第31章 製作(2)
第31章 製作(2)
夕方近くになり、アパートの古いドアベルが短く乾いた音を響かせ、カッターナイフを握りしめていた茜の集中を強引に切断した。
茜はインターネットで注文しておいた、表紙用の厚手の色画用紙のサンプルを運んできた宅配便の配達員だろうと思い、たたきに向かって歩みを進めた。しかし、木製のドアを内側から引き絞るようにして開けると、そこに直立していたのは、私服姿のまま大きめのコンビニのポリ袋を大事そうに抱えた大人の女性だった。結衣ちゃんだった。
「結衣さん……? どうして、こんな場所にわざわざ?」
茜は驚きのあまり、細い眉をひそめて訊ねた。
「あんたの脳細胞のエネルギーを回復するために、温かい食べ物の差し入れを運んできただけよ」
結衣ちゃんは至って冷静に、いつもの落ち着いたトーンで淡々と答えた。
茜はその袋の隙間から覗く、無機質なプラスチック容器の輪郭を見つめた。
「どうして、そんなに気を使ってまで、私の部屋に持ってきてくれたんですか?」
「だって、今日の開店前のカウンターの裏で、あんた自身がとても力強く宣言していたでしょう? 今日からの休暇のクロックは、すべて自分の小説を物質化するための初期段階の実験にロックするって。あんたのロジックがそう告げていたものだから、気になってね」
結衣ちゃんは細い指先を動かし、かけていた眼鏡のフレームを軽く押し上げた。
茜は何度も瞬きを繰り返しながら、自らの記憶の階層を必死に巻き戻してみた。
「私……そんな大げさなセリフ、本当に結衣さんの前で吐き出していましたっけ?」
結衣ちゃんの唇の端に、知的な、しかし温かい微笑みが浮かんだ。
「あんたの無意識のシステムが、勝手にログを残していたのよ」
彼女は狭いたたきでするりと靴を脱ぐと、許可を求める官僚的な手続きなど一切無視して、四畳半の室内へと一歩を踏み込んだ。しかし、畳の上に自らの足を二歩ほど滑らせた瞬間、結衣ちゃんの身体の動きが、まるで舞台の幕が下りたかのようにピタリと凍りついた。彼女の一対の瞳が、眼前に広がる不格好な室内のレイアウトを一瞬でなぞり、激しい動揺を映し出す。
白い裏紙の山が、何の規律も持たないまま畳の上のあらゆる方向へと散乱していた。カッターの切り方が歪んだ失敗作が床の上に何枚も放置され、ノートパソコンは青白い光を放ったまま立ち上がり、金属製の長い定規が寝具のフートンの真ん中に無骨に転がり、そしてハサミの刃が、まだ整えられていない枕のすぐ脇に寂しげに晒されていた。
結衣ちゃんは首を九十度巡らせ、茜の血の気の引いた青白い顔をじっと凝視した。
「あんた……今朝から闘いを始めたばかりだっていうのに、どうして数時間のクロックで、自分のプライベートな部屋をこれほど完璧な戦場に変形させることができるわけ?」
「……ええと、その。物質としての具体的な手順が、私の頭の中のスケジュールを遙かに越えて、完全に暴走しちゃったんです」
茜は痒くもない蟀谷を不器用な指先で掻きながら、気まずそうな笑みを浮かべて項垂れるしかなかった。
結衣ちゃんは堪えきれずに、クスクスと美しい笑い声を室内の静寂に響かせ、張り詰めていた空気の緊張を優しく解きほぐした。
「まあ、ここまでの混沌を積み上げてしまったなら、まずは一度テーブルを挟んで座りなさい。温かいインクの代わりに、このスープで胃袋を満たした方が合理的よ」
茜は両手のひらを使って、少し冷え切っていたそのポリ袋の手触りを受け取り、中に満ちている確かな熱量を肌で感じた。
「ありがとうございます、結衣さん。本当に助かります」
結衣ちゃんはしなやかに身体を沈めると、畳の上に直接膝をつき、床の上に散らばっていた白い紙の山を、一枚ずつ丁寧な所作で拾い集め始めた。
「このバラバラの原稿の束は、ページの丁合いの順番は正確に揃っているの?」
「あ、はい。そこの結衣さんの足元にあるブロックは、ノンブルの確認ログがすべて完了しているやつです」
「だったら、それらは安全な別の階層に隔離しておきなさい。そこにある、切り方を間違えたゴミの山と混ざってしまったら、また最初から処理をやり直す羽目になるわよ」
「はい、分かりました」
結衣ちゃんはテーブルの上の、カッターの裁断ラインが歪んだ試作品の束を冷徹に見つめ、それから小さく溜息をついた。
「あんたの片付けのシステムを見ていると、一人の観測者として言わせてもらうけれど、書類の効率的な分類の手順を、あんたの頭の神経はまだ何一つ理解できていないようね」
茜は唇の端に、降伏のポーズとしての小さな苦笑を浮かべるしかなかった。
「少し……製本の面付けの手続きで、内部エラーを起こしていただけです、結衣さん」
夜の帳がさらにその深度を増し、ビジネス街の喧騒が完全に冷え切る頃、アパートの古い木製ドアは、本日二度目の乱暴なノックの音によって強引に叩き切られた。
たたきをすり抜けて、台風のような勢いで室内へと滑り込んできたのは、しおりちゃんだった。
ショートヘアの少女は、自らの両手の中に、コンビニのポリ袋などとは比べ物にならないほどに分厚くて巨大な、大手のハンバーガーショップの紙袋を大事そうに抱え込んでいた。
「私も、自分の胃袋の生存本能に従って、新しい救援の物資を運んできたよ、茜ちゃん!」
しおりちゃんはいつも通りの、嘘のない満面の笑顔の記号を室内に弾けさせた。
茜はその巨大な紙袋の容積を睨みつけ、驚いて眉をひそめた。
「しおりちゃん、ちょっと聞かせて。どうしてこんな真夜中に、そんな大量の炭水化物の塊を抱え込んで現れるわけ?」
「だって、私の胃袋の細胞がさ、今夜はどうしても濃厚な脂分を摂取しなきゃ絶滅しちゃうって、激しいシグナルを脳に送ってきてるんだもん!」
しおりちゃんは何の遠慮もない平然としたトーンで即答した。
「その大量のポテトやバーガーの山は、すべてあんた一人の肉体のために発注された変数なわけ?」
しおりちゃんは当然のように、何度も首を縦に振ってみせた。
「もちろん! これが私の標準的な一食分の分量だから!」
「だったらさ、どうしてそれを自分の部屋で一人で平らげずに、わざわざ私の四畳半のスペースまで持ち込んできたのよ。論理的な意味が分からないわ」
茜の知性のロジックは、同僚のあまりにも不条理な行動パターンの前で、完全にギヤを狂わされていた。
しおりちゃんはポテトの端を一本齧りながら、至って無垢な、罪の意識ゼロの顔で言い放った。
「だってさあ、自分の冷え切ったアパートの部屋で、一人ぼっちでこんな美味いものを貪り食っていたら、私の精神のシステムが『寂しい病』を発症しちゃうじゃん。誰も私の食事の動線に付き合ってくれないなんて、娯楽としては最悪のバグだよ、茜ちゃん」
茜は完全に絶句し、その野生の屁理屈を真っ正面から論破するための、まともな言葉を喉の奥からひねり出すことができなかった。ただの、不格好な沈黙が彼女を包む。夕方からずっと部屋の隅の定位置を陣取っていた結衣ちゃんは、その会話のやり取りを見つめながら、楽しそうに、しかし呆れたように首を振って微笑を浮かべていた。
しおりちゃんは自分の言葉の処理が終わると、すぐに全神経のベクトルを、テーブルの上に散乱しているあの白い紙の怪物の残骸へと移動させた。彼女は細い右手を伸ばすと、第十三話の、あの茜が夜明けまで悩み抜いて完成させた上書き保存の原稿を一枚掴み上げ、まるで老獪な文芸批評家のような真面目な顔をして、ランダムにページを裏返し始めた。
「ねえ、茜ちゃん。このカバーの端っこが斜めに曲がっている試作品は、もう本屋さんの棚に並ぶ本物の文庫本に変形しちゃったの?」
しおりちゃんは一対の目を細めながら訊ねてきた。
「まさか、まだ終わってないわよ」
茜は短く答えた。
「じゃあ、こっちの厚っ苦しい色画用紙の束のステータスは?」
「それも、まだただの素材の段階よ」
「じゃあじゃあ、こっちの枕元にぽつんと置いてある、このハサミの横の紙片は?」
「そこにあるコンポーネント(部品)のすべてが、まだ何一つ完成のログに到達してないのよ、しおりちゃん」
しおりちゃんは手元にある何百枚もの不格好な紙の残骸を、長い長い沈黙の中でじっと見つめ、その製本という工芸の恐るべき複雑さを、自らのシンプルな脳の構造でなんとか咀嚼しようと試みた。
次の瞬間、彼女は顔を上げ、文学理論の重みなど爪の先ほども含まれていない、至って日常的なトーンでこう言った。
「液晶画面の文字を読むことならさ、私の頭の神経にとっては、そんなに面倒なパズルじゃないんだけどね」
ショートヘアの少女は、裁断ラインが歪んだ試作ページを力強く空へと掲げてみせた。
「このバラバラの原稿の丁合いを、手作業で一枚ずつノンブル通りに揃えてあげることだって、私の毎日のルーティンからすれば、そんなに不格好な宿題じゃないよ」
彼女の一対の瞳が、四畳半の戦場のような床のレイアウトをダイナミックに一瞥した。
「だけどさ……このお部屋の中の紙の反乱を見てたら、どうしてこの四畳半の空間には、天井から急に美味いハンバーガーの皿がタダで降ってくるような、そんな都合のいい魔法のシステムが用意されてないのかな。私の胃袋の生存本能がさ、今すぐ栄養を補給しろって暴動を起こしてるんだよ」
結衣ちゃんが不意に首を巡らせ、そのショートヘアの頭に向かって、冷淡で硬質な視線を走らせた。
「しおりちゃん、音量を落としなさい。他人のプライベートな部屋の中で、そんな不作法な我が儘ログを響かせるんじゃないの」
しおりちゃんは一瞬にして両方の頬を不満そうに膨らませ、身をすくめてみせた。
「だって、私の胃袋の残高の数値は、完全に餓死寸前のレッドラインに突入してるんですよ、結衣さん!」
台所の狭いスペースの境界線に立ち尽くしていた茜は、そのしおりちゃんの一連の野生の所作をじっと見つめながら、彼女が決して世界の複雑なシステムや製本の壁に足を取られることなく、ただ自らの純粋な生存の動機だけで動いているそのあり方を、愛おしむようにして胸の奥で反芻していた。
茜の青白い顔に、今度は本物の、これ以上なく温かい笑みが浮かび上がった。
「……しおりちゃんは、本当に出会った最初の日から今この瞬間まで、一ミリもその不器用な本質を変えないのね」
茜の声は低く、しかし自らの内面的な基準に満ち足りた平和な響きを湛えていた。
結衣ちゃんも胸の奥から小さく笑い声を漏らし、その頑なな防波堤を取り払って降伏した。目の前で二人の大人が優しく笑い出したのを見て、しおりちゃんも安心したように、唇の端にパッと弾けるような、何の罪の意識もない満面の笑顔を咲かせたのだった。




