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プロコフィエフの奔逸(1918年)

最近ようやくプロコフィエフの自伝を読みました。

ロシア革命の翌年、プロコフィエフがアメリカに行く直前の物語です。

 部屋の外から耳障りな物音が聞こえてくる。デモか銃撃か、人々のどよめき、鋭い悲鳴、喧噪……。次第に浮上していく意識がノイズを捉える。けれどまだ身体は覚醒しておらず、身じろぎ一つできない。部屋を満たす空気を小刻みに振動させる騒音が、皮膚を通して僕の中に押し寄せ、精神を落ち着かなくさせる。僕は居ても立ってもいられないような焦燥を感じて、安宿の硬いベッドの上で低い呻き声をあげる。目蓋とその下の眼球が痙攣する。

「……セルゲイ?」

 耳朶のすぐそばで微かに、僕を呼ぶ女の掠れた声が聞こえた。女の体温と纏わりつくような甘い体臭。彼女の手が僕の額に触れ、肌を撫でるぞわぞわとした感触が足の先まで痺れさせる。その感覚を頼りに、僕は眠りの中に漂う意識を眉間のあたりに集中させ、うっすらと目蓋を開いた。

 視界に入ってきた窓の外は薄ぼんやりと明るく、夜が明けつつあることを示している。銃弾がかすめたのか罅の入った窓硝子が、外の風に煽られてガタガタと鳴る。僕は世界を認識しようと幾度か目を瞬かせた。

「まだ早いわ、もう少し寝ていたらいいのよ」

 女の鼻にかかった粘つくような声が耳の奥にこびりつく。薄暗い部屋の中で、二重三重にブレて見えていた世界が次第に鮮明になり、天井の染みの痕まで鮮明に見通せるくらいまで焦点が定まっていく。僕は顔を横向けて、目線を女のほの白い容貌へと移した。

 ニーナ・コーシツは、眠たそうな半開きの眦の奥の潤んだ瞳で僕を見返した。その瞳にゆるくカールした長い睫毛が影を落としている。彼女の生温かい微かな吐息が濡れた唇から溢れ、僕の頬の産毛を逆立たせる。

 僕は身体を起こして彼女を抱きしめた。ブルネットの髪の毛がまとわりつく白く嫋やかな首元に顔をうずめ、女の吸い付くような肌に身体に手を這わせると、湿度を帯びた吐息が切羽詰まったアッチェレランドで(だんだん早く)僕の耳元を打った。ニーナの唇から溢れ出る吐息はまるで歌うようで、一つのイメージを僕の脳内に映し出す。

 彼女はコンサートホールの中央に一人立っている。光に包まれる彼女を僕は客席から仰ぎ見ている。白い肌に映える紅いベルベットのドレス。同じように紅い唇からこぼれるバリモントの詩は会場内の空気をしっとりと震わせ、観客の精神をからめとり、胸の奥深くに共鳴してその身体に熱を帯びさせる。


  あなたはどこにいるの?

  山頂から響きだけが聞こえてくる

  花、また花が、火を灯す

  誰かの笑い声が、私を深みへと誘う


 彼女の、聴くものを惹きつけるソプラノを凌駕するようにピアノの伴奏が重なる。それはニーナの後ろに艶やかに横たわるグランドピアノで、会場内に響き渡る女の悲鳴にも似た歌声を、荒々しい和音の連打で覆い隠す。漆黒の燕尾服に身を包んだピアニストの視線が不意に僕を刺し貫き、激情の波に僕を飲み込む。

 カンタービレの(歌うような)ピアノの旋律が、プレストの速度で乱打する心臓の鼓動をなだめていく。僕は呼吸を整えるため、ニーナの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。噎せ返るような体温に混じって、塗布して時間の経った香水の微かな香りと彼女自身の汗や体液が入り混じった体臭とが融け合った、饐えたような匂いが僕の脳を犯し、充満する。ついさっきまで僕を甘く溶かした彼女の匂いは、今では逆に僕を居心地悪く苛立たせた。僕は彼女から身体を離して、ベッドに腰掛けた。

「……ねぇ、セルゲイ」

 女の甘えるような舌足らずな声が背中をなぞり、汗で冷えた身体をさらにぞっとさせた。

 彼女には応えずに僕は床に散らばった服を手に取って身支度をする。女はそんな僕のそっけない素振りに、もう一度僕の名を呼んだ。

「ねぇ、セルゲイったら。オペラはいつごろ書いてくれるの?」

「オペラ?」

「昨日約束したじゃない。私のためにオペラを書いてくれるって」

 彼女の声にかぶさるように、窓の外から騒がしい声が聞こえてくる。「朝っぱらから気忙しいこと」とニーナは鼻白んだ。情勢は直後に比べれば落ち着いたとはいえ、まだ内戦は続いていた。

 僕は目覚める直前まで見ていた夢の残響が、耳鳴りのように身体の奥でこだまするのを感じた。それは僕の心音を波立たせ、夢の中の焦燥感を再び呼び起こした。

 ここにいてはいけない、と胸の中で誰かが叫ぶ。

「僕はアメリカに行く」

 僕は焦る手でシャツのボタンを留めていき、乱れた頭髪を両手で撫でつける。

「アメリカですって?」

 両手でそのまま顔を強く撫でると軽く両頬をはたいて眠りの欠片を払拭する。一つ大きく深呼吸して、僕はニーナに向き直った。

「君も一緒に来るかい?」

 僕はまだベッドの乱れたシーツにしなだれかかる彼女の白い姿態を見下ろした。女は僕をじっと見上げて答えない。彼女から良い答えは期待していなかった。彼女にはここに置いていけないものがある。彼女は家族を残して祖国を出ることはできないだろう。

「……いつ戻ってくるの?」

「さぁ、三ヵ月か四ヵ月か……。国内が落ち着くまで」

「あなたも行ってしまうのね」

 ニーナ・コーシツは、独り言のようにそう呟いて窓の外へと目を向けた。

 僕は彼女のほうを敢えて見ないように視線を逸らした。


 セルゲイ・クーセヴィツキーに連絡を取って、彼のオフィスに向かった。クーセヴィツキーは戦時下とは思えないような上質のスーツをきちんと着こなして僕を待っていた。

「プロコフィエフ、よくぞ無事で」

 出迎えたクーセヴィツキーは、僕の肩を大きく二回たたいてから思いがけない力強さで抱擁した。

「今までどうしていた? モスクワにずっといたわけじゃないだろう?」

「ええ、母がキスロヴォーツクで療養しているのでそこへ。早くこちらに戻ってきたかったんですがそうもいかなくて」

「それにこしたことない。こっちにいたら命がいくつあっても足りない」

「あなたはずっとモスクワに?」

「いや、あっちこっち転々として俺も最近モスクワに戻ってきたところだ。……ベルリンのオフィスも気になっているけれど、こればっかりは如何ともしがたい」

「クーセヴィツキー、僕はアメリカに行くことに決めたんです」

 彼は一瞬、言葉を失ったように瞠目した。

「本気かい? セルゲイ・セルゲエヴィチ」

「ええ」

 彼は黙って僕の目の奥の真相を見透かそうと試みたが僕はそれに許さず言った。

「ビジネスの話をしましょう」

「……ビジネス、ね」

 クーセヴィツキーはその整った薄い唇を歪めて、僕の言葉を繰り返した。

 僕は、彼にこの数年で完成させたバレエ曲と二つのオペラを提示した。どれも楽譜はあっても初演の機会も定かでないものばかりだ。この混乱した状況下ではすぐに出版することも叶わないだろう。僕は概要をざっと説明しながら彼の反応をうかがった。商売に厳しいクーセヴィツキーがいくら金を出すかは、僕が本当にアメリカ行きを決行できるかどうかを左右する。

 ふぅと大きく息を吐きだして、クーセヴィツキーは言った。

「……前払いで六千ルーブル、でどうだ?」

 その答えは僕を満足させるものだった。満足なんてものではない。僕は思わず鼻で笑ってしまった。

「何が可笑しい?」

「いえ、失礼。まさか六千も出してくれるとは思っていなかったのでびっくりしてしまったんです」

「そうかい? こんな状況じゃあルーブルの価値も明日にはどうなるかわからん。いつ紙切れになるかわからないものを抱えているより、いずれ大金を運んでくれる君の楽譜のほうが断然価値がある」

 彼は気障たらしく唇を歪めて自嘲気味に言うので、私もそれにつられた。

「数年前だったら『若造がへんてこな作品を作ってきた』と見向きもされなかったのに。たいそうな変わりようですね」

「昔のことをそんなふうに言ってくれるな。俺は君の価値をよく理解している」

「あなたがあの審査員制度を廃止したのは本当に賢明な判断でしたよ。審査員たちが自分のプライドを維持するための個人的な見解で有望な作品を却下していたようなものでしょう。とくにラフマニノフは斬新な作品を決して受け入れなかったでしょうからね、たとえあなたが僕の作品に価値を見出してくれていたとしても……」

「プロコフィエフ」

 クーセヴィツキーは窘めるように僕の名を呼んだが、僕の言葉は止まらなかった。

「ラフマニノフは僕の作品に嫌悪感を抱いていた。自分に理解できないから。僕の作品だけでなく、僕自身も、彼を苛立たせるだけだったに違いない。といっても、もうラフマニノフはロシアにいないし、いまとなっては関係ない話かもしれないけれど」

「セルゲイ・セルゲエヴィチ」

 彼はもう一度僕の名を呼んだ。先ほどよりも大きな声で。

「プロコフィエフ、それは誤解というものだ。少し落ち着きたまえ」

「誤解? 何を誤解していると言うのですか? それに僕はいたって冷静です」

「作品の価値とそれが売れるかどうかが一致するとは限らない。俺は売れることを重視したし、それをラフマニノフは重々承知していた。それだけのことだ」

「……」

「君の作品はあの時代には新しすぎた。それは今でもまだ変わらないだろうけど、すぐに時代が君に追いつく。……まぁ、こうも政治が落ち着かないままでは、いったいどうなるかわからないがね」

 彼は両手を広げておどけたしぐさをしてみせた。そして、僕の出立日までに六千ルーブルを用意してくれることを約束した。

「それにしても君までいなくなってしまったら、寂しくなるな。才能ある音楽家の流出、それはこの国の文化の多大なる損失だ」

「大袈裟だな……」

 僕は、彼が僕以外の誰がロシアを去ったと想像したのかを極力考えないようにしながら、そう呟いた。

「大袈裟じゃないよ。俺はそう強く思っている」

「……あなたはこの国を離れる予定はないのですか?」

「そうだね。ときが来れば、そういう選択もあるかもしれない。でもまだ俺にとってそのときではない。……さぁ、もう一度抱擁をさせてくれ、別れの抱擁だ」

 彼はもう一度、今度はやや乱暴に僕の身体を抱きしめると「旅の無事と君の活躍を祈る」と言って僕の両手を固く握った。僕もその熱い手を握り返し、彼のオフィスを後にした。

プロコフィエフはアメリカに行く前に日本に立ち寄っています。そのときの日記にニーナ・コーシツの名前が出てきます。

それを知ってからずっと抱いていた妄想を小説にさせていただきました。あくまで妄想です。


ニーナ・コーシツは後日渡米して、プロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」のファタ・モルガーナ(魔女)役で名声を得て、オペラ歌手としての地歩を固めていったそうです。

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