ベルヘイヴンへようこそ
目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。煤けた木の梁が走る天井。その中央には、アンバーガラスのランプシェードが静かに吊るされている。窓にはゴールドブラウンのカーテンが引かれ、照明の光を受けて柔らかく輝いていた。すべてが夢の続きのようで、現実感はどこかぼやけている。
暫くベッドの上で上体を起こしたまま呆然としていると、視界の端で何かが動いた気がした。
「おはよーアリス。よく眠れた?」
フィービーは既に制服に着替え終え、ふわふわとしたミルクティー色の髪を丁寧に三つ編みにしているところだった。ずれかけた丸眼鏡の奥で、大きな瞳はまだどこか眠たげに瞬いている。
――そうだ。「おはよう」という言葉に一瞬戸惑ったけれど、ここベルヘイヴンは夜間学校。日が沈み、月が空を昇るこの時間が、一日の始まりなのだ。
四年制学園の二年目の二ヶ月目という妙な時期に編入することとなった私は、今日から新生活を迎える。
「初日は緊張するよね。でも安心して。今日は三時間目までで終わりだから、あっという間だよ。もしかしたら、初日ってことで自己紹介があるかもしれないけど、そんなに身構えなくて大丈夫。形式的なものだし」
「自己紹介……」
寝ぼけた頭のまま、私はぽつりと呟いた。
人前で話すのは、昔から苦手だ。みんなの注目を浴びることも、自分のことを口にするのも。雑談すら、どう切り出せばいいのか分からない。
思い返しても、そんな場面が上手くいった記憶なんて、一度だってなかった。
「平気だよ。最初はみんな同じだから」
フィービーは、屈託のない笑顔を向けてくれる。けれど、それだけで「大丈夫」と思えるほど、私はもう単純じゃない。
制服のボタンを一つずつ留めながら、私は心の中で繰り返し唱えていた。目立たず、静かに過ごすこと。誰かと深く関わらないこと。そうすればきっと、誰にも傷つけられずに済む。
あの子は虚言癖の目立ちたがり、そう笑われた前の学校での記憶――あの失敗だけは、もう二度と繰り返したくなかった。
別の寮棟に併設された女子寮の食堂で朝食をとっている間も、どこか空気は張り詰めていた。建物全体がまだ目を覚ましきっていないような、しんとした静けさが漂っている。
生徒たちの視線が、密やかに交錯しては消え、囁き声が波のように立ち上がってはすぐに掻き消えていく。
何人かは、確かに私のことを見ていた気がした。まるで探るような目つきで――いや、そう感じただけかもしれない。勘違いであって欲しいと願いつつも、実際に幾つもの視線と目が合ってしまったことまでは否定出来ない。
食べ終えたトレイを返却口に戻したあとも、私はただ黙って、フィービーの背中にぴたりと寄り添うようにして教室へと向かった。
石造りの渡り廊下には、二人分の足音だけがかすかに響いていた。肌を撫でる空気はひんやりとしていて、それがまるで、この新しい学園での一日の始まりを告げているようだった。
教室に足を踏み入れた瞬間、背筋が自然と伸びた。
濃い木目の机が整然と並び、磨き上げられたハーリキンチェックのタイル床には、窓の格子が淡く映り込んでいる。高い天井から吊るされたシャンデリアが、微かに軋む音を立てていた。
その微かな音に紛れて、教室中の視線が一斉にこちらに注がれる気配がした。思わず足が止まりかける。
……今度こそ、気のせいなんかじゃない。
それでも、何も感じていないふりをして、空いていた最後列の席へと静かに腰を下ろす。少しして、御手洗から帰ってきたフィービーが隣にやってきて、こっそり私の腕を突ついた。
彼女は教室の後ろの方を指さしながら、ひそひそ声で言う。
「ね、ね、あれ見て。左奥のすっごい綺麗な子……あれがカミラ・ブレイロック」
フィービーの指を追って目をやると、まるで雑誌の中から抜け出してきたような少女が目に入った。
柔らかく波打つ完璧なブロンドの巻き髪に、印象的なパープルの瞳。きっちり着ると地味になりがちな制服を、華やかで堂々とした着こなしで纏っている。
動いたわけでも、言葉を発したわけでもないのに、教室の空気がほんの少し緊張したように感じた。それほどに、彼女の存在感は圧倒的だった。
こんな田舎町の学校には、明らかに場違い。周囲の空気ごと塗り替えてしまいそうな、別世界の人間。
フィービーは、彼女と同じクラスになりたかったのだと言う。理由を聞けば、「だってカミラの周りって、いつも面白い噂が飛び交ってるんだもん」と、少し不純な動機を笑いながら打ち明けた。
それでも、カミラがこのベルヘイヴンで、一目置かれる存在だということは、言葉にされるまでもなく伝わってきた。
彼女の周囲には、取り巻くように三人の少女たちが囲んでいる。
「左の黒髪ロングがリナ・シン。頭は切れるけど口が悪いから要注意ね。あのハニーブロンドがジェシー。見た目通りちょっとおバカだけど、けっこう人気者なの。男の子には……だけど。で、隅っこにいるのがネル・サマーズ。カミラに一番こき使われてるかも」
フィービーの囁く声に従って視線を移すと、確かに三人の少女たちがそれぞれ異なる空気を纏いながら、カミラの両隣に座っていた。
なるほど、見事にわかりやすい構図だ。端的に言えば、彼女たちはカミラの取り巻きなのだろう。
フィービーは念を押すように付け加えた。
「あとね、“ブレイクガールズ(イカれた×破壊者×ブレイロックの取り巻き)”ってあだ名があるんだけど……間違っても本人たちの前では言っちゃダメだからね」
思わず「はあ」と相槌を打ちそうになる。そんなあだ名、知ってるだけで面倒な火種になりそうだ。いっそのこと、知らないままの方が良かったんだけど。
その時、カミラの紫の瞳が、不意ににこちらを射抜いたような気がして、私は咄嗟に顔を背けた。
「やば、目が合っちゃった。カミラって気に入らない子は容赦なく潰すって有名なんだよ。気をつけてね」
フィービーの小さな声に、心臓がひやりと冷えた。
転校初日から目をつけられるなんて、そんな最悪なスタートはごめんだ。
そうでなくても、私がこの学校に来た理由そのものが“それ”なのだから。二度目の失敗を犯してしまえば、今度こそ何処にも行き場なんてなくなってしまう。
そんな中、騒がしかった教室の空気が、突如ぴたりと張り詰めた。
本能が先に反応したのか、背筋を冷たいものが這い上がる感覚。足元から忍び寄る、正体の知れない緊張が肌の内側をざわつかせ、呼吸さえ浅くなる。
そして、音もなく扉が開いた。
現れたのは、一人の少年だった。
血のように深い紅の瞳。夜を吸い込んだような漆黒の髪は緩やかに波打ち、整えられた制服の襟元まで一分の隙もない。無駄な動きが一切なく、歩く度に空気が押し戻されるような静かな圧が教室に広がっていく。
その姿には、どこか現実味のない美しさがあった。でも、それ以上に彼の纏う空気が、あまりに異質だった。誰の存在も、何の感情も、まるで最初から持ち合わせていないかのように。
ーールシアン・ド・マルグリーヴ=オグル。
教室に入る前、フィービーが真剣な顔で言っていた名前。
「彼にだけは近づいちゃダメ。絶対に」朗らかな彼女には似つかわしくない、固く沈んだ声が印象に残っていた。
今なら、その言葉の意味がよく分かる。
ただひと目見ただけで、彼がこの学園で最も美しく、最も危険な存在であると、本能が警報を鳴らしていた。
そしてもう一人。
張り詰めた空気を、あっさりと打ち破るように、後ろから赤毛の少年が現れた。
「よっ、アンタ新入りだろ?」
凍りついていた私は、その声にようやく息を吸うことを思い出した。反射的に顔を上げ、赤毛の少年へと視線を向ける。
軽快な声音と、くしゃっとした笑顔。そばかすの浮かぶ顔にはどこか無邪気さがあって、まるで張り詰めた空気など気にも留ない、突き抜けた明るさを纏っていた。
「俺、ベンジャミン・モーリス。ベンって呼んで。みんなそう呼んでるからさ」
私は僅かに目を見開く。そのあまりに場違いな軽快さが、逆に今だけは救いのように感じられたからだ。
息が詰まるようだった教室の空気が、彼の登場によりほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……私、アリス・エヴァリス」
「今日からよろしくな、アリス!」
ベンの声が思った以上に大きくて、私は反射的に身を縮める。
その瞬間、鋭く突き刺さるような視線を感じた。離れた席から、カミラがこちらを窺っている。
まるで何かを品定めするように、印象的な紫の瞳が、私を頭の先からつま先までゆっくりとなぞる。その奥には、明確な敵意が宿っていた。
な、なんで……。私はまだ、何もしていないのに。
教師が教室に入ってきても、その視線は解けなかった。
私は小さく息を呑み、彼女の眼差しから逃れるように目を伏せることしか出来ない。
「では、新学期初めのオリエンテーションを始めます。まずは、今日からこのクラスに加わる方の自己紹介からいきましょう。エヴァリスさん、前へどうぞ」
名前を呼ばれ、私は恐る恐る立ち上がった。教室全体が音を失ったように、しん……と静まり返る。空気の密度が急に濃くなり、肌がひりつくほどの圧を感じる。
頭が真っ白になり、焦りと緊張で途端に歩き方すら分からなくなる。右手と右足が同時に動いて足がもつれ、何もないところで危うく転びかけた。
教室に微かなどよめきが走る中、私はそれを誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべ、なんとか教壇まで辿り着く。
先生の乾いた苦笑いが、胸に痛かった。
それでも、立った。教壇の前に。
クラス中の見知らぬ目、目、目。視線の嵐が一斉に私を貫く。カミラのなぶるような執拗い視線、フィービーの「頑張って」という祈るような眼差し、ベンジャミンの人懐こい好奇心に輝く瞳。
どれも違う重さで、肩にのしかかってくる。その重みに押し潰されそうになりながら、私は震える声を喉の奥から引き摺り出した。
「……あ、エヴァ、いえ……あいす、アリス・エヴァリス、です。よろ、よろしくお願いします……」
一瞬、凍りつくような沈黙が走った。
誰も笑わない。拍手もない。いや、正確に言うならベンだけが、吹き出しかけて口元を押さえているのが視界の端に見えた。……いっそ、さっきみたいにやたら大きな声でツッコんでくれたら、まだ救われたのに。
第一印象が肝心だって分かっていたのに、この始末。胸の奥がじわりと熱くなって、視界が霞みそうになる。穴があったら今すぐにでも入りたいと、本気でそう思った。
登校初日。すでに何度目かの「もう帰りたい」を心の中で繰り返しながら、すごすごと席へ戻ろうとした――その時。
鋭く突き刺さるような視線を感じて、ふと顔を上げる。
深紅の輝きが真っ直ぐに射抜いていた。
血の色にも似たその瞳は、どこまでも冷たく、感情を一切浮かべていない。けれど、ただの空虚な眼差しではない。
その奥底に、得体の知れない“何か”が蠢いている。私の知っている言葉では説明できない、暗くて深い、底の見えない感情。
まるで魂まで見透かされるような錯覚に、呼吸が止まりかけた。
次の瞬間、彼はふっと視線を逸らす。そしてそれきり、二度と私を見ることはなかった。
……でも、私は見てしまった。
視線が逸れるほんの一瞬、青白い眉間に寄った僅かな皺。その瞳の奥に、確かに浮かんだ苛立ちの色を。
――この学園では、絶対に目立ってはいけない。
あれほど自分に言い聞かせていたのに。
心のどこかでもう叶わないのだと、私は気づき始めていた。
夜ご飯を食べ終えて、歯磨きもして、寮の部屋に戻ると、フィービーはベッドに勢いよく飛び込み、そのままもぞもぞとネグリジェに着替えていた。
私は無言で制服を脱ぎ、支給された寝間着にそっと袖を通す。柔らかな布地が肌を撫でても、それすら現実味を帯びてこない。
顔がずっと火照っていて、頭の奥には熱がこもったままだ。冷める気配は、ない。
思い返す度に胸がぎゅっと締めつけられる。自己紹介で、あろうことか自分の名前を噛んだこと。ベンの笑いを堪えていた横顔。教室を包んだ、あの気まずい沈黙。カミラの品定めするような視線。
……全部、全部、最悪だった。
あの数秒の沈黙の中で、教室中の目がこれからの私の扱いを決定した。そんな気がする。
「ああ、こいつはダメそうだ」って、心の中で思われていたような、息苦しい感覚だけが胸に残っていた。
誰かに嗤われたわけじゃない。傷つくような言葉を投げられたわけでもない。最初から期待なんてしていなかった、という無関心にも似た視線。
それが、一番堪えた。
「ねえ、アリス」
向かいのベッドから、フィービーの声がした。
部屋の灯りはすでに落ちていたけれど、その声だけは不思議と感情の色まではっきり届く。
夜の静けさに溶ける、穏やかな音。
「今日は……大変だったね。すごく疲れたと思う。でも、あんなの気にしなくていいよ。誰も本気でアリスのこと悪くなんて思ってない。ほんとだよ」
私は答えなかった。
シーツにくるまったまま、身体を丸める。冷えた布が頬に触れると、少しだけ落ち着く気がした。でもそれだけで、胸の重たさは消えてくれなかった。
「……そうは見えなかったよ」
漏れた声は、自分でも驚くほど小さく、掠れていた。
情けないなって思う。でも、それが今の私で、今更強がってみても無意味だろう。
「みんな、私を変な子だって思ってた。そういう目をしてた。カミラも……先生だって、たぶん」
「ううん、それは違う」
フィービーの声は優しかった。でも、どこかしっかりとした芯があって、思わず耳を澄ませたくなる声。
「アリスがどんな子か、まだ誰も知ろうとはしないかもしれない。今はちょっと不器用な子にしか見えてないかもしれない。でもね、ゆっくり時間をかけてアリスの魅力を分かって貰えばいいんだよ。ちゃんと見てくれてる子だって、きっといるよ。……私もそのひとり」
私は、そっと目を閉じた。
真正面からこんなふうに温かい言葉を向けられるのは、思い返してみても、十五年の人生で初めてのことだった。
正直、この場所に来たことはまだ少し後悔している。
けれど……今こうしてフィービーが傍にいてくれることだけは、後悔したくない。心からそう思った。
「……フィービー、ありがとう」
ぽつりと呟いた私に、フィービーは「おやすみ」と返してくれた。彼女の温かな笑顔が、暗がりの中でも見える気がした。
私は毛布を肩まで引き寄せて、そっと目を閉じる。
夜の静寂が、しんと耳に染み込んでくる。誰も喋らず、何も動かない。けれど、どこか優しい気配だけが、静かに流れていた。
(この部屋の横に配管が集まってるから、寝る時だけはちょっとだけ煩いかも)
(変な音がしても、基本的には友好的な子たちだから)
フィービーの言葉をふと思い出す。子たち――それは、この学園に住み着いているというドワーフのことだろうか。
そういえば、寮を案内してくれた職員のマチルダも言っていた。「この通路、“ドワーフの通い路”なんですよ」って。冗談に聞こえたけれど、今思えば、あれは本気だったのかもしれない。
部屋は最上階なのに、時折天井の奥から、小さな足音のようなものが聞こえてくる。壁の裏側を、何かが行き来している気配さえある。気にしようと思えば気になるけれど、何故だか不思議と怖くはなかった。
少なくとも、フィービーのように“普通は視えない存在”を知っている人がいる。それだけで、私は気が楽になった。
だけどーー。
今、窓の外から感じる気配は、そんなのとはまるで違う。
ピシ……と、乾いた音がガラスを伝う。反射的に身を起こし、窓の方に目をやった。カーテンが微かに揺れている。風なんてないのに。
そして、その向こう。
闇の中に、爛々と輝く赤い光が二つ。
(私を、見てるの……?)
ぞわりと背筋を冷たいものが這い上がる。心臓の鼓動がやけに耳の奥に響いて、自分の息遣いすら邪魔に思えるほど。
朝の情景が脳裏を過ぎる。あの駅のホームの片隅。季節外れの白いワンピースを着たあの女の子。
まさか、あの子をここまで連れてきてしまった……?
信じたくない。けれど、この胸を掴んで離さない圧のような存在感は、確かにそこにあった。
それは、この世の理屈では説明できない何か。
そして、私にしか視えない何か。
結局私はどこに行っても、普通になれないんだ。
ぎゅっと目を閉じて、深く息を吐く。
もう一度、恐る恐る目を開けて窓を見た時には──そこには、もう何もいなかった。
ただの暗闇。月の光さえ怖気づいて、どこか遠くへ引っ込んでしまったみたいに。窓の外は深い黒に沈んでいた。
「……アリス? どうかした?」
フィービーの声が、向かいのベッドから聞こえた。眠たげなその声にほっとする。
でも、これ以上心配をかけたくなかった。私は「大丈夫」とだけ呟いて、カーテンをぴしゃりと締め、毛布を頭の上まで引き寄せる。
胸元のペンダントをぎゅっと握った。冷たい金属の感触が、かろうじて現実に自分を繋ぎとめてくれているような気がした。
――この学園には、“何か”がいる。
それはきっと、私が思い描くような単純な存在ではない。もっと複雑で、もっと根深く、そして厄介なもの。それが私を見ている。まるで……監視するように。
重く沈んだ夜の底で、私は誰にも言えない不安を抱えながら、ただひたすらに、朝の光を待ち続けた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第2話では、アリスの登校初日が描かれました。
自己紹介という最初の関門で躓き、クラスメイトからの視線に傷つくアリス。
彼女にとって決して優しい一日ではありませんでしたが、ルームメイトのフィービーという心強い味方との出会いは、確かな救いだったと思います。
けれど、ただの“学園生活”で終わらないのがこの学園。
窓の外に潜む“何か”の気配に、アリス自身も気づき始めます。
誰にも共有できない違和感、ふと感じる視線、拭えない恐れ——。その正体を、アリスと共に少しずつ紐解いていっていただけたら嬉しいです。
次回第3話では、クラスメイトたちの口から語られる「ある噂話」が物語に影を落とします。
アリスの前にROOM E3-13にいた女子生徒の謎、そして“ノクタリア”と呼ばれる異質な存在——。
少しずつ、学園の裏側が顔を覗かせ始める回となりますので、よろしければ、次回もぜひお付き合いください。
※イラストは自分で描いています。




