第5章 叡智の結晶【1】
『愛してるわ、――。あなたが何者でも、何者でなくても』
甘ったるい声に目を開く。声とは裏腹な重苦しい影が覗き込んでいた。アルクスを見つめる瞳は、愛情と憎悪の入り混じった色をしている。
「悪いな。私は愛を欲していないんだ」
その言葉を拒絶するように影が歪む。辺りに充満する芳香は、狂わせんとばかりに鼻を突いた。
「その愛は、必要としている者に与えるといい」
この影の正体は判然としない。だが、アルクスにとって脅威とはなり得なかった。
『いいえ、あなたは愛を欲している』
白く開いただけの瞳から、鮮血を示す赤い涙が零れ落ちる。肺を重くするような訴えは、再びの拒絶を恐れていた。
「そういう時期があったことは否定しない。だが、いまの私は違う」
アルクスにはそれだけの自信がある。こんなまやかしに潰されるほど脆弱ではない。
「我が名はエヴム・イモータリス。私に愛などという不確かなものは意味を為さないのだよ」
厄災の魔王の名は伊達ではない。いまさら、こんな脅しは通用しない。
『あなたは逃げられない』
「逃げる? この私が、何から」
影が揺れる。たとえ小さな傀儡だとしても、怯える必要はない。
「さっさと消えてくれ。鬱陶しい。私には、もう関係ないのだよ」
軽く手を振れば、蝋燭の火が消えるように影が掻き消える。アルクスには、この場に留まる意味はなかった。
* * *
アルクスとラプトールが小さな村ルーメンに降り立ってから数週間。ホープの能力により蘇った泉は美しい水を供給し続け、畑では作物が順調に育っていた。泉にホープの魔力が注がれたことで、泉からの水は畑の養分にもなっているようだった。アルクスがいままで見て来たどの畑よりも育成が早いように見えた。
「王室はスクリプトールがここにいると目星を付けたんでしょうか」
ラプトールが静かに言う。畑を眺めながら、どうだろうな、とアルクスは呟く。
「各地に送り込んでいるのだろうが、辺境にいると想定しているのかもしれん」
「王室はなぜスクリプトールを追っているんでしょう」
「この『世界樹の庭』において、世界王の予定調和は絶対的な秩序。その秩序を乱した事実を隠蔽するためだろう」
ソル・フォルマ王国は世界王の予定調和を予測し、この小さな傀儡を用意することでそれを覆した。世界王の予定調和を崩すことは、ただの人間には不可能である。まず世界王の予定調和に対抗しようと考える人間はいないだろう。
「スクリプトールを処分すれば、その事実を隠し通すことができる。世界王の予定調和に背いた罪は重い」
「ですが、だからと言ってダフニス王を支持する理由もないのでは?」
アルクスは小さく息をつき、肩をすくめる。
「それとこれとは話が別だろうな。王の暗殺は国にとって軽くない」
世界王がそう取り決めたなら、ダフニス王の暗殺はこの世界にとって必要なことだった。それでも、国に王が必要であることに変わりはない。
「実際、世界王の予定調和に背いたせいで王宮では聖騎士星団も魔法隊も壊滅している。下手したら国が傾くだろう。その点においては世界王を支持できない。ダフニス王は良い王ではないが、王は国を存続させるために必要な存在だ」
「難しい問題ですね。ダフニス王が良き王であったなら話は変わったのでしょうね」
「良き王であれば、世界王もダフニス王の暗殺を目論むこともなかったはずだ。ミセル大陸において、ダフニス王の存在は歓迎できたものではないのだよ」
スクリプトールの存在が世界王の予定調和を崩したが、ダフニス王はそのきっかけである。ソル・フォルマ王国が暗殺を感知したことでスクリプトールが用意された。ダフニス王の暗殺計画のおかげでこの傀儡に宿ることができたと考えると、アルクスには感謝できる部分もあるように感じられた。
「なんだか難しい顔をしているのね」
穏やかな声に振り向くと、ウォーカーが歩み寄って来るところだった。
「ごきげんよう、王様、ラプトールさん」
「ああ。ウォーカー、ソル・フォルマ王国は小国への進軍を推し進めていたな」
アルクスの問いに、ウォーカーはそれまでの柔和な表情を消す。
「ええ。ダフニス王は周囲の小国に侵略して、領地の拡大を目論んでいたわ。それも、隣国の進軍でほとんどが奪還。ダフニス王の思惑通りにはならなかったわ」
ソル・フォルマ王国は強国だ。小さな国がその軍事力に勝ることはほぼ不可能だろう。民にとっては隣国が救世主のようなものだったのかもしれない。
「小国への侵攻がダフニス王の暗殺に繋がったのかもしれないわね」
「そうだな。ダフニス王は独裁的だ」
「ええ。ダフニス王はあまりに傲慢すぎる。小国を攻めて隣国に壊滅させられるなんて情けないわ」
「どこで誰が聞いているかわからないぞ」
呆れた表情で言うアルクスに、ウォーカーは軽く肩をすくめて見せた。
「問題ないわ。アタシには仕えるべき新しい王がいるんだから」
ウォーカーは不敵に微笑み、左目を瞬かせる。確信を持ったその表情に、アルクスも軽く肩をすくめた。
「おはようございまーす!」
腹の底に響くような明るい声が聞こえる。朝から元気いっぱいのマークと、呆れた表情のホープが歩み寄って来た。マークの元気はいつでも発揮するようだ。
「今日は何かやることはありますか?」
「今日は村の周辺を探索する」アルクスは言う。「危険な魔獣がいないか、安全確認だ」
「わかりました! ではマークちゃんたちも用意して来ます!」
マークとホープが引き返して行き、ウォーカーもそれに続く。ただの村民であった彼らも、魔獣討伐に気負うことはなくなったようだ。配下の成長。それは王にとって最も喜ばしいことであった。




