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孤独な少女アリス

挿絵(By みてみん)




“How do you know I’m mad?” said Alice.

“You must be,” said the Cat, “or you wouldn’t have come here.”


「私が普通じゃないってどうして分かるの?」アリスは尋ねました。

「君はここに来たじゃないか。それが証拠さ。ーーこの世界にいるのなら、誰だって狂ってる。僕も、君もね」

—ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』より意訳引用




 私は昔から“見えてはいけないもの”が視える。

 人間でも動物でもない、名も無き存在たち。それが、他の誰にも見えていないのだと気づいた瞬間から、私はこの世界に上手く馴染めなくなった。

 見えるものを、見えないフリをして過ごすのは案外難しい。とくに幼い頃は、それが人間なのかそうでないのかの区別すらつかず、無邪気に話しかけてはよく周囲を戸惑わせていた。

 そのうち、大人たちには気味悪がられ、子どもたちには怖がられ、どのコミュニティからも爪弾きされて、ついには嘘つきとまで呼ばれるようになった。

 生まれてすぐに親に捨てられたのも、きっとこの体質が原因なのだろう。一歳にも満たない頃から孤児院で育った私は、本当なら仲間を見つけることで自分の居場所を作れるはずだったのに、誰にも心を開けないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

 そして十四歳の夏。孤児院でも学校でも変わらず孤立していた私に、院長が一冊のパンフレットを手渡してきた。見たことも聞いたこともない学校の案内書。興味も持てず、ただページをぺらぺらと捲る私に向かって、院長はやけに明るい声で言った。


「ここでなら、あんたみたいな子でも“居場所”が見つかるかもしれないよ」


 そう勧める院長は終始笑顔だった。でもその表情は、どう見たって私を厄介払いしたがっているようにしか見えなかった。

 それでも、私は行くと決めた。そこで駄目なら、もう二度と自分の“居場所”なんて見つからないと思ったから。


 古びた駅のホームに足を下ろし、私はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。孤児院で支給されたものだ。連絡用という建前だが、私には誰からもメッセージは来ない。というより、連絡先さえ知らなかった。

 地図アプリによると、目的地まではバスで十五分らしい。次のバスを逃せば、次は一時間半後。丘の頂上まで重い荷物を引き摺って登るのだけは御免だ。

 悠長にしている余裕はないと理解し、スマホをそっと仕舞う。

 今日は朝から、雨が降ったり止んだりの曖昧な空模様――もっとも、この国ではそれが通常運転なんだけど、今日に限っては新しい町にさえ歓迎されていない気がしてくる。元々のマイナス思考に拍車が掛かり、既に憂鬱な気分。

 駅のホームに人影はまばらで、照明もところどころしか灯っていない。それほど距離があるはずのないホームの端は、霧の向こうにぼんやりと霞んでいて、何処までも続いていそうな雰囲気だった。

 薄手のジャケット一枚では肌寒い。中にニットか何か着てくるべきだったかも。短い夏はとっくに身を潜めて、空気には本格的な秋の気配が混じり始めていた。

 ふと気配を感じて横を向くと、ベンチに少女がひとり腰かけていた。青白い顔に、季節外れの白いワンピース。風もないのに、麦わら帽子のつばがふわりと揺れている。半透明のその体越しに、「セントベル」の駅名看板が透けて見えた。

 目が合ってしまったのが、不味かったのかもしれない。彼女の瞳が真っ直ぐこちらを射抜いてくる。感情のない、まるで鏡のような瞳だった。

 私は無意識に肩を竦め、そっと視線を逸らした。


「……気のせい。きっと、気のせい」


 そうやって、いつもそう言い聞かせる。これまで一度だって気のせいで済んだことはないのに。

 見てはいけないものだと頭では分かっていても、それらは無意識のうちに視界へ映り込んでしまうし、一度見てしまったものは、どれだけ目を逸らしてもなかったことにはならない。

 無意識の癖で、胸元に提げた鍵型のペンダントに手を伸ばす。お守りだなんて思ってない。ただ、こうして触れていると、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く気がするから。それだけだ。

 私は何事もなかったように視線を逸らし、重たいスーツケースを引きずって改札口の方へと歩き出す。

 濡れた石畳の上を引きずる古いスーツケースの車輪が、湿った空気の中に鈍く軋む音を響かせた。




◆ ◆ ◆




 ベランタイン公国ーーイギリスとアイルランドの間、マン島の南西沖にひっそりと浮かぶ、小さな島国。

 湿気を含んだ空気と、どこまでも低く垂れ込めた雲に覆われたこの国では、古くから“太陽”が神の化身として崇められてきた。

 国のあちこちに刻まれていた太陽のシンボルも、駅に降り立った時までは確かに目にしていたはずなのに、いつの間にか、その姿がぱったりと消えていた。

 代わりに掲げられていたのは、太陽と月が重なった意匠の紋章。意味までは分からなくとも、この町独自の象徴であることはすぐに察せられた。

 ここは、ベランタイン公国の最西端に位置するグレイブス管領区。そのさらに外れ、海沿いの田舎町セントベル。人里離れた丘の上に、私の編入先となる全寮制の夜間学校は建っている。


 Bellhaven (ベルヘイヴン)Academy(・アカデミー)


 入学条件には、「“矯正プログラム”に適性があると判断された者」とだけ、曖昧な言葉で書かれていた。

 最初にそれを読んだ時、胸の奥にざらりとした違和感が残ったのを今でもはっきり覚えている。

 矯正って……何を? ここは問題児の更生施設? それとも異端児の収容所? ――いずれにせよ、“普通の学校”ではないことだけは確かだった。

 案内書には、奇妙な記述がいくつもあった。健康診断の項目には、日光耐性や食物アレルギーに混ざって、『月光耐性』や『衝動行動の自己認識有無』の欄まで。もしそれが冗談でないなら、それらにいちいち目くじらを立てること自体、的外れなのかもしれない。

 けれど、私にはもうここしかなかった。選べる余地のある子たちが来る場所じゃないことくらいは、誰かに言われなくとも分かっていた。




「お待ちしておりました。エヴァリスさんですね」


 面接室の椅子に腰を下ろした私は、目の前で書類に目を通す眼鏡を掛けた初老の男性を見つめていた。

 名乗りはされなかったが、校長か教頭か、それとも別の役職か。肩書きは分からない。ただ、どこか“管理職”の匂いがした。言葉遣いは丁寧で、向けられる微笑みに余計な棘は見当たらない。

 おそらく彼は、私のような事情を抱えてこの場所に辿り着いた生徒を、これまでにも何人も見てきたのだろう。

 私の書類に目を通しても、特別な反応を示すことはなかった。驚くでも、憐れむでも、訝しむでもなく。ただ淡々と、事務的に、私という人間の輪郭を確かめるように。その距離感が私にはとても心地良かった。


「過去の成績には特に問題はありません。ただ……この学校は夜間生活が基本ですので、生活リズムの変化には多少ご注意を」

「はい、大丈夫です。慣れれば問題ないと思います」

「それは結構。では、入学にあたって念のため――現在、ご自身の体調や精神面において、不調や違和感を覚えるようなことはありませんか? 日常生活に支障をきたすようなことも含めて」

「え……」


 質問の意図がすぐには掴めなかった。ただの健康確認にしては、どこか探りを入れるような言い回しに思えて、思わず息を詰める。

 けれど長く黙るのはまずいと思い、私はすぐに小さく首を振った。


「いいえ。問題ありません」


 それは嘘だ。でも、“()()()”ことが体質かと問われれば、答えに迷う。私の中でそれは、生まれつきの性質というより、()()に近いと思っていたから。

 初老の男性は、もう一度書類に目を落とすと、数秒ほど何かを考えるような間を置き、それから「では、ご案内しましょう」と柔らかく微笑んだ。


「現在部屋が限られてまして、旧館の一室のみ空いておりますので、そちらにご案内します。何しろ古い建物なので不便もあるかと思いますが、どうかご理解ください」


 面談を終えた私が案内されたのは、学生寮だった。

 職員の女性はどこか申し訳なさそうに前置きしたけれど、私は即座に「大丈夫です」と答えた。誰にも構われずに済むのなら何よりだ。

 旧館へと続く渡り廊下は、まるで古い映画のワンシーンのようだった。

 冷たい石造りのアーチが連なり、壁面を這う蔦と湿気を帯びた赤茶のレンガが、時の重みを物語っている。尖塔のように伸びた装飾柱が落とす影はどこか非現実的で、足を踏み入れた瞬間、まるで中世のヨーロッパに迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。

 渡り廊下の先にある旧館寮は、敷地内で最も古い建物だという。黒ずんだ木材で組まれた三階建てのその建物は、石造りの重厚さとは対照的に、静かに朽ちかけた温もりを湛えている。まるで誰にも気づかれないまま時間だけを飲み込み続けてきた、そんな風情を纏っていた。


「この通路、"()()()()の通い路"って呼ばれてるんですよ」


 隣を歩く職員が、不意にそんなことを口にした。


「え?」

「まあ、冗談ですけどね。夜に奇妙なものが見えるとか、不吉な足音がするとか。地元の子供たちはこの学園を“レッドストリート(血塗れ通りの)13番地”なんて呼んだりもします。幼い子たちから見ればお化け屋敷にでも見えるのでしょう」


 私はなるべく無愛想にならないよう、口元にだけ薄く笑みを浮かべてみる。口の端が震えて上手くいかなかったけど、前を向いたままの彼女には気づかれなかった。

 まさかこの世界に、自分と同じ“視える側の人間”が、他にもいるだなんて。


 ――そんなはず、ない。


 きっとただの野良猫か、誰かの足音。ありがちな怪談の類だ。私は自分にそう言い聞かせるように、理屈を並べて否定する。

 けれど。

 心のどこかで、ほんの少しでもそれを期待している自分がいることを、私は否応なく自覚していた。


 踏むたびに床板が軋む廊下。前を通り過ぎた他の寮棟はどれも整備が行き届いていたが、この棟だけは、長い間人の手が入っていないことがひと目で分かるほどだった。

 螺旋階段をぐるぐると登った最上階。その一番奥にある部屋の前で足を止める。金のプレートに『ROOM E3-13』と彫られた寮室の扉を前に、職員が静かにノックした。


「フィービーさん? 新しいルームメイトが来ましたよ」


 すぐに返事はなかった。数秒の沈黙の後、ぎぃ、と木の扉が音を立てて、ゆっくりと開いた。




「初めまして!」




 ドアの向こうには、ミルクティー色の髪を三つ編みにした少女が立っていた。

 ずれた丸眼鏡の奥で、大きな丸い瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。あどけなくも屈託のないその笑顔は、どこか現実離れしていて、目にするには少し眩しすぎた。

 こういった無防備なまでの友好的な対応に慣れていない私は、咄嗟にどう応じればいいのか分からず、立ち竦んでしまう。


「私、フィービー・ウィスパーっていうの! 今日からよろしくね! 新しいルームメイトが来るのをずっと楽しみにしてたんだよ!」

「え、と……アリス・エヴァリスです」


 私は、少しだけ戸惑いながら答えた。元々人見知りなうえに、さらにその上をいく人見知りの自覚がある私にとっては、これが精一杯だった。

 「入って入って!」と明るく迎えられ、おずおずと足を踏み入れた部屋は、まるで誰にも知られていない秘密の隠れ家のようだった。

 ところどころ剥がれた壁紙、天井から吊るされた乾いたハーブや花々、曇った古鏡に使い込まれた本棚。

 使われていないらしい小さな暖炉、大きな窓、くすんだビロードのカーテン。

 木製のアンティーク調のデスクには真鍮のランプが置かれ、奥には天蓋つきのベッドが二つ、静かに並んでいた。


「この部屋、前のルームメイトたちはみんな怖がって出て行っちゃったの。でも、私は慣れたら平気だった。というより、暫く居るとなんとなく愛着が湧いて出られなかったの。アリスは怖くない? あ、ごめん! あなたのことアリスって呼んでもいい?」

「う、うん」

「私のことはフィービーって呼んでいいからね。そう呼びたかったらの話だけど……」

「分かった。そう呼ぶね」


 私の言葉に、フィービーはふふっと笑った。その瞬間、ほんの半歩だけ、お互いの距離が縮まった気がした。

 きっと、みんなこうして少しずつ他人と近づいていくんだ。なるほど。すごい。

 今までまともに友達ができたことのなかった私は、そんな当たり前のことにさえ、内心ひどく感動していた。


「この部屋の横に配管が集まってるから、寝る時だけはちょっとだけ煩いかも。あと、万が一変な音がしても、基本的には友好的な子たちだから安心していいよ」

「え、子たちって……?」

「あっそっか! ノクタリアじゃないんだ。ごめんごめん、さっき廊下で何か捜してる感じだったから、私てっきり……ううん、何でもない。きっとその内分かるよ」


 フィービーは意味ありげに微笑み話を切りあげる。この話題にそれ以上は踏み込まないで、というサインかもしれない。思い込み過ぎだろうか。

 どちらにせよ、話を深掘りできるほどの会話術は私にはないので、これで雑談はおしまい。私はスーツケースを広げて荷解きを始めた。

 会話の途中で聞き慣れない言葉が少しだけ引っかかったけれど、それでも私は、彼女とはきっとうまくやっていける気がしていた。


 その夜、私は窓辺のソファに腰を下ろし、ほんの少しだけ開けた窓から流れ込む夜気を感じながら、お茶の準備をするフィービーの後ろ姿を静かに眺めていた。


「ねえ、トワイライトティーって知ってる?」

「とわいらいと、てぃー?」

「この学校の文化って言えばいいのかな? アフタヌーンティーってあるでしょ。私たちは昼夜逆転生活だから、トワイライトティー(夕暮れのティータイム)として、この時間にあったかいお茶と甘いお菓子を食べるの。落ち着くんだよ」


 彼女が差し出した小さなティーカップから、ほんのりラベンダーと蜂蜜の香りがした。ソーサーには三日月を模したクッキーが添えられている。


「私はね、ここに来て本当に良かったって思ってる。だから、アリスもそうなったらいいな」


 その言葉が胸の奥に触れたとき、かすかな灯がふっと灯った気がした。

 けれど、どう返せばいいのか分からず、私はただ曖昧に笑うことしかできなかった。

 希望なんて、抱かない方がいい。ずっと、そう思っていたのに、フィービーの柔らかな笑顔に、早くも心が揺れ始めている自分がいる。

 気を紛らわせようと、そっとクッキーに手を伸ばす。口の中でほろりと崩れるそれは、甘くて、少しだけ塩気があって、濃厚なバターの香りがふんわりと広がった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

今回はまだ導入のお話でしたが、次回からはクラスメイトたちも登場し、アリスの新しい学園生活が少しずつ動き出します。

更新は週1ペースを予定していますので、よろしければ今後もお付き合いいただけると嬉しいです。


※冒頭の引用は、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫のセリフを元に、意訳・アレンジを加えたものです。

※本作に登場する国名・地名・人物等はすべてフィクションです。

※表紙は弟に作ってもらいました。

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