第20話 灯りの消えない店
花輪は、昨日より低くなっていた。
積もった雪の重みで枝が垂れ、ヌマールの名札が半分隠れている。私は軒下の空き瓶を箱へ詰めながら、その隣に妙な膨らみがあることに気づいた。
外套の襟から、犬の耳が出ていた。
「ブルーノさん」
肩を揺すると、耳だけが動いた。
「ようこそ、ローデンへ……」
「もう着いてます。起きてください」
ルルが箒を持って出てきた。二人で声をかけると、ブルーノはようやく顔を上げた。外套の肩に落ちた雪を払い、店の扉を見る。
「まだ開いとらんのか」
「開店まで、あと三十分あります」
「早く来すぎたで、ちょっと座っとった」
「座るのと寝るのは違います」
昨日はミケーラに連れて帰られたはずなのに、もう来ていた。私は先に中へ入ってもらい、槍を預かって番号札を渡した。濡れた外套はルルが受け取った。
店内には祝いの紙飾りが残り、洗い終えたグラスが布の上に並んでいた。ヘルガはいつもと同じ鍋で、いつもと同じ豆を煮ている。
「水なら出してやんな。酒は開店してからだよ」
私は外のランプへ油を足した。火を覆うガラスについた曇りを拭くと、背後で空き瓶が鳴った。
ハンスが箱を持ち上げていた。
「これで全部ですか」
「まだ中に一箱。昨日はありがとうございました」
「今日は、運ぶ分だけにしておきます」
私は笑って、二つ目の箱を取りに戻った。
開店すると、ブルーノは水のグラスを脇へ寄せた。
「今日は薄くしてちょーよ」
「昨日も、途中からそう言ってましたよ」
「今日は最初からだわ」
ハンスも仕事を終えて席へ着き、一杯だけ飲んでいくことにした。私は昨日の会計をまとめた帳面を、カウンターの下へしまった。
その直後に、入口の鈴が鳴った。
ホネさんが、寄せ書きのバケツを下げて立っていた。
私はバケツを受け取り、兜と引き換えに番号札を渡す。いつもの席へ向かう背中を、ブルーノが目で追った。
「何で、おるんだ」
「飲みに来た」
「王都は?」
「断った」
ハンスがグラスを置いた。
「もうお返事を出したんですか」
「今日、ギルドへ持っていった」
ヘルガは火酒を注ぎ、ホネさんの前へ置いた。私は足元へバケツを収める。グンナルに直してもらった底は、床の上でがたつかなかった。
「三倍だぞ」
ブルーノが指を三本立てた。
「住むとこまで、あるんだろ」
「遠い」
「だから、向こうに住むんだわ」
「ここまで通えん」
ブルーノは三本の指を開きかけ、そのまま掌で顔を撫でた。
「仕事場じゃなくて、酒場への通勤か」
「毎日は無理だ」
「毎日来る前提で考えるな」
ルルがホネさんへおしぼりを渡した。彼は骨の指を一本ずつ拭き、畳んで皿へ戻す。
私は帳面をもう一度出した。
「では、先に払ってくださった方から、お返ししますね」
「ほらみろ。幹事がまた忙しくなる」
ブルーノが言うと、ハンスは首を振った。
「すぐ済みますよ」
私が小袋から銀貨を出すと、ブルーノは手を伸ばした。
「バケツはどうするんだ。返してもらうのか」
「俺のバケツだ」
「字は、みんなで書いたんだぞ」
ホネさんは足元を見た。
「字だけ返すのか」
「削ったら、穴が開きますよ」
ルルが言うと、ブルーノは受け取った銀貨を握ったまま黙った。
ハンスは帳面の人数を数え、私が返した分へ印をつけた。
「じゃあ、あいつはごちそうになって、バケツまできれいになっただけか」
「まだ行くとは言っていなかった」
ホネさんは火酒を飲んだ。
ブルーノが何か言いかけたが、酒の落ちる音に遮られた。寄せ書きの文字が、カウンターの下で見え隠れしている。
「俺の『王都でも元気で』は、どうなる」
「元気でいる」
ホネさんは空のグラスを置いた。
ブルーノは返してもらった銀貨を財布へしまった。
ルルがボトル棚を拭いていると、ブルーノがその手元を見上げた。
「あれ、昨日の瓶か」
古い瓶は、最上段ではなく、手の届く棚に置かれていた。瓶口には新しい栓がしてあり、首から白い木札が下がっている。
ルルが瓶を元へ戻すと、札がこちらを向いた。
テオ。
ブルーノが目を細め、声に出して読んだ。
「誰だ?」
「俺だ」
ホネさんが答えた。
「お前、名前があったんか」
「ある」
「昔のことは覚えとらんって、言っとっただろ」
「ゆうべ、帰りがけにヘルガから教わった」
「何で先に言わんかった」
「今、言った」
ブルーノは私を見た。私は首を振った。
「じゃあ、これからはテオさんってお呼びした方がいいですか」
ルルが尋ねると、ホネさんは少し考えた。
「どちらでも分かる」
「ホネさんの方が、間違えようがないですね」
ハンスが言った。ブルーノは、もう一度木札を見ている。
「そりゃそうだけどなあ。名前があるなら、寄せ書きも」
「書き直さなくていい」
ホネさんは先に言った。
ヘルガは古い瓶の向きを少し直し、隣の火酒を取った。ホネさんがそちらへグラスを寄せる。
「今日は、いつものかい」
「ああ」
火酒が注がれるのを待つ間に、彼の顔が壁へ向いた。
「ツケの貼り紙が変わっている」
私は振り返った。
長いこと貼ってあった紙が、新しくなっていた。前は「ツケは生きて帰る方のみ」。今は「ツケは、帰ってくる方のみ」と書いてある。
「ママ、いつ替えたんですか」
「今朝。端が破れてたからね」
ホネさんは文字を確かめ、自分の前のグラスを見た。
「俺も、ツケにできるのか」
「昔の分を払いな」
ヘルガは瓶の栓を閉めた。
ホネさんが腰の袋へ手をやり、硬貨を取り出す。骨の指でつまみ損ねた一枚が転がったので、私は布巾で受け止めた。
「これは、今夜の分だ」
「分かってるよ」
ブルーノが自分の財布を覗いた。
「帰ってくるなら、俺も」
「あんたは先月の分」
財布が閉じた。
ハンスは水割りを飲み終え、現金をカウンターへ置いた。
客の途切れたところで、私は返金の小袋を勘定箱へ戻した。
ルルが洗ったグラスを拭いている。私は棚の空いたところを詰めようとして、見覚えのない一本に手を止めた。
細身の瓶だった。普段、私が薄くして飲む酒と同じ銘柄で、封は切られていない。
「ママ、これも昨日のお祝いですか」
「それは、あんたの」
「私の?」
首に掛かった札は、壁の方を向いていた。何気なく瓶を回すと、そこには私の本名が書かれていた。
私は札を握り、慌てて裏返した。紐がねじれて表へ戻りかけたので、瓶ごと胸へ引き寄せる。
「何で知ってるんですか」
ヘルガは鍋をかき混ぜていた。
「何を」
「名前です。あのときの、覚えてたんですか」
「光の板を閉じるのが遅いんだよ」
私は口を開けたまま、瓶を持ち直した。
雪の夜、出し方だけ教わった光の板を、何度指で払っても消せなかった。ヘルガは向かい側に座っていたけれど、チーママという職業の方を気にしていた。名前の欄まで覚えているとは思わなかった。
「……一度見ただけなのに?」
「あんなに長く出しといて、一度も二度もないだろ」
「忘れてくれてもいいでしょう」
「忘れたら、札が書けないよ」
ブルーノが椅子から腰を浮かせた。
「ミナミって、本名じゃないんか」
「ここではミナミです」
「今の札、見せてちょーよ」
「見せません」
私が瓶を背中側へ隠すと、ブルーノは反対から見ようと首を伸ばした。ルルがすっと間へ入り、水差しを持ち上げる。
「お水、いかがですか」
「今はいい」
「お代わりのお酒も、お水を足すんですよね」
ブルーノがグラスを引き寄せた隙に、私は札の紐をほどいた。
ルルもこちらを見たが、顔を寄せてはこなかった。
「ミナミさんのボトル、そこへ置くんですか」
「うん。札は壁の方で」
「分かりました」
名前の面を壁へ向けて札を結び直し、瓶を棚へ戻す。手を離す前に、もう一度向きを確かめた。
「それで、この酒代は?」
「一周年だろ」
ヘルガが言った。
「給金から引かないですよね」
「そんなに払いたいなら、勘定つけようか」
「いただきます」
私はすぐに答えた。
ブルーノが、今度はホネさんへ顔を寄せた。
「見えたか」
「見ていない」
「お前の席からなら」
「お触り禁止ですからね。ボトルも」
私が壁を指すと、ブルーノは両手をカウンターへ置いた。
「見るのも駄目とは書いてないだろ」
「書き足しましょうか」
ルルがペンを持ってきた。
ヘルガは笑いながら、棚から私の瓶を取った。
「一本入ったんだから、最初の一杯くらい飲みな」
私がグラスを出すと、ヘルガは封を切って酒を注いだ。水と氷も、いつもの濃さだった。
ブルーノが自分のグラスを上げる。
「本名が分かった記念に」
「分かってないでしょう」
「じゃあ、ボトルが入った記念だわ」
私は笑ってグラスを持ち上げ、ひと口飲んだ。
ヘルガが瓶を戻す前に、札をそっと壁側へ向けた。
閉店の時刻になると、ブルーノは外套を羽織り、財布をもう一度確かめた。
「返してもらった銀貨、もうないわ」
「お代わりしましたからね」
私は預かっていた槍を返した。ルルが入口の雪を掃き、扉を押さえる。
「いってらっしゃい」
ヘルガの声を聞いて、ブルーノが外へ出た。
最後にホネさんへ兜を返し、寄せ書きのバケツを渡した。彼は取っ手の布を握り、敷居をまたいだところで振り返った。
「いってきます」
外からブルーノの声がした。
「毎晩帰ってくる気か!」




