第1話
秋葉原駅から歩いて十分。電子部品のジャンク屋や怪しげなメイドカフェの入る雑居ビル群を抜け、さらに人通りの少ない裏路地へ入った場所に、そのビルはあった。
薄汚れたタイル張りの外壁。ポストには『株式会社デジタルクリーン』と印字された、色褪せたステッカーが貼られている。表向きはパソコン修理とデータ復旧を請け負う会社だが、看板は出ていない。
石川彩は、ひんやりとした空気が漂う地下への階段を、一段ずつ慎重に下りた。
握りしめた手提げバッグの中には、一週間前に死んだ兄のスマートフォンが入っている。
階段の突き当たりにあったのは、重そうな鉄扉だった。かすかに、換気扇のモーター音と、何かが焦げるような匂いが漏れ出ている。
深呼吸を一つして、彩はインターホンのボタンを押した。
反応はない。
もう一度押す。やはり、スピーカーからは何も聞こえてこない。
意を決して、彩は鉄扉の冷たいノブを回した。鍵は開いていた。
「すみません」
扉の先は、想像以上に雑然とした空間だった。
無機質なコンクリート打ちっぱなしの壁。部屋の中央には、複数のモニターが並んだ巨大なデスクが鎮座し、その周囲には分解されたパソコンのパーツや、得体の知れないケーブル類が山のように積まれている。
空気清浄機が低く唸る音と、キーボードを叩く乾いた音だけが、部屋の中に響いていた。
部屋の奥、青白いモニターの光に照らされた背中があった。
黒い無地のTシャツに、カーゴパンツ。丸太のように太い腕と、服の上からでもわかる分厚い胸板は、ITエンジニアというよりは肉体労働者のそれに見えた。
「あの、阿部邦彦さんでしょうか」
彩が声をかけると、タイピングの音がぴたりと止まった。
キャスター付きの椅子が軋む音を立てて回転し、男が振り返った。
無精髭を生やした、精悍だが無愛想な顔立ち。鋭い眼光が、彩の頭の先から足元までを値踏みするように舐める。
「看板は出してないはずだが」
低く、地を這うような声だった。
「はい。以前、私の勤めている書店の常連のお客様から、お噂を伺いまして。どうしても開けられないデータがあるなら、秋葉原の地下にいる『遺品整理屋』を頼れと」
阿部と呼ばれた男は、小さく舌打ちをした。
「厄介な紹介だ。表の修理依頼なら上の階の業者に行け。俺が受けるのは、死人の尻拭いだけだ」
「わかっています。だから、ここへ来ました」
彩はバッグから、表面のガラスが蜘蛛の巣状に割れたスマートフォンを取り出し、乱雑なデスクの空いたスペースにそっと置いた。
「一週間前に、バイク事故で亡くなった兄のものです」
阿部は椅子から立ち上がり、ゆっくりとデスクに近づいた。彩より頭一つ分以上背が高く、威圧感がある。
彼がスマートフォンを手に取ると、その大きな手の中では、機械がまるでおもちゃのように小さく見えた。
「iPhone 13か。液晶のダメージはひどいが、基板までいってなきゃ電源は入るだろう」
阿部は手慣れた動作でケーブルを繋ぎ、ノートパソコンのキーボードを数回叩いた。
ひび割れた画面に、リンゴのマークが浮かび上がる。
「生前、お兄さんからパスコードを聞いていたか?」
「いえ……最後に会ったのは、三年も前なので」
「なら、心当たりのある数字は?」
「兄の誕生日や、実家の電話番号は試しましたが、ダメでした。これ以上間違えると、データが完全に消去されてしまうと聞いたので、怖くて手が出せなくて」
彩は唇を噛んだ。
「なるほど」
阿部は無表情のまま、スマートフォンをデスクに置いた。
「依頼はロックの解除だな。中身のデータはどうする。復元してUSBメモリに移すか?」
「いえ、中身は見たくありません」
「何?」
「ロックを解除して、中身をすべて消去してください。初期化して、ただの機械に戻してほしいんです」
阿部は眉をひそめ、初めて彩の顔をまじまじと見た。
クラシカルなハイネックのニットに、落ち着いたトーンのロングスカート。手入れの行き届いた髪と、透き通るような白い肌。どこか深窓の令嬢を思わせる、静かで上品な佇まい。
だが、その色素の薄いブラウンの瞳には、強い拒絶の色が浮かんでいた。
「理由は?」
「知る必要がないからです」
彩は静かに視線を落とした。
「兄は、昔から……素行が悪かったんです」
絞り出すような声だった。身内の恥を赤の他人に晒すことへの躊躇いが、その表情に滲んでいる。
「高校を中退してからは、家の……両親のお金を持ち出して遊び歩いて。両親の葬儀にも、顔を出さなかった」
彩は小さく息を吸い込み、言葉を継いだ。
「たまに連絡が来るのは、お金の無心ばかりでした。実家には、消費者金融からの督促状が何度も届いて……。だから、きっとこの中にも……」
彩はデスクの上のスマートフォンを見つめた。
「借金の記録とか、見ず知らずの女性たちとのやり取りとか。それに、真っ当ではない仕事の痕跡が残っているはずです」
「だから、見たくないと」
「はい。これ以上、兄の……石川浩太の醜い部分を見せつけられたくありません。でも、このまま手元に置いておくのも、気味が悪くて」
阿部は無言で腕を組んだ。
「法定相続人はあんただけか」
「はい。両親はすでに他界し、私には他に兄弟もいません」
「なら、依頼は受ける。ただ、一つ確認しておく」
阿部は冷徹な目で彩を見据えた。
「俺の仕事は、ロックを外すことだ。中身を消去するのは、俺が中身を確認した後になる」
「えっ……」
「データが完全に消去されたことを証明するために、一度はアクセスログを書き出す必要がある。俺はあんたの兄貴の『醜い部分』を見るかもしれないが、それでもいいか」
彩は少し戸惑ったように目を伏せたが、やがて小さく頷いた。
「構いません。阿部さんにとっては、ただの他人のデータですから」
「契約成立だ。作業には数日かかる。終わったら連絡するから、連絡先を置いていってくれ」
彩はメモ用紙に電話番号を書き残し、深く頭を下げて事務所を後にした。
鉄扉が閉まる重い音が響き、地下室は再び静寂に包まれた。
阿部は、デスクに残されたスマートフォンを見下ろした。
石川浩太。素行が悪く、借金まみれで、家族を顧みなかった男。
依頼人の妹は、そう言った。
「人間は平気で嘘をつく。自分の身内に対してさえな」
阿部は独り言のように呟きながら、自作の解析ツール群が格納されたパソコンの前に座り直した。
太い指がキーボードに触れた瞬間、彼の纏う空気が一変した。
無骨な肉体労働者のような気配は消え失せ、冷徹で精密な機械のような集中力が空間を支配する。
画面上に無数の文字列が滝のように流れ落ちていく。
「だが、データは嘘をつかない」
阿部は、スマートフォンに接続されたケーブルを確かめると、解析ソフト『マスターキー』を起動した。
パスコードの総当たり攻撃と並行して、阿部は石川浩太のSNSアカウントや公開されている経歴、過去の書き込みなどを検索し始めた。
依頼人が断片的に語った故人の情報、残されたネット上の痕跡。それらを繋ぎ合わせ、設定しそうな数字の法則性を洗い出していく。
数分後、阿部の指が止まった。
「なんだ、これは」
モニターに表示された、石川浩太の過去数年間の行動履歴。そして、裏の掲示板に残された取引の痕跡。
それらを照らし合わせた時、阿部の脳内で一つの仮説が組み上がった。
妹の彩が忌み嫌っていた「クズな兄」という人物像。
だが、画面上のデータが示す石川浩太の足跡は、彼女の言葉とは全く異なっていた。
阿部は再びスマートフォンに目を向けた。
画面には、パスコード入力の画面が表示されている。
入力エラーによるロックアウトまで、あと三回。
阿部は小さく息を吐き出し、画面から視線を外した。
「不器用な野郎だ」
阿部は椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰いだ。
ただのデータ消去の依頼。依頼人が見たくないと言ったデータを、そのまま闇に葬ることは簡単だ。
だが、このデータが示す真実を消去することは、阿部自身の信念に反するような気がした。
阿部は彩が残していったメモ用紙に目をやった。
あの頑固そうな依頼人に、どうやってこの事実を突きつけるか。
パスコードを突破するための決定的な鍵となる情報。それはおそらく、彩自身が握っている。
阿部はゆっくりと体を起こし、再びキーボードに向き直った。




