後編
鮮やかな赤いサンドレスは夏の日差しに良く似合う。そして煩いほどのセミ時雨の下で、屈託無く笑う笑顔も……
公園の並木の下を跳ねるように歩く月に、儚い一夜花の面影は無い。むしろ南国の強い陽光に揺れる、真っ赤なハイビスカスのような陽気さで浩一を翻弄した。
「浩一さん、大変です! ワンちゃんです!」
散歩途中の子犬にじゃれ付かれ、自分も子犬のようにはしゃいで相手をする愛くるしい姿に、浩一も思わず笑顔になる。
『浩一さん、大変です』もう何度この言葉を聴いただろうか……目に映るもの全てを、まるで大事件のように伝える声が、そのたびに彼に『笑顔』という魔法をかける。月がその驚きと共に浩一に伝えるのは、透き通るほどに新鮮な喜びだった。
彼女を呼び寄せた浩一は、その口調を真似てみる。
「月、大変だ! アイスキャンディーだ!」
「アイスキャンディー?」
木陰に立てかけられた自転車と、その荷台にくくりつけられた大きなクーラーボックス。染め抜きののぼりをつけたそれに、月がきょとんとした。
「甘くて、冷たくて、こんな暑い日には世界で一番美味い食べ物だ。」
「食べ物……」
月がぱっと顔を輝かせる。
「食べれないか?」
「いえ、この姿なら食べられると思います。思いますけど……」
もぐっと言葉を飲み込んだ彼女に、浩一は飛び切りの笑顔を降らせた。
「月、人間のオンナノコは、男にわがままを言っても良いんだよ。」
「わがまま……」
「むしろ、言わなくちゃいけない。そういう決まりがあるんだ。」
くすくすと笑声混じる、からかいの響きに気づいて、月も再び笑顔になる。
「浩一さん、アイスキャンディー、買ってください!」
「お前はわがままだなぁ。」
笑いながら買ったオレンジ味のそれを、浩一は夏草の上に座らせた彼女に渡した。
形良い唇は微かに艶めいて、冷たいオレンジ色の上にゆっくりと降りてゆく。
(やばい。)
思ったときにはもう、その艶香る動きから目を離すことができなくなっていた。
大きく一口を頬張った、その口の端を一筋のオレンジ色が滴り落ちる。
(ここは公園で、人目だって……)
唇が重なる前に、そう思うべきだった。だが、もはや手遅れだ。
(こんなに飢えた気持ちは……)
初めての感覚だ。五感の全てを、たった一人に向けるなんて。
浩一は宵蜜に魅かれるコウモリのように、オレンジ味の唇をゆっくりと味わった。その存在を確かめるように、しっかりと月を抱き寄せる。視界の全ては潤んで閉じてゆく瞳しか映さない。より強く求めれば、微かに花の香りが鼻腔に流れ込む。
そして痛みは……
(明日になれば、月は……)
ずくずくと疼く胸からふうっと息を吐いて、浩一は唇を離す。
「月、俺の部屋へ、帰ろう。」
傾き始めた日差しの中で少し掠れたその声を、セミ時雨がそっと隠した。
明りすらつけずに薄暗んでゆく部屋の中で、二人はただ寄り添っていた。今夜しか感じられないお互いのぬくもりを心に刻むように、押し黙って……
薄情に過ぎる時間を思い知らせるように、月下美人の蕾たちはゆっくりと首を上げ始めた。
「ねぇ、月。今ならまだ……花に戻れば間に合うはずだ。」
男の声は震えている。
「今年は実をつけるため、交配用の別株も用意してある。俺とじゃ、実をつけることは出来ない。せっかく花開く本来の意味がなくなってしまうだろう。」
開く花びらが擦れ合う微かな音も、震えている。
「私が開く意味はたった一つ。」
女の声だけは震えない。強い決意と覚悟と、そして愛情に満たされて響く。
「好きだから。好きな人のために、ただ咲きたい。」
「つきっ!」
浩一は自分のために咲こうとするその花を抱きしめた。
宵風の中に甘い香りが強く漂いはじめる。この世で最も特別な、たった一夜のために……
コウモリたちは蜜を吸い上げ、花を食い散らかす。もちろん、その過程で花粉がやり取りされるのだから、花は文句を言ったりはしないが。
俺はコウモリじゃない。
美しく開いた花弁を掻き分け、花の形を壊さぬように筆の先でおしべを擦る。たっぷりと花粉に塗れた筆を動かし、別の花へと移し付ける。やはり花を壊さぬよう、ゆっくりと開いた真ん中に筆を差し込み、めしべの先をするりと丁寧に擦り上げる。
たったそれだけのことなのに、月に見つめられるとひどく淫靡な気分になる。
最後の一輪に作業を施す俺に、背後から月がするりと擦り寄った。細い指が添えられる感覚に、筆先が乱れる。
「月、本当にいいんだね。」
首肯する動きが背中越しに伝わる。
俺は筆を投げ捨て、細い体を腕の中に引き寄せた。今夜しか抱けない、俺だけの花を。
「オンナノコは、男にわがままを言ってもいいんでしょ。だから……」
切なく哀願する響きに、俺の胸が強く痛んだ。
「抱いてください。」
「馬鹿を言うな! 俺は好きな女しか抱かない。だから、これは……」
花びらを思わせる耳朶に口寄せると、鼻の奥でつんと涙の味がした。
「好きだから……お前が好きだからなんだ。」
俺はやっぱりコウモリだ。この美しい花を喰らい、吸い尽くし、実を結ぶことさえ許さない、たちの悪いコウモリだ。
早朝の柔らかな光が、煎餅布団の上にも差し込む。
浅いまどろみを妨げられて目を開いた浩一は、自分の腕の中の空虚感に呻いた。
「月……」
まだ残る温もりの感覚を持て余して鉢を見上げれば、既に満開を終え、しぼみかけている一輪が哀れに映った。
「つき。」
部屋中に、夜色の月下美人の香りがまだ残っている。そして、その女が確かに『居た』ことを示す脱ぎ乱れた赤いサンドレスも……
どさくさに紛れてしまい忘れていたビールが部屋の隅に転がっている。浩一は、乱暴にパケを破り、温まりきったその一本を呷った。
「まずい。」
喉と繋がっているかのように、涙腺からビールと同じ生暖かさの液体があふれ出す。
この一輪は、実を結ぶことすらない。それでもたった一夜を、愛する男の腕の中で咲きたいと願ってしまった……
「月、お前は綺麗に咲いてくれたよ。」
浩一がしおれた花弁に唇を寄せる。
「この世で一番綺麗な、俺だけの花だった。」
願いどおり、たった一人のために咲き乱れ、咲き誇り、その姿を愛する男のまぶたに刻み付けて……
はらりと一翼の花弁が畳に落ちる。
「月……」
それを追うように涙の一滴が、ぱたりと落ちた。




