第十九話 そして厄介なことになった
その主は俺や寧音ではない。
一応校則で電源を切ることになっている。
俺たちは馬鹿正直に従うタイプだった。
そうでなくとも、今朝に関しては藤岡と一緒にいることが確定していたわけで。
いくら相手がユルい感じの教師と言えど、そんなへまはしない。
となるとーー
「もしもし」
それは進さんのものだった。
片耳にスマホを当てて、俺たちからそっと離れていく。
そのまま何かを話し始めた。
「とにかく準備を続けないと」
俺がそういうと、部屋の中の時間がまた前に進み始めた。
それは先程の様に不毛にではなく、幾分か建設的に。
俺は藤岡先生と一緒に、販売台に奇麗に包装されたパンを並べ始める。
寧音は拭き掃除を再開し始めた。
「しかし改めてみると、凄い量だねぇ」
「……これほんとに売れますかね」
「それを何とかするのがキミたちの仕事だろ?」
先生は薄く笑った。それはまったくできると思っていない笑みだった。
それは俺も一緒で。
とりあえず朝だけで全てを売り切る気はしない。
昼まででみたとしても微妙である。
わずか間にある十分の休み時間では、一体どれくらい人が来るやら期待は持てない。
そして、昼休みにはこれが更に増える。
全校生徒数からして、その半分程度は売らなければ。
アンケートの目標が過半数となると、それくらい必要になる。
そういう風に、里奈さんは考えた。
実数にすれば五百は優に越える。
現状からみて、それはなんとも天文学的な数字に思えた。
しかし達成せねばならないわけで。
ふと、その命運を担った者の方を見た。
丁度通話が終わったらしい。
彼はスマホをしまいこんでいる所だった。
それからこちらに向かって歩いてくる。
しかし、なぜかその顔は芳しくない。
「すまん、俺は店に戻らなきゃいけない」
告げられたのは、予想だにしない言葉だった。
「え、どういうことですか?」
「さっきの電話は里奈からだったんだが。
いつ戻ってくるのか聞かれてな」
「いやでも、この状況じゃ無理ですよね。
おっさんがボロボロなこと伝えなかったんですか?」
「いやだってさ、それ言ったらあいつ。
『今日は中止にするしかないね』とかって言い出すぞ?」
「今の言い方、すっごい乙葉っぽかったな~。
っと、藤見夫人と呼ぶべきか」
「やかましいわっ!」
それは三人の繋がりが見える応酬だった。
ともあれ確かにそれは容易に想像がつく。
夫のことをよく知る妻からすれば、彼に売り場を任せるなんて暴挙には出られない。
それにーー
「中止にする時間的余裕もないですしね」
「それもあるし、何よりせっかく徹夜で準備したのに悔しいじゃねえか!」
もっともではあるんだけど、そんなに強く言うことではないと思う。
「じゃあ別の理由をつけて断ってくださいよ」
「そもそもがな、戻らないことはできないんだよ」
それはいつになく真剣で深刻な言い方だった。
表情も険しい。
「パン、焼かなきゃなんねえんだよ……」
唸る様な言い方だった。
そこで、俺も初めて悟った。
この人、パン職人でもあったんだ……!
それは盲点だった。完全にその側面が頭から抜け落ちていた。
普段の振る舞いからつい忘れてしまう。
というか、つい今しがたそんな会話もしたのに。
日頃の思い込みとは恐ろしいものだ。
「それは……仕方ないですね」
「だろ?」
「でもこれどうするんだい?」
藤岡が長机の上を指さした。
男たちは完全に途方にくれるしかなかった。
並べられた大量のパンがこちらを嘲ている様だ。
「どしたの、三人とも? そんな暗い顔をして」
俺たちの様子に気付いたのか、寧音がこちらにやってきた。
「進さんは店に戻らなきゃならないらしい」
「え゛っ! じゃあ今日どうなるの?」
「辞めるしかないだろうよ」
「いやそれはまずい」
なぜかわかりきった結論に進さんが異議を唱えた。
「いやいや実際無理ですってば」
「いいか、里奈はこの事を知らないんだぞ」
そうだった、止められるからという理由でおっさんのことも秘密にしたのだった。
「それ進さんのせいじゃ――」
「それに、お前も言ってたじゃねーか。
俺たちは一日たりとも無駄にできないんだ」
それはそうなんだけど……進さんがダメになるとーー
「じゃあ誰が販売員するんですか?」
「少年少女よ、頼んだぞ!」
ぐっと、こちらに向かって親指を立てた。
「はあっ!?」
寧音の口から驚きの声が漏れた。
……やはりそうきたか。
俺にとっては、それは予想ができた結論だった。
当然藤岡先生は手伝うことができないだろうから、消去法でそうなる。
「あの俺たち授業が……」
「一日中授業受けてるってわけじゃないよなぁ?」
どうやら休み時間と昼休みを捧げることを要求してるらしい。
「そもそもお前らが言い出しっぺなんだ。
あと、なんでも手伝うとも言ってたよな!」
進さんはなおも畳みかけてくる。
確かにその通りなわけで。
そう言われると、何も言い返せなくなってしまう。
そもそも、やりたくないから気逃れしてたのではなく。
やれないと思ったから渋っていた。
しかし、それ以外にやりようがないのも事実で、俺は覚悟を決めた。
「ちなみに学校側としては何か問題はありますか?」
「別にいいんじゃないか? あの校長だし、大丈夫だって」
「お、ということは?」
期待を込めた眼差しで進さんが俺を見る。
「やりますよ、それしかないだろうし」
「いいねぇ、大将! それでこそだ!」
ぱちんと指まで鳴らして喜んだ。
ほんと調子いいな、この人は。
「もちろんあたしもやるわよ!」
寧音はあっさりと応じた。その顔には大胆不敵な笑みが張り付いている。
「いいのか、寧音? 別に無理に俺に付き合わなくても――」
「そもそもあんた一人で何とかなると思えないけど?」
彼女は勝気な表情でこちらを見上げる。
まあ確かにその通りですね。俺には接客経験はない。
「ああ、そうだな。ありがとう、助かるよ」
「い、いやに素直ね。というか、これはあんたのためじゃなくて。
進さんたちのためなんだからね!」
「はいはい、ツンデレツンデレ」
「ツンデレ言うなし!」
照れ隠しかなのか、ツンデレ少女は飛び上がって俺の頭をはたいた。
まさにここまでテンプレである。
「いやぁ青春だねぇ」
「まったくだな!」
「やかましいですわよ、おじさまたち!」
和むアラサー男二人組に容赦ない一言が振りかかった。
おかげで彼らはしゅんとしてしまった。
「と、とにかく、話はまとまったな。
ちょっと待ってろ、車から道具を取ってくるから」
言いながら、店長は部屋を出て行った。
「急いでくださいよー!」
その後ろ姿に声を浴びせる。
そろそろ登校する生徒の第一波がやってきそうな時間である。
「しかし、とんでもないことになったな……」
「そうね、とんでもなく面白そうね」
ああ、相変わらずこの女は能天気というか、何というか。
「いや責任重大だぞ? もし売れ残ったら――」
「その時はその時よ。いやぁホント楽しみ。
あたし、一度は接客業ってやってみたかったのよ」
「家の手伝いくらいするだろう?」
彼女の家は雑貨屋を営んでいた。
正確に言えば、彼女の祖母が、だが。
実際、彼女がレジに立つのを何度か見たことがある。
「あれは、何というか、別腹よ」
「食べるな、食べるな……」
「それに最近おばあちゃん具合悪くて店休みがちなのよ」
初耳だった。しばらく豊臣雑貨店には行っていないから知らなかった。
「大丈夫よ、そんな顔しなくたって。歳だから体力落ちてるっていうのもあるだけ。
どこかに代わってくれる人でもいいんだけどなぁ」
「なんでそんな目でこっちを見るんだ……」
彼女はねだる様な甘い瞳で上目遣いをしていた。
「それにしても、豊臣は緊張感ないねぇ」
藤岡先生は苦笑いしていた。
「どう思います、これ?」
「ま、橋場も少しは気楽に構えた方がいいと思うよ」
「いや、そういうわけには……」
この人もどちらかと言えなお気楽寄りだった。
そんな二人に挟まれていて。
オセロだったら、俺までそうなってしまう。
「それにさすがにあのトル――」
「トネリコです!」
なぜかわからないが、すぐ訂正しなければいけない気がした。
「トネリコ氏が復活すれば何とかなるって」
「うーん、だといいんですけどね……」
今まで見た中で、最悪レベルな車酔いだったんだけど……
そうこう話していると――
「待たせたなっ!」
再び進さんが現れた。その右手にはトートバッグを持っている。
「わー、可愛い! これ、フジミベーカリーで作ったやつですか?」
そのバッグには店名のロゴがそれはおしゃれに入っていた。
「だが残念ながら非売品だ。里奈が俺のためだけに作ってくれたもんだ」
「えーずるい! あたしも頼んでみよっと」
「おい、それは止めろ。希少性が――」
「で、いったいその袋には何が入ってるんですか?」
あわや話が脱線するところで。
どうしてこの二人には緊迫感がないのやら。
「ああ、悪い悪い。ほらこれ――」
そう言うと、バックの中からエプロンが出てきた。
奇麗に折りたたまれたそれを、進さんは俺と寧音に渡した。
広げてそれを身に纏う。ブレザーは邪魔だから脱いだ。
ぴったりとサイズはあった。その中央にはでかでかとやはり店名が。
「準備いいですね」
「元々、あのおっさんと俺の分だったからな」
「なるほど」
いや、待てよ。そういうことなら――
嫌な予感とある種の期待を持って、小柄な幼馴染の方を見た。
見事に、エプロンはその背格好には不釣り合いだった。
「ちょっと! 大きすぎるんですけど!」
「そうか?
調理実習の時に、大人用のエプロンを持ってきた小学生みたいでよく似合ってるぞ」
「それは似合ってるとは言わないの! 変更を要求するわ」
「わぁーったよ。あとで持ってきてやるから、今は我慢してくれ」
それでも寧音はあまり納得いってないらしい。
難しい顔で、ぶかぶかのエプロンをどうにかしようとしていた。
「あとこっちは金庫だ。釣銭が入ってる。
売り上げを入れるのを忘れるなよ?」
「はいはい、わかってますってー」
その辺り雑貨屋の孫らしい反応だ。
「それとこれに売り上げを記録しておいてくれ」
「はい……ってこれ自由帳じゃないですか!」
「わ―懐かしい、小学生以来ね!」
「お前にはぴったりだな」
「流石に今は使ってません~」
「とりあえず売れた個数さえわかればいいからな」
「でもパンの種類によっては価格違うんじゃないですか?」
「いや、一律百円で売ってくれ」
「えっ、大丈夫ですかそれ……」
メロンパンやらクロワッサンやらコッペパンやら、種類もそれなりにあった。
店で買うなら、同じ値段ではない。
「学生価格ってやつだ。そもそも子供がそんなこと気にすんな!」
それはとても頼もしく見えた。
初めて、この人がまともに見えた瞬間だった。
こうして何とか販売体制は整ったわけで。
「あ、そうだ。入り口に看板置いといたからな」
進さんが、ホール後方の入り口を指さした。
とりあえず俺たちはそれを見に行ってみる。
入り口のところに、貧弱そうな看板が置いてあった。
段ボールで作られたそれは表面に画用紙が貼ってある素敵なつくりだ。
まさに手作りという雰囲気満載の看板だった。
両面に、『フジミベーカリー出張店』という文字と、周りを飾る様に不思議な絵が描かれている。
「ねえ、なんで脳みそとかその他謎の物体が書いてあるの?」
「それはメロンパンだし、そっちはクロワッサンだし……」
あまりにも素晴らしい絵だ。思わず、進さんを睨んだ。
「お、俺が書いたんじゃないぞ! 里奈がやってくれたんだ」
「ああ、そう言えば彼女、絵心は全くなかったねぇ」
しみじみと旧友からの証言も混じる。
意外なところで、あの人の弱点が判明した。
「さて俺はそろそろ戻るかね」
「えっ、もう少し手伝ってくれても」
「悪いが、作業が押してるんでね」
ほんとかよ、心の中は疑惑の念で溢れていた。
「じゃあ、二人とも頑張れよ!」
そう言うと、進さんは歩いて行ってしまった。
こうして、何と一日目は俺と寧音でパンを売ることになったのだった――




