I スタンピードの戦場
かつて栄華を誇ったローゼンブルク王国の頭上には、いまや見る影もない、血の混じった泥水のような空が広がっていた。
低く垂れ込めた黒雲の裂け目から、魔術の残光と剥き出しの爆炎が、断続的に地表を焼き焦がしていく。
地鳴りは、もう長いこと止んでいなかった。
遠方から届く爆砕音は、ある時は重く尾を引き、またある時は家々の窓ガラスを鋭く震わせるだけの、無機質な不協和音となって響き渡る。街の空を象徴していた渡り鳥の姿は、とっくの昔にどこかへ消え失せていた。あとに残されたのは、ただ熱を孕んだ風に煽られ、雪のように静かに降り積もる無数の灰だけだ。
数秒おきに奔る震動が、足元の石床だけでなく、人間の内臓を直接掴んで不快に揺さぶるような生理的な嫌悪感を伴う。
地面が大きく傾くたび、乾燥した城壁の端から古い漆喰が剥がれ落ち、小石が跳ねた。まともに立っていることすら困難なその揺れは、世界がその終焉を前にして上げる悲鳴そのものだった。
やがて、その震動に混ざって、獣たちの咆哮が届き始める。
一つ、また一つと重なり合った声は、数十、数百の濁流となり、やがて一切の境界を失って大気を支配した。地を這うような唸り、空を裂くような怪鳥の叫び。それらの悍ましい残響が、確実に、そして逃げ場のない速度でこちらの拠点へと近づいてくる。
百年ぶりの大氾濫スタンピード。
ギルドの地下資料室、カビ臭い空気の中で埃をかぶっていた古文書の記述が、いま最悪のタイミングと最悪の形で現実のものとなろうとしていた。それは英雄譚に描かれるような高潔な戦いなどではなく、ただの圧倒的な暴力による蹂躙に過ぎない。
冒険者ギルドの前庭に広がっていたのは、文字通りの地獄絵図だった。
いくつかの建物から黒煙が立ち上り、土を踏み荒らされた地面には、魔術の炸裂痕と、へし折れた鋼鉄の武器が散乱している。まだ片付ける余裕すらない魔獣の巨躯が転がるその隙間で、男たちはただ生き延びるためだけに、見苦しく武器を振り回していた。
つい数日前まで酒場で安酒を煽り、大口を叩いていた自称一流の戦士が、泥と脂汗にまみれた鎧をきしませてオルクの巨体に斬りかかる。刃が怪物の肉厚な肩に食い込み、その巨躯がよろめいた。だが、彼が勝利の安堵を覚えるよりも早く、死角から別の個体が容赦なく巨大な戦斧を振り下ろす。
金属同士が激しく噛み合う甲高い音が、戦場に響いた。
その後方では、泣き出しそうな顔をした新米の魔術師たちが、震える指先で呪文を唱え続けている。放たれた火球や氷の槍が前方の群れをいくら薙ぎ払おうとも、絶命した獣の背後からは、それを踏みつぶしてさらに新たな影が這い出てくる。
彼らの数には、まるで最初から限界など存在しないかのようだった。
「北門の防衛線が突破された!」
喉の粘膜を焼き切らんばかりの叫び声が、喧騒を圧して響き渡る。
「退け! 早く退がれ!」
前線にいた何人かの冒険者が、傷ついた仲間を抱えながら後退を始めた。しかし、残された者たちは、これ以上の侵入を許せば背後の市街がどうなるかを理解しているがゆえに、退路を断って化け物の前に立ちはだかり続ける。
その時、頭上を掠めるようにして、一頭のワイバーンが低空を滑空した。
巨大な翼が巻き起こした突風が、視界を最悪の砂嵐で満たす。
周囲の誰もが目を細めたその一瞬、怪物の長い尾が、文字通り鞭のようにしなって指揮官の身体を真横から叩き潰した。
彼の身体は数メートルも吹き飛び、石造りの防壁に衝突して不快な濁音を立てる。男は、二度と動かなかった。
悲鳴が、あちこちで同時に沸き上がった。
辛うじて形を保っていた人間の防衛線が、その一撃を境に瓦解を始める。
混沌がすべてを塗りつぶしていく中で、頑強さだけが取り柄だったギルドの総本部も、いよいよその限界を迎えていた。
天井を支えていた重厚な大理石の柱に、不吉な亀裂が走る。最初は細い一本の線に過ぎなかったそれは、蜘蛛の巣のように瞬く間に広がり、梁を伝って天井へと達した。
石と石が擦れ合う、鈍い軋み音。
直後、一本の支柱が派手な断頭音を立てて崩落した。
人間の胴体ほどもある大理石の塊が容赦なく一階の床へ降り注ぎ、受付カウンターを木っ端微塵に粉砕する。いつもなら、ふんぞり返った冒険者たちが「もっと実入りのいい依頼を寄こせ」だの「受付の対応が気に入らない」だの、低俗な無理難題を喚き散らしていた場所だ。かつては傲慢な欲望が渦巻いていたその空間が、今ではただの無機質な瓦礫の山に過ぎない。壁際に並んでいた書類棚も一瞬で押しつぶされ、未処理の報告書が、埃の霧の中に深く埋もれていった。
室内には息もできないほどの灰塵が立ち込め、視界を白く濁らせていく。
何人かの職員は、すでに使い物にならなくなった通用口から外へと逃げ出していた。残ったわずかな者たちも、瓦礫の下から聞こえる悲鳴に顔を青ざめさせ、必死に岩を退けようと爪を血に染めている。
建物はまだ辛うじてその形を保っていたが、地響きが走るたびに、壁のあちこちから不吉な崩落の予兆が聞こえていた。
半壊した二階の窓辺に、シーナはただ一人、静かに立ち尽くしていた。
枠から外れかけたガラスの隙間から、熱を孕んだ灰混じりの風が吹き込み、彼女の長い髪を乱暴に掻き乱していく。
彼女の机の上には、整然と並んでいたはずの未処理の書類が散らばっていた。期限を数週間も過ぎてなお提出されない遠征報告書、あちこちがコーヒーのシミで汚れた請求書の束。ひっくり返ったインク瓶から溢れた黒い液体が、それらの紙切れを容赦なく汚していく。
いつもなら彼女が肌身離さず持っていたはずの事務用の木製スタンプは、傾いたデスクの端から滑り落ち、ドアのすぐ近くまで虚しく転がっていった。
シーナは、そのすべてを一顧だにしなかった。
彼女の冷ややかな視線は、ただ割れた窓の向こう側へと固定されている。
そこには、無様に汚泥にまみれて化け物に踏みつぶされていく冒険者たちの姿があり、阿鼻叫喚の中で駆けずり回る衛生兵の姿があり、そして街を埋め尽くしていく獣の濁流があった。
救いを求める悲鳴が、折り重なるようにして耳を劈く。
鋼鉄と牙がぶつかり合う不快な金属音は、一瞬たりとも途切れることがない。
時折、再び大きな地鳴りが走るたびに、シーナが寄りかかっている窓枠が、ギチギチと軋んだ音を立てて彼女の身体を揺らした。
彼女は、肺の底に溜まっていた重く淀んだ空気をすべて吐き出すように、深く、長い溜息をついた。
吸い込んだ空気は、喉を焼くほどに熱く、焦げた匂いと血の生臭さに満ちていた。
それなのに、崩壊していくローゼンブルクという圧倒的な終末を前にして、シーナの乾燥してひび割れた唇は、自然と緩やかな弧を描いていた。
それは、決して事態の好転を信じるような、希望に満ちた微笑などではない。
長年、彼女の未熟な肩を執拗に圧迫し続けていた「社会」という名の目に見えない重荷。それが、この理不尽な崩壊の渦に巻き込まれてようやく綺麗さっぱり消え去ろうとしていることに気付いた者だけの、酷く疲弊した、しかし絶対的な解放の証明だった。




