤崎は視線を少女にうつした。
少女は長座位のまま、目の前を見つめていた。綺麗に置かれた人形のように、指先ひとつ、瞼すら動かさず、じっと座っていた。
動くのは風に誘われ揺れる髪のみだった。翠碧色の髪がたなびく様は、まるで皐月の草原のようで、藤崎はほんの少し時間を忘れて彼女に見惚れていた。
「あの……」
静寂を破ったのは、少女の方だった。
「なにかごようですか?」
少女は精巧に瞳だけを藤崎に向け尋ねた。
彼女の声にドキッとした藤崎は、動揺しながらも答えた。
「いや、その……身体の方は大丈夫かなって……」
「えぇ……まあ。数日は様子を見る為に入院しろと言われましたが、大した傷ではないそうです」
「そりゃあ良かった」
藤崎が相槌をうったあと、また静寂が訪れた。
気まずい。これはとても気まずい──
藤崎はひとまず名前を聞こうと考え、そのためにまず、自己紹介をした。
「そういえば自己紹介がまだだったな。藤崎龍二っていう。そこの六中の中二だ。君は?」
「……名乗るほどでもありません。僕はただ、君を巻き込ませてしまっただけだから」
少女の声はとても淡白で、冷たかった。
それっきり、再び蝉の鳴き声がよく聞こえるようになった。
あぁ、やはり、とても気まずい──
なにか掛ける言葉がないかと頭を回すが、なかなか思いつかない。そんな時、小さな腹の音が聞こえてきた。
「おなかへってるのか?」
藤崎は少女に尋ねた。
少女は顔の向きを変えず目を逸らしたが、再び彼女のお腹から可愛らしい鳴き声が聞こえた。
藤崎は、紗代が持ってきた真っ赤なりんごと果物ナイフを手に取った。
「ちょうどさっき母さんが果物を持ってきてくれたんだ」
「いりません。これ以上施しを受けるのは……」
「まぁそう言わずに。俺一人じゃ食べきれないからさ」
藤崎はりんごの皮を丁寧に剥きはじめた。手を切らないよう、少女は藤崎の手つきをじっと見ていた。
「りんごは食べたことある?」
藤崎は皮を剥く力加減に気をつけながら少女に聞いた。
少女は首を横に振った。
「この時期のりんごは酸味があるけど、さっぱりしてて美味しいんだよ」
藤崎は最後に八頭分に分け、そのうちの一欠片を少女に差し出した。
「毒とかはないよ。是非食べてほしい」
訝しげに見る少女に藤崎は笑みを見せながら答えた。
彼女はそっと手に取り、そして口に運んだ。わずかな警戒が残った小さな一口は、おそらく彼女の人生を大きく変える大きな一口だったのだろう。
瑞々しい食感と仄かな酸味と甘味は彼女にとって初めての体験だったようで、目を大きく開き彼女は無言で何度も噛み締めていた。
それがりんごがもつ旨味であると理解した時、少女は一口、また一口と、軽快な音を立てながら口一杯に頬張った。
少女の手元にあったりんごはあっという間になくなってしまった。我にかえり残った喪失感に彼女は暫くの間固まっていた。
よほど気に入ったのか、申し訳なさそうに、物欲しげに彼女は藤崎を見つめた。
「まだあるよ」
藤崎はそう言って、カットされたりんごをもう一欠片、少女に差し出した。
そして彼女はまたりんごを頬張る。その様子がとても甘美に感じて、見ているだけで藤崎のお腹も満腹になっているように感じた。
そうして繰り返し、彼女は結局一玉分のりんごを食べ切った。
「……東雲」
食べきった少女がボソリと呟く。藤崎は聞き返す。
「僕の名前です。東雲と言います」
頬をほんのり赤く染めながら東雲は藤崎に答えた。
きっと食べ物のお返しにということで、教えてくれたのだろうと藤崎は解釈した。
「教えてくれてありがとう。それで、東雲が追われていた理由は……」
藤崎はあらためて東雲に尋ねたが、彼女は首を横に振った。
「わからない。僕はあいつの事を知らないし、会ったこともない。ただ、急に車から出てきて襲ってきたから……」
東雲はそう答えた後、すぐに訂正した。
「いや、もしかしたら……お母さんの関係者とかかも」
「君のお母さん、仕事はなにを?」
「重役って言ってたよ。危ない仕事らしいから、あまり詳しくは教えてくれてないけど」
東雲はそう答えたあと、突然失笑する。
藤崎はどうかしたのかと尋ねた。すると彼女は初めて表情を変えた。
「なんか、さっきのお巡りさんみたいだなって。誰かにお願いされて優しくしてくれてるの?」
鋭い目付きで東雲は藤崎に聞く。その言葉が胸に刺さってほんの少し息が詰まったが、藤崎はすぐに否定した。
「半分合ってて、半分違う。確かに俺は君の事を聞くように頼まれたけど、君のことを知りたいという興味もあるよ」
「僕なんかのことが?変なの……本当にそうなの?」
「本当だよ。あの場所であんなデカブツに襲われていた事も、親が来ないってことも。なんというか、心配でさ」
「昨日会ったばかりの人間に、そこまで優しく出来る?」
「出来るさ。東雲が困っているなら、力になってやりたい」
藤崎は東雲の事をまっすぐに見ながら、答えた。
東雲は小さく笑った。
「君はお人よしなんだね」
東雲は藤崎に向けて、ようやく笑ってくれた。
あらためて、東雲の顔をまっすぐに見た。翠碧の髪に金色の瞳。自分よりも幼い顔立ちだが、瞳孔は爬虫類のように縦長で、鋭さも見えた。
そんな東雲の笑顔に、藤崎はまた見惚れていた。
「……大丈夫?」
きょとんとした東雲が近寄ってきて、藤崎は大丈夫と答え、平静を保とうとした。




