「婚約破棄ですわ(え、俺が?)」
「まあ……それが精一杯ですの、蒼真殿下。お可哀想に」
俺はその言葉が口から出た瞬間、固まった。
違う。今のは俺じゃない。
俺が言おうとしたのは「申し訳ございません」だ。
平謝りして場を収める。働いてから叩き込まれた、理不尽をやりすごす唯一の武器。
なのに口から出たのは、真逆の相手への哀れみだった。
しかも声が、高い。
あと、女物の着物を着ている。
あと、扇を持っている。
(俺、誰?)
混乱したまま周囲を見回す。
朱塗りの柱が並ぶ大広間に金箔の屏風。天井から吊り下げられた無数の灯篭が、障子越しの月明かりと混ざって淡い光を落としている。
磨き上げられた石の床に、深紅の敷物が延びており、その先に玉座があった。両脇には甲冑姿の近衛兵が待機しており、壁際には着飾った貴族たちが並んでいる。金の簪が揺れ、宝玉が光を跳ね返している。
見覚えがある。
ものすごく、見覚えが。
俺はここを知っている。画面の中で、何十回も動作確認のたびに再生した、イベントシーンの背景。
ここは、乙女ゲーム『恋華☆トキメキ☆プリンセス』の大広間に酷似している。俺が関わったゲーム。俺がプログラムを書いた、あのゲームだ。
なんで俺がここにいる?
(……まずは落ち着いて整理しよう)
俺は田中浩介、三十五歳、ゲームプログラマー。さっきまで、俺は会社で仕事をしていたはずた。残業中に頭が溶けるような感覚があって……。
それが次の瞬間には、固い石の床を踏んでいた。
灯篭の熱に貴族たちの視線。扇の影で囁き合う声。白檀と汗の混じった空気。全部、生々しい。
そして目の前で行われているのは、断罪イベントだった。
悪役令嬢、九頭竜蓮華の追放ルート。
(こいつは最初から退場が決まってるキャラだろ)
恋トキの悪役令嬢、九頭竜蓮華。
このゲームの中で、蓮華はどのルートを通っても最終的に追放されるか、投獄されるか、処刑される。
ヒロインの引き立て役として断罪されることがシナリオ上決定していて、どのルートでも救いがない。
それが今、何故か俺の身に起きている。
正直、詳しいシナリオの流れは覚えていない。俺の仕事はフラグの処理を正しく動かすことであって、誰が誰を好きで、誰が誰を断罪するかには興味がない。それでも今の険悪な雰囲気はわかる。皇子が怒鳴り、貴族たちが見物しているのだ。
どう考えても追放か、もっと悪い結末。
「蓮華!」
目の前の青年が雷のように怒鳴った。
暁宮蒼真。恋トキの皇子。こいつのキャラ画面を実装したとき、デザイナーが「顔の盛り方が強すぎる」と笑っていた記憶がある。その本人が今、すごい形相でこっちを睨んでいる。
「やはり反省の色はないか……!」
謝ろうとしたが、口が動かない。
正確には動くのだが、言葉が俺のものにならない。口が勝手に動く。息が勝手に整えられる。
「わたくしを裁けるのは未来の歴史学者だけですわ。あなたがたはせいぜい、その脚注に名を残す程度の存在にすぎなくてよ」
広間が、静まり返った。
(俺はそんなこと一言も言ってない)
口調も姿勢も、全部が勝手に整えられていく。背筋が伸び、顎が上がる。深紫の着物の裾が音もなく揺れ、優雅に一歩踏み出す。手に持った扇が、完璧な角度で開く。
自分の体なのに、自分のものじゃない。まるで誰かが操縦席に先に座っていて、俺は助手席から文句を言っているだけだ。
(やめろ。今それじゃない。余計に怒らせてどうするんだ)
貴族たちの何人かが扇を下ろし、嘲笑を浮かべた。別の何人かは居心地悪そうに視線を逸らした。蒼真の眉間の皺が、さらに深くなる。
俺は焦っていた。このままでは処分が確定する。追放か、投獄か、それとも処刑か。どれが選ばれても最悪のシナリオだ。
ふと、蒼真の隣に、もう一人少女が立っているのが目に入った。
白い巫女装束に長い黒髪。柔らかな顔立ち。
聖女だ。名前は……小鳥遊恋華だったか。この乙女ゲームの主人公。
恋華。蓮華。
……同じ「れんか」か。
ヒロインと悪役が同じ読みの名前。光と闇で対になるように設計されたキャラ。片方は皆に愛される聖女で、片方はどのルートでも退場が決まっている悪役令嬢。同じ「れんか」なのに、与えられた役割は真逆だ。
シナリオ担当の趣味かと、かつて思った。今は笑えない。退場する側に入っているのは俺だ。
その恋華は、何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、視線を伏せる。
その表情を見て、妙な違和感が走た。
(こんなモーション、あったか?)
俺はイベントシーンのテキストを全部覚えているわけじゃない。ただ、モーション担当のデザイナーが「恋華のここの表情は重要なんです」「可哀想すぎても可哀想じゃなさすぎてもダメで」と特に悩んでいたのを横で聞いた記憶がある。
その記憶に照らすと、今の恋華の表情は変だった。泣きそうな顔でもなく、意を決した顔でもない。ただ視線を伏せている。まるで何かを隠すように。あるいは、自分の選択に罪悪感を持っているかのように。
考える時間はなかった。
「追放とする!」
蒼真の声が広間に響いた。
誰も止めない。誰も疑わない。大広間にいる誰一人として、異議を唱えなかった。
その瞬間だった。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
なんだ、これ。
悲しい。たまらなく悲しい。寂しい。すごく寂しい。そして、静かだが深く、刺すような怒り。
これは俺のじゃない。俺は今ビビってるだけで、こんな感情は出てくるはずがない。
でも体の奥から、勝手に湧いてくる。どろりと、重油のように。
視線が勝手に動いた。大広間の隅、壁際に立っている中年の男に向かって。
渋い顔に、厳めしい装束。
九頭竜家の当主、蓮華の父親だ。データ上は存在するが画面には出ない。一行の配置情報しかないモブキャラ。なのに自分の父親だとすぐわかった。
ふと、目が合った。
父が視線を逸す。
胸の奥の感情が、また一段深くなった。悲しさが、寂しさが、怒りが、濁流みたいに押し寄せてくる。
何でだ。
俺はこの人と会ったことすらないのに。この体に入ってから数分も経ってないのに、どうして、こんなに痛いんだ。
わからない。胸が締め付けられる。
ていうか、今そんなことに構ってる場合じゃない。
足元の術陣が光り始めた。転移術。追放先に飛ばされる術式。ゲームではシーン切り替えのエフェクトでしかなかったやつだ。
足元から白い光が這い上がってくる。ひんやりして実体がある。
(……これ、どこに飛ばされるんだっけ)
どっかの辺境? 確かそんな感じだった気がする。辺境の領地に追放。畑でも耕してスローライフも悪くない。
いやそうじゃない。俺は日本に帰りたい。エナドリが飲みたいんだ。
足元の光の色が変わった。
白が、紫に。
なにこれ?
「転移術に異変を確認!」
上座に控えていた宮廷術師の陰陽師が叫んだ。
「座標が……。陛下、座標が確定しておりません!」
何それ怖い。
視界が歪む。重力が消える。体が浮き上がり、大広間が遠のいていく。
視界の端で、父が顔を上げた。初めて真っ直ぐこっちを見た。口が何か叫んでいる。
すでに聞こえない。胸の奥の感情が、痛みが、また一段、深くなった。
俺は暗闇に落ちながら、どうでもいいことを、ふと思い出した。
デスクに突っ伏す直前、画面を見ていた。
書きかけのコードと、積み上がったエナドリの空き缶。フロアには誰もいなかった。夜中の三時を過ぎていたと思う。
頭が溶けていくような感覚があって、あっ、これやばいかもと思った。
でも体が動かない。声も出ない。そもそも呼ぶ相手が誰も思い浮かばない。
そのまま、暗くなった。
……誰も気づかなかっただろうな。まあ、その後のことは知らない。知る前に、ここに来たから。
暗闇の中で、俺はため息をついた。
ため息だけは、ちゃんと自分のものだった。




