第2話 解錠の法則
3日後。彩は再び秋葉原の地下にある『株式会社デジタルクリーン』の重い鉄扉の前に立っていた。
昨日、阿部から「作業の目処がついた。一度来い」とだけ短いメッセージを受け取っていた。
扉のノブに手をかけると、前回と同じように鍵は開いており、換気扇のモーター音だけが微かに漏れ聞こえてくる。
「失礼します」
声をかけて中に入ると、阿部は相変わらず部屋の中央にある巨大なデスクで、青白いモニターの光を浴びながらキーボードを叩いていた。
彩の姿を認めると、阿部は無言で一つのモニターを指差した。
「座れ」
「あ、はい」
彩は促されるまま、デスクの横に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。
デスクの上には、3日前に預けた兄のスマートフォンが置かれている。蜘蛛の巣状にひび割れた画面は暗いまま、何本ものケーブルが繋がれ、隣のノートパソコンと接続されていた。
「単刀直入に言う」
阿部はモニターから視線を外さず、淡々とした声で切り出した。
「あんたの兄貴のスマホのロックだが、まだ外れていない。パスコードの入力エラーによるロックアウトまで、残り3回だ」
「3回……」
「物理的に基板からメモリチップを引っ剥がして、直接データを吸い出す方法もある。だが、あの程度の破損なら、まずは正規の手順で突破する方がリスクが少ない。ただし、適当に数字を打ち込む余裕はない」
阿部は太い指でデスクをコツコツと叩いた。
「俺はこれまでの3日間、石川浩太という人間のネット上の痕跡を徹底的に洗い直した。SNSの捨てアカウント、過去に登録したポイントサイト、利用していたフリーメールの履歴。そこから、パスコードの鍵となる数字を絞り込むためだ」
阿部は手元のキーボードを操作し、モニターの一つにテキストファイルを表示させた。
そこには、石川浩太が過去に使用していたと思われる、いくつかのウェブサービスのパスワードが羅列されていた。
「これを見てみろ。浩太がネット上のアカウントで使っていた、パスワードの法則性だ」
彩はモニターに目を細めた。
そこには、『1114』『1114_k』『k_1114』といった数字とアルファベットの組み合わせが並んでいた。
「1114……?」
彩は首を傾げた。
「兄の誕生日は5月ですし、私の誕生日は10月です。実家の電話番号にも、こんな数字は入っていません」
「だろうな。だが、浩太はこの1114という数字に、執着とも言えるこだわりを持っていた。問題は、この数字が何を意味しているかだ」
阿部は身を乗り出し、彩の目を見た。
「石川浩太が死んだのは、11月14日だ」
「え……?」
「だが、このパスワードが設定されたアカウント群が作成されたのは、今からおよそ12年も前だ。自分が死ぬ日付を、12年前からパスワードに設定していたことになるか?」
「そんな……偶然じゃないですか?」
「これだけの一致が偶然起きる確率は限りなく低い。浩太にとって、1114は間違いなく別の重要な意味を持つ数字だった。そしてそれは、スマホのパスコードを解き明かすヒントでもあるはずだ」
阿部は再び椅子に深く背中を預け、腕を組んだ。
「あんたは、兄貴が素行が悪く、借金まみれだったと言ったな」
「はい……」
「だが、俺が見つけたログが示す石川浩太の姿は、あんたの言葉とは少し違っている」
阿部は別のモニターに、いくつかのウェブページのキャプチャ画像を表示させた。
それは、建設現場の求人情報サイトや、深夜の清掃アルバイトの募集ページだった。
「浩太は、複数の日雇い労働を掛け持ちしていた。かなり割のいい、だが肉体的には過酷な現場ばかりだ」
「え……でも、実家には消費者金融からの督促状が何度も……」
「借金があったのは事実だ。だが、問題はその金がどこへ消えたのかだ」
阿部はノートパソコンのキーボードを叩き、無機質な表計算ソフトの画面を立ち上げた。
「浩太の口座の入出金履歴だ。給与も借金も、大半がすぐに『現金』で引き出されている。手渡しなら足取りはそこで途絶える。……だが、不自然な符合を見つけた」
阿部は無表情のまま、彩を見据えた。
「違法な手段だが、あんたの伯父の口座履歴も洗わせてもらった。あんたは大学の学費を、親戚に援助してもらったと言っていたな」
「はい……伯父一家が、無理をして出してくれたと……」
「あんたの大学の学費が振り込まれる直前、毎回決まって、伯父の口座にまとまった現金がATMから入金されている。振込元の名義は不明だ。だが、その入金の日付と金額は、浩太が現金を引き出したタイミングと、ほぼ完全に一致する」
彩の頭の中で、バラバラだったピースが急速に組み合わさっていく。
過酷な労働。消費者金融からの借金。伯父の口座への謎の入金。そして、自分の学費。
両親の死後、伯父一家は彩を「厄介者」として扱い、学費に関しても事あるごとに恩着せがましく言われていた。
「兄が……私の学費を……?」
「俺が提示できるのはデータだけだ」
阿部は淡々と告げた。
「だが、浩太が引き出した現金が伯父の口座に流れ、結果的にあんたの学費に変わった。記録はそう示している」
彩は震える手で口元を覆った。
信じられなかった。あの、ろくに家に寄り付かず、お金の無心ばかりしていた兄が。自分が直接金を渡せば、彩が遠慮するか、伯父一家に巻き上げられると考えたのだろうか。だから、「伯父からの援助」という形を取らせるために、泥を被ったのか。
「……どうして」
彩は絞り出すような声で言った。
「どうして、言ってくれなかったの……」
「さあな。だが、データは嘘をつかない」
阿部はデスクの上のスマートフォンに手を伸ばした。
「話をパスコードに戻す。浩太が何故1114という数字に執着していたのか。あんたに心当たりはないか?」
「心当たり……」
彩は必死に記憶を辿った。
11月14日。
両親の命日でもない。兄の誕生日でもない。
だが、その日付には、どこか奇妙な既視感があった。
『彩、誕生日おめでとう』
不意に、遠い日の記憶が蘇った。
あれは、自分がまだ中学生だった頃。10月24日の、誕生日の夜。
滅多に家に帰ってこない兄が、珍しくケーキを買って帰ってきた日だ。
『兄ちゃん、ありがとう!』
『おう。……あ、やべえ』
『どうしたの?』
『ロウソク、もらうの忘れた。まあいいや、これでも刺しとけ』
兄はそう言って、ポケットから何かを取り出し、ケーキの真ん中に突き刺した。
それは、コンビニでもらったと思われる、プラスチック製の使い捨てフォークだった。
フォークの先端には、マジックで何か文字が書かれていた。
『何これ?』
『ん? ああ、俺のラッキーナンバー。お前にも分けてやるよ』
彩は、そのフォークに書かれていた文字を思い出した。
「……11月、14日じゃない」
彩は顔を上げ、阿部を見た。
「あの数字は、日付じゃないんです」
「どういうことだ?」
「10月24日。私の誕生日です。兄は昔、プログラミングの真似事をしていて……数字を16進数で書くのがかっこいいって、よく言っていました。私の誕生日を、16進数で表したんだと思います」
「1024を、16進数でか」
阿部の目が微かに細められた。彼は瞬時に頭の中で計算を行った。
「10進数の1024。それを16進数に変換すると、400になる」
「えっ……でも、兄のパスワードは1114で……」
「逆に考えるんだ」
阿部の太い指が、猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。
「16進数の『1114』を10進数に変換すると……4372だ」
「4372……」
彩がその数字を反芻した時、阿部の手がピタリと止まった。
彼はモニターの片隅に表示された、浩太の裏アカウントの登録日時に視線を固定していた。
「……4372日」
阿部は低く呟いた。
「およそ12年だ。浩太がこのアカウント群を作り始めた時期と重なる」
「12年……?」
「つまりこれは、ある起算点からの『日数』だ。日付じゃない。浩太にとって一番重要な日から、4372日目ということになる」
阿部はゆっくりと振り向き、彩を見た。
その顔には、驚きと、そして微かな戸惑いが浮かんでいた。
「あんたの誕生日は、10月24日だったな」
「はい」
「平成何年生まれだ?」
「1999年、平成11年ですけど……」
「1999年、10月24日。そこから4372日後……2011年の10月か」
阿部の言葉に、彩は息を呑んだ。
2011年の秋。それは、両親が事故で亡くなり、彩が伯父一家に引き取られた時期だった。浩太が家を飛び出し、一人で働き始めた時期と完全に一致する。
「生まれてから、両親を失うまでの日々。そしてそこから、あんたがこの世に存在している日数だ」
阿部はデスクの上のスマートフォンを手に取り、彩の前に差し出した。
「浩太は、このスマートフォンを買った日、あるいはパスコードを変更した日の、あんたの『生きてきた日数』をパスコードに設定したんだ」
阿部は彩の目を見た。
「浩太がこのスマートフォンを手に入れた、あるいは何か大きな心境の変化があった時期に、心当たりはないか」
「……」
彩は記憶の糸を必死に手繰り寄せた。
兄のスマートフォン。iPhone 13。
そして、3年前に最後に会った時のこと。
『彩、大学卒業おめでとう』
『……ありがとう。でも、お兄ちゃんには関係ないでしょ』
『まあな。これ、就職祝い。俺のお古だけどな』
兄はそう言って、少し傷のついたノートパソコンを押し付けてきた。
あの日。兄は新しいスマートフォンをいじっていた。
「……3年前の、3月20日」
彩は震える声で言った。
「私が大学を卒業して、就職が決まった日。最後に兄に会った日です」
阿部は無言でうなずき、パソコンの電卓機能に数字を打ち込んだ。
1999年10月24日から、2023年3月20日まで。
うるう年を含めた、正確な日数の計算。
結果が表示される。
『8548』
「これだ」
阿部はスマートフォンをデスクに置き、太い指で画面を操作した。
8。5。4。8。
残された3回のチャンスのうちの、1回目。
短い振動音。
画面が切り替わり、暗かったディスプレイにホーム画面が表示された。
「……開いた」
阿部は低く呟き、深く息を吐き出した。
彩は信じられない思いで、その小さな画面を見つめた。
「あいつは、あんたが生まれてからの日数を数えていた」
阿部は画面を操作しながら、感情を交えない声で言った。
「一日、一日、あんたが無事に生きて、大人になっていくのをな」
「お兄ちゃん……」
彩の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
憎んでいたはずの兄。軽蔑していたはずの兄。
だが、その胸の奥には、妹を想う不器用すぎる愛情が、確かなデータとして刻まれていたのだ。
「依頼は、中身の全消去だったな」
阿部の静かな声が、地下室に響いた。
彼はスマートフォンの設定画面を開き、『すべてのコンテンツと設定を消去』の項目に指をかけた。
「本当に、このまま消していいんだな」
「……待ってください」
彩は涙を拭い、阿部を見た。
その瞳には、先程までの怯えや迷いはなく、静かな決意が宿っていた。
「消さないでください」
「中身を見たくないんじゃなかったのか」
「見ます。浩太が、何を遺したのか。全部、見届けます」
阿部は少しだけ目を細めると、スマートフォンの画面をオフにして、彩に差し出した。
「……いいだろう。ここから先は、あんたの領域だ」




