第二十一話 反省会をしましょう
「ありがとうございました」
俺は深々と腰を折った。
相手は、クラスメイトの女子で部活の休憩の合間に来てくれたらしい。
彼女は買ったパンを片手に笑顔で出て行った。
それが最後の客だった。といか、そういうことにした。
時刻は午後五時、本店の方もそろそろ営業終了時間である。
そして大半の生徒が下校する時間でもあった。
ただし部活動をやっている生徒は除くが。
いざ終わったと思うと、どっと疲れが湧いてきて。
俺は手近な椅子に腰を下ろした。
ふぅ、それにしても今日はなかなかにしんどかった。
「お疲れ~」見ると寧音はまだ何か作業をしている。
「なにしてるんだ、お前」
「ああ、これ? 売り上げと帳簿の確認よ。もしずれてたら……」
その先は言わず、彼女はただ意味ありげに笑った。
よく働くものだ。今日一日通して、そのスタミナには大変感服していた。
毎休み時間仕事に明け暮れたというのに、疲れたところ一つ見せない。
今もまだこうして手を動かしている。ちょっとくらい休めばいいのに。
それを見ている内に、俺も少しは元気が戻ってきて。
とりあえず看板を下げに行くことにした。
ゆったりとした動きで椅子から立ち上がる。
「あら~、今日はかなり頑張ってたみたいね」
廊下に出たところで、購買のおばちゃんに遭遇した。
相変わらず、気さくな笑みが上手な人だ。
「いや、全然ですよ」
こうして一日やってみて、改めて購買の凄さを実感していた。
「それで、どうなのよ?」
「うーん……」
「その顔を見ると、あんまりよくなかったらしいわね」
俺たちの成果を察して、おばちゃんは目を細めて気の毒そうな表情をした。
今日一日の目標の個数は二百個程度だった。
では実際いくつ売ったかと言えば、百二十個くらい。
ちなみに仕入れ個数は二百三十個である。
つまりまだ百程度は余っているわけで……
しかもこれがすなわち購入者数ではない。
一人で複数個買っていく人もざらであったわけで、その数は販売数より少なくなる。
その実数については帳簿もとい自由帳を見なければわからないけれど。
つまりそういうことを鑑みて、あまり今日の成果はよくなかったというわけだ。
「まあ落ち込まないでよ。うちに来た子達でもね、結構気になっているみたいだったから」
と、おばちゃんからありがたい励ましの一言を頂いた。
ありがとうございます、俺はおばちゃんに向けて深く頭を下げる。
そしてちゃちな看板を持って小ホールの中に戻った。
何度か思ったが、廊下の薄暗さも相まってこいつはあまり目立たない。
今度は再び長机の所に戻った。
寧音は相変わらず自由帳と金庫の中身を照らし合わせるのに必死そうだ。
俺はその横で、あまってしまったパンをしまっていく。
これどうするのだろうか、やっぱり進さんの飯になるのかもしれない。
黄昏に暮れる室内で、俺たちは黙々と自分の作業に集中している。
退廃的な雰囲気を肌で感じる。おかげで余計につかれた気分になるけれど。
それでも手を動かすのは止めず、ただひたすらにパンを詰めていく。
自分はそういうマシーンだと、強く強く思い込む。
「そういえばさ、トネリコのおじさんはどうなったの?」
作業の片手間に、彼女は口を開いた。沈黙に飽きたのかもしれない。
「進さんに回収してもらった。昼休みになっても目覚めなかったからな」
丁度昼休みの時である。
「そうだったの。そんなにヤバい状態だったんだね」
「むしろ保健室の先生の目が痛くて……
結局半日ベッドを使用不能にしちゃったしさ」
「ああ、それは確かに。とても迷惑ね……」
休み時間に会う度に、先生の表情は不機嫌になっていくのだ。
初めは遠巻きにだったが、次第に直接的に何とかする様に求められるし。
あのおっさんにはほんと困りものである。
奴がいれば今日は少しでもましだったのではないか、と思わざるを得ない。
商人としての腕を期待していた所もあるのに。
まあ明日にその望みは託すとして。
「よし、終わりっ!」
寧音はぱちりと指を鳴らした。
その喜び様を見るに、作業は成功したらしい。
まもなくして、俺の方も余剰品を回収し終えた。
改めてその量を目の当たりにすると、目の前が暗くなる思いがする。
同時に、自分のふがいなさにうちひしがれる。
もう少し何とかなったんじゃないか、と。
「そんなこと言ったって仕方ないよ?」
俺の嘆きに寧々は気楽に返した。
「明日また頑張ればいいじゃん」
「まあ確かにな。おっさんも加わるだろうし」
「あの人、役に立つの?」
しかし彼女は今度は俺の言葉に疑問符を打った。
「どう意味だ?」
「だってさ、ただの怪しい太ったおじさんよ?」
幼馴染の瞳は疑念の色に染まっている。
外見はその通りだ。俺も初めはそう思ったし、そこだけで判断すれば頼りない。
しかし、彼は異世界から来た商人なのだ。
完全な証明は出来ていないけれど、俺は確信している。
嘘かどうかなんて言い出すと切りがないわけで。
そして一つ事実を挙げるとすれば、藤見夫妻の信用は得ているという点だ。
それは信頼に足る何かをおっさんが持っていたというわけで。
宣伝やセールの提案などに才を見いだしたのではないか?
「そうか? 俺は有能そうに思えるけど」
「あんたが言うならそうなのかも。
まあ楽しそうな人だとは思うわよ」
そこは同意見であった。
と、そんな風に無駄話をしながら待つこと数分後――
がちゃり、閉店した出張店のドアが開いた。
続いて三人組が闖入してくる。
「二人とも、今日はお疲れさま~」
それは藤見夫婦と独身貴族の藤岡の卒業生トリオだった。
相変わらず、里奈さんはニコニコと優しい笑みを浮かべている。
しかし、どうして彼女がここに?
ふと見ると、進さんは気まずそうな顔をしていた。
藤岡はいつも通りの気怠い表情。
「全て聞いたわ、この人に。ごめんね、二人とも。かなり迷惑かけちゃって……」
里奈さんは目を細めて、申し訳なさそうな顔をした。
なるほど、進さんの悪事は露見したということか。
まあ、トネリコを連れ帰らせた時点でこうなるとは思っていたけれど。
しかし里奈さんにその非はないわけで。
「そんなことないよ、里奈ちゃん! むしろ楽しかったから、ねえ、晴信?」
「あ、ああそうだな。それにそもそもはうちのトネリコが車酔いごときでぶっ倒れたのが原因で」
「それは仕方のないことよ。その時点で、進くんが私に教えてくれればよかったの。
そしたら二人にパンの販売なんて任せずに済んだのに」
そして、笑顔のまま里奈さんは自分の夫を睨む。
関係ない俺でも背筋が凍るほどに恐ろしい光景であった。
「いやでもよぉ、そうすると一日無駄に――」
「最悪、あなたがやればよかったじゃない」
ぴしゃりと夫の言葉を封じる。
「でも俺にはパンを焼く仕事が――」
「私にだってそれくらいできますとも!」
まさにえへんと胸を張った。そういう表現が相応しいしっくりくる程に彼女は自信ありげだ。
対照的に、進さんは絶望に満ちた表情を。
俺は思い出していた。
遥か昔のことを。フジミベーカリーができて日が間もないあの頃を――
思わず遠いどこかを見る様な目つきになった。
それは寧音も同じらしく互いの彷徨った視線が交錯した。
里奈さんの作るパンは……それはもう芸術的だった。
見た目は奇抜、味は珍妙、ああ背筋がぞわぞわしてきた。
何度目かの来店の際に、彼女に試食させられたのだ。
あれは、阿鼻叫喚の地獄絵図、人生最大の試練と言える程に苦行だった。
そして進さんがその現場に遊びから帰ってきて。
一悶着の末、里奈パンは封印された。人類には余りにも高尚過ぎるものとして。
「それだけは絶対にダメだ!」
「どうして? だってほら、晴信くんたちには――」
「あれは、俺だけが独り占めしたい最高の味なんだっ!」
その言葉に、見る見るうちに里奈さんの顔が赤くなっていく。
それはなんともまあ漢らしい発言だった。
進さんと言えど、例のパンの危険性はよくわかっているらしい。
「じゃあ帰ったら久々に腕を奮うね!」
……漢藤見進のことは永遠に忘れないだろう。南無三。
「やっぱり俺たちがやるしかなかったんですよ。
だからそんなに気にしないでも……」
先の感謝の代わりではないが、進さんの援護をしてみることに。
「いえ、まだ一つ手はあったわ。ね、藤岡くん?」
しかしなぜか思いもよらぬところに飛び火ししてしまった!
思わせぶりな態度で、藤見夫人は旧友の方を見る。
「え、僕ですか? いやだなぁ、ミセス・フジミ。僕、教師ですよ」
いきなり渦中に巻き込まれた先生はとぼけた表情で応じる。。
「それが何か? あなた、私に貸しがあるでしょう」
里奈さんはまた例の威圧感のある笑顔を振舞う。
その目は笑っておらず、奥底には何らかの企みが見え隠れしていた。
ここ数日で、彼女についての認識が大きく変わった。
前までは、ほんわか雰囲気の優しい美人なお姉さんという感じだったが。
蓋を開けれ見ればその中身はなんとも苛烈だ。
いやまあ、進さんとのやり取りでその片鱗は見えていたけれど。
よく考えればほんわか雰囲気の人は竹刀を振り回さないわ。
「い、いやぁそれとこれとは話が別というか」
「そういう態度をとるのならば、こちらにも考えがありますよ」
「えっと、その……」
里奈さんの猛攻に先生はたじろいでいる。
追い込まれる藤岡を見るのは初めてだった。
教師なわけだから、それを目撃する機会はあまりないものだけれど。
それでも学年集会なんかで、他の先生との絡みを目にすることはある。
いつも飄々としている彼にもそうできない人物はいるらしい。
そうなってくると、『貸し』とやら非常に気になってくる。
藤岡をこうも追い込む弱みはいったい何だろうか?
想像がつかない。
そんなことをぼんやりと考えていると――
「ねぇ、今日の里奈ちゃんなんかおかしくない?」
寧音に声を掛けられた。
「ああそれ思った。たぶん余程俺たちに手伝わせたことが気に入らないんじゃない?」
「どうしてだろう?」
「だって元生徒会長だろ? 学生の本分は勉強とかいいそうじゃない?」
「ああ、確かに。あるいは学生生活を大切に、とかね」
二人して声をそろえて笑った。
「なあに何か面白いことでもあった?」
そこを里奈さんに捉えられて。
俺たちは咄嗟に誤魔化すことしかできなかった。
「とりあえず、済んでしまったことは仕方ないわね。
でも二人は学生さんの貴重な一日を無駄にしてしまったことを反省してくださいね」
「「はい、すいませんでした」」
大の大人の男二人は、一人の可憐な女性の前に完全に降伏していた。
「さあそれとは別に、反省会をしましょう」
里奈さんは笑顔でそう言った。
明るい言い方だったけれど、俺はなんだか途方もない思いを感じたのだった――




