第一節
少年、藤崎龍二はスーパーまで走らせていた。タイムセール開始まで残り十分。それまでに到着し、親に頼まれたセールを買わなければならない。
普段ならばやる気の起きないおつかいだが、先日の通知表があまり人に見せられない評価だった為、逆らうことができない。
「鯵と卵がセール品ね。それは絶対に買ってきてちょうだい。あと油揚げと油揚げと油揚げを買ってきて」
「油揚げばっかじゃねーか」
出発前に頼まれた品に小言を言うと、飯を油揚げ炊き込みご飯だけにすると言われた。おそらく頼まれた品すべて買ってもその献立だけは作りそうだ。
タイムセールに間に合うために、自転車のギアを一段階重くする。いま走っている大通りは、人通りも少ない道だった。多少速度をあげても問題ないだろう。そう思った矢先、五メートル先に誰かが飛び出してきた。
「うおおおおおおお!!」
藤崎は思わず叫ぶ。後輪ブレーキをいち早く、直後に前輪ブレーキもあわせて強く握りしめた。
自転車の向きを曲げる事で、辛うじて飛び出してきた少女と衝突することを避けた。危うく加害者になるところだった自分を棚に上げ、突然飛び出してくるとは何事かと少女を睨みつけた。少女は怯え顔でこちらを見ていた。
「た、助けて!!」
少女が訴えてくる。その言葉に藤崎は眉をひそめた。何事かと尋ねるより先に、大きな影が雑木林から飛び出してくる。
自分より倍近くある身長差の男が現れた。一瞬熊のように見えたその大男は一度舌打ちをした。
「あちこち逃げ回るんじゃねぇぞ……」
ため息をついたあと、大男は藤崎を見て失笑する。
「まさか、こんなちっせぇガキに助けを求めたのか?」
嘲笑された少女は黙って大男を睨んでいる。大男はそんなものを気にもせず、藤崎に告げた。
「おいガキンチョ、悪い事は言わねぇ。その女に手を貸そうとか思うんじゃねぇぞ」
笑いながら告げた大男の警告に、藤崎の身は強張る。それはハッタリではないのだろう。
心臓の鼓動が早くなり、呼吸のひとつひとつが無意識に震える。これらすべてが、男から放たれている威圧に恐怖し生まれたものだと、平和ボケしていた藤崎でもわかっていた。
自分の身を守る為ならば大人しくしていた方が良いのだろう。
藤崎龍二は、これまでまともに喧嘩をした事がなかった。特に正義感とかもあるわけでもなく、腕っぷしの問題になったら勝つ以外の方法でなんとか逃れるタイプの人間だった。
では、彼の言うことに従うのか。
その答えもまた違うと、藤崎は判断した。
「この子は渡さない」
自転車を降り、少女の盾になる。確かに男からの威圧は怖い。だからといって、少女がこれから連れ去られ何かをされてしまう事を見過ごせるほど、自分の心は利己的ではなかった。
精いっぱいの睨みを受けた男は目を丸くした。その直後大男は爆笑し、そのまま藤崎に笑みを返した。
「ほう、勇敢だな。ガキンチョ。恐らくお前とコイツは初対面だろう。だが、コイツが俺に襲われそうな事を理解し、道徳的にそれが良くない事だと判断した。その勇敢さは認めてやるよ」
男は右腕を大きく振り上げる。
「だがそれは勇敢ではなく無謀と呼ぶんだぜ」
藤崎は少女を押し退ける。
少女が離れた時、男が少女を目で追うと予想し、不意打ちの隙を伺う為に懐へ入ろうとした。しかし、男の視線は少女へ移らず、藤崎をじっと見て右腕をおろした。
気が付いた藤崎は間一髪よけ、次発を自転車を盾にすることで防ごうとするが、その自転車の籠とハンドルが、男の拳によってへし折られてしまった。
スクラップになった自転車に驚愕し、一瞬固まった藤崎の隙を見逃さず、大男は左腕で彼を殴った。軟弱な藤崎はそれを受け止める事も流す事も出来ず、道路脇まで吹き飛ばされてしまった。
「そんなものかよ。期待外れも期待外れだな」
大男は落胆しながら藤崎へ歩み寄る。
起き上がるのがやっとで、反撃はできそうにない。
人に殴られて身体が吹き飛ぶ経験をするとは思わなかったが、それでもあの一撃を受けて立ってられる自分を褒めてやりたいと考えていた。
女子供に暴力を振るう趣味はしていないんだがな、と呟きながら、男はズボンのポケットに手を伸ばす。ガサゴソとして何かを取り出し、それを指にはめた。
それがメリケンサックだと藤崎がわかったのは、きっと先日知り合いから借りたヤンキー漫画に描かれていたからだろう。
「お前は例外だ。短い生涯で残念だが、恨まないでくれよ」
告げる男に謝罪の意が込められていなかった。
メリケンサックを指に嵌め音を鳴らす。
かちん、かちんと音を立てながら、大男はゆっくりと近づいてきた。
意外に心は恐怖に支配されていなかった。それ以上に殺されてたまるかという反抗心と、やはりこんな男に少女を渡すわけにはいかないという気持ちが藤崎を支えてくれていた。
残る力を振り絞り立ち上がった藤崎だったが、男に勝つ術は何も思いつかない。せめて男の腕がこちらに届かない程度にリーチがある武器があったりすれば、勝てるのだろうか。
自分にそんな力があれば、後ろで震えている少女を護る事ができるかもしれない。
なんとしてでも、彼女を護らねば。そう強く願ったとき、藤崎の右手に刀が現れた。
「これ、は」
「何もないところから刀を出した、だと?」
大男の様子が、先ほどまでの挑発的な態度から一変し、焦燥感が見える。男にとってはこの予想外の出来事が気に食わないようだった。
舌打ちを一度した後、藤崎へ襲い掛かる、幾度と藤崎に襲い掛かる拳を、彼は必死に避けた。瀕死前の状態で身体は重たかったが、冷静を失った彼は大振りで振るってくる為、ふらついた身体でも避ける事が出来た。
倒れるように大男の入り込むことが出来た藤崎は、身体を回して大きく振り上げる。男はそれを防ぐことができず、顔面に縦筋の刀傷が入った。
「よくもやりやがったな!!!」
大男は傷を抑えながら叫ぶ。痛み、憎しみ、悔しさが渦巻いたその声は、辺りの草木を震わせた。
もう一歩も動けそうにない。諦めかけた藤崎の真横を、何かが通りがかる。見上げた藤崎の視界には、顔面に蹴りを食い込ませた大男の姿と、その足の主が映っていた。
「よくやった」
呟いた女性の労いの言葉に安堵出来た藤崎は、その場に倒れ込み、意識を失った。