「寝起きが悪いですわ(割と重かった)」
その夜、意識の底に沈み込んだ俺が見たのは、断片的な、けれどあまりに鮮明な彼女の「生」の記録だった。
最初の断片。蓮華が今よりも幼い頃の記憶。
宮殿の庭。春先。
蒼真は蓮華より少し年上で、初めて顔を合わせた婚約者の顔を、値踏みするでもなく、ただ真っ直ぐに見た。
「お前が蓮華か。闇属性だと聞いたが」
蓮華が少し身を固くした。いつもそこから始まる。その反応は、すでに彼女の反射になっていた。
「……左様でございます」
「ふうん」
蒼真はそれ以上何も言わず、庭を歩き始める。
少し歩いたところで、蒼真の侍従が耳打ちをした。「闇属性の方と、あまり近くに」と。
蒼真が振り返った。
「やかましい。俺の婚約者に何か文句があるのか」
侍従が黙る。
蓮華は、その広い背中を見つめていた。
初めて、誰かに守られたと感じた瞬間の温度が、夢の中の俺にも伝わってきた。
それから、蓮華はよく蒼真のところへ行くようになった。
知って欲しかった、自分の事を。
知りたかった、蒼真の事を。
好きな歌、好きな本、外交の話、内政の課題、国を良くするために思いついたと。
蒼真は最初、ちゃんと聞いていた。椅子に深く座って、うなずいている。
だが、少しずつ、その顔から余裕が消えていった。
話すことに夢中な蓮華は気づかない。蒼真の顔が、困惑から、劣等感を含んだ苛立ちへ変わっていくのを、俺だけが見ていた。
そしてある日、蒼真が吐き捨てるように言った。
「……お前、難しいことばかり言うな」
「え?」
「いちいち俺に言って、何がしたいんだ。俺がわからないのを、笑いたいのか?」
蓮華は言葉を失い、蒼真は部屋を出ていった。
残された蓮華の背中には、悲しみと、それを必死に押し殺そうとする、もっと暗い孤独が滲んでいた。
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皇国の大広間。
扇をゆったりと閉じる乾いた音が、冷ややかな沈黙の中に響く。
円卓の向かい側、他国の使節団は隠そうともしない侮蔑を瞳に宿していた。だが、蓮華が唇を開いた時、空気が凍りついた。
「貴国が昨年の不作により、備蓄の七割を喪失している事実は承知しております。その上で、あえてこの強気な要求……。なるほど、国内の強硬派を黙らせるためのポーズが必要なのですね?」
提示されたのは、彼女が夜を徹して読み込んだ膨大な統計と、断片的な情報の「答え合わせ」だった。
相手の顔から余裕が消える。蓮華は一度も声を荒らげず、ただ冷徹なまでに正確な「事実」という刃で、相手の退路を断っていった。
交渉が終わったとき、使節団の長は深く腰を折った。
蓮華はその背中を冷めた目で見つめていた。これで少しは国が良くなる、という期待。けれど同時に、自分の正しさがまた誰かを遠ざけるという疲れが、彼女の瞳に混在していた。
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夜の執務室。蝋燭の火が短くなるまで、彼女は地図と格闘していた。
北の州を襲った水害。泥濘に沈んだ街道。彼女の指先が、地図上に新たな輸送ルートを、迅速に描き出していく。
翌朝、彼女はその完璧な策を担当貴族の元へ携えていった。
「令嬢がこのような政に首を突っ込まれずとも、我々で適切に対処いたします。お引き取りを」
男は慇懃無礼な笑みを浮かべ、書面を受け取ると、彼女を追い返した。
三日後。
その男の名前で、蓮華の策が「最新の救済策」として実行された。言葉の端々、輸送ルートの選定。すべてが、彼女が書いた通りだった。
廊下でその報告を聞いた蓮華は、一瞬だけ視線を落とす。
それだけだった。怒りも嘆きも、もう外には出さなかった。
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視界が激しく切り替わる。
活気に満ちた市場。一人の商人が、蓮華に気づき、地べたに膝をついた。
「先日の関税の件……姫様のおかげで、店が潰れずに済みました。本当に、ありがとうございます」
学問所の庭。子供たちが無邪気に手を振る。
彼女が無理を通して組んだ予算が、その笑顔を守っていた。
外では、彼女は「救世主」だ。
けれど、誰かに感謝されるたび、蓮華の微笑みの奥で孤独が深まっていくのが見えた。
この人達は、自分の属性を知ったらどう思うのだろうか。いや、どう思われようともいい。自分がする事は変わらない。
それでも。
あとほんの少しだけ、もっと近いところで、自分を理解して欲しいと思ってしまう相手がいた。
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外交を終えた蓮華の手には、精巧な細工の小さな箱があった。蒼真がいつか「興味がある」とこぼしていた、異国の天球儀。
だが、角を曲がった先で、彼女の足が止まった。
「……いくら外交が鮮やかでも、あれではね」
「ええ。あのご不浄な闇の力。どれほど国に尽くそうと、拭い去れるものではありませんわ」
「むしろ、穢れてしまいますわ」
侍女たちの、密やかな、けれど残酷な囁き。
「蒼真様は本当にお可哀想。あのような業の深い方のお側を歩かねばならないなんて……」
蓮華は壁に背を預け、息を殺した。
怒り、憎しみ、そして自分への嫌悪。それらが泥のように渦巻いているのに、彼女は一切を表に出さない。
侍女たちが去り、静寂が戻った廊下。
蓮華は再び歩き出し、蒼真の部屋の前で足を止めた。
扉の向こうから、楽しげな笑い声が漏れてくる。
恋華の鈴を転がすような笑い。それに答える蒼真の、柔らかく、自然な声。
蓮華のノックしようとした手が、虚空で止まった。
その顔は一瞬だけ、泣き出しそうなほど歪んだ。だが、すぐに能面のような無表情へと戻った。
彼女はゆっくりと手を下ろした。
来た道を戻り、廊下の端にある飾り棚の上に、そっとその箱を置く。
誰が置いたかもわからない、名もなき贈り物として。
最後まで、彼女の瞳から涙がこぼれることはなかった。
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揺れる船の中、俺は目を覚ました。
肺の奥が焼けるように熱い。
夢の中で見た蓮華は、ずっと独りだった。
積み上げても削られ、認められても誰にも届かず、湧き上がる感情を踏み潰して、また積み上げる。
その痛みの余韻が、俺の胸の中に居座っている。
ゆっくりと寝台から起き上がる。身体が重いんじゃない。彼女の心の重みが、まだ俺の魂にこびりついているような気がした。
蓮華の感情が離れてくれない。
今日、レイと会う。商会に勧誘するつもりだ。
その予定だけが、ようやく俺を現実に引き戻してくれた。
彼女がかつて踏み潰したはずの孤独を、俺は抱えたまま、船を降りる準備を始めた。




