第4章 手を汚す者【1】
気が付くと、暗闇の中に佇んでいた。自分の手足すら、まるでそこに存在しないかのようだ。息が詰まるほどの重苦しい闇。傀儡王でなければ押し潰されていたかもしれない。
辺りを見回すアルクスの目の前に、真っ赤なふたつの丸が詰め寄った。それが目であると認識すると、もうひとつ、真っ赤な丸が開いた。
『邪魔をするな。もう少しで上手くいくんだ』
耳の奥を貫くような不快な声が囁く。その正体は、アルクスにはすでにわかっていた。
「くだらない。私がこんなことで怯えると思っているのか」
これは呪いだ。とてつもなく重い恨み。ゆらりと影が揺れた。真っ赤な丸が眼前に迫る。だが、それはアルクスにとって意味のないものだった。
「世界王。お前の思い通りにはならない。この傀儡王がいるのだから」
『お前の存在はこの世界を狂わせる』
「私は困らない。私たちの望みはソル・フォルマ王国の滅亡。ただそれだけだ」
低い唸り声が辺りに広がる。不快な不協和音が、心臓を震わせようとしているようだった。
『お前は愛する民を失うことになる』
アルクスはいつものように不敵に笑う。ただ丸いだけの赤は彼にとって脅威ではない。彼の中の小さな肩も、もう怯える必要はない。
「私に脅しは通用しない。勝負といこうじゃないか」
怯んだのは赤い目だった。それは、アルクスの威圧が効果を発揮しない相手はいないことの証明だった。
「お前が予定調和を取り戻すのが先か、私がソル・フォルマ王国を滅ぼすのが先か」
『お前は負ける。この世界において、お前はちっぽけな存在だ』
「いいだろう、手加減はしない。私は愛する民を守ってみせる」
それは自分の中の小さな肩への約束。曲げることのない決意だ。
「話はこれでおしまいだ。せいぜい小さな庭で足掻いているといい」
ここに長居する必要はない。もうこの赤い目に用はない。この呪いにも飽きてきた。この場所は、アルクスにとって滞在する価値のない空間であった。
* * *
「――というわけだ」
朝食の席。アルクスの話を聞いたラプトールは、ただ唖然としていた。
「世界王に喧嘩を売るなんて……」
「世界王は神ではない。私に勝利できる者がいるとすれば神だけだ」
「それはそうですが……」
ラプトールはひとつ息をつき、気を取り直して顔を上げる。
「世界王も必死のようですね。この世界において、傀儡王の存在は異質です」
「結果に繋がればいいのだがな」
アルクスとしては、世界王が予定調和を取り戻すことには特に興味がない。アルクスの関心はルーメンの発展に集中し、ソル・フォルマ王国の滅亡はすでに目に見えているようなもの。世界王がどう足掻こうと、アルクスの気に留めることではなかった。
「王室はスクリプトールが生きていることを把握しているのでしょうか」
「どうだろうな。すでに関心を失っているのではないか」
遠く離れた王都からでは、この小さな村が見えることはない。ルーメンはいまだ発展途上で、村名すら知らない者がほとんどだろう。だが、それはアルクスにとって都合が良い。
「王室はいずれ、この村を無視できなくなる。傀儡がこの国を支配するのだからな」
「あの五人は付いて来られるでしょうか」
「付いて来るさ。私の民なのだから」
アルクスの従属となった五人は、能力値が各段に上がったとはいえ、ただの人間であることに変わりはない。だが、アルクスを王と仰ぐあの瞳は偽りではない。彼らはルーメンの黎明であり、希望であるのだ。
「油断していると追い抜かれるぞ」
「油断なんてしません。アルクス王陛下の右腕の座は、未来永劫、私のものですよ」
ラプトールの表情には自信が湛えられている。その様子に、アルクスは小さく笑った。
「お前は回路同調もあるしな。私が能力を取り戻すごとに反映される」
「はい。これでも陛下の地獄の訓練を耐え抜いたんです。簡単には追い抜かれませんよ」
魔力回路を結ぶ契り。アルクスとラプトールの魔力回路は繋がっている。ラプトール自身の鍛錬もあるが、アルクスの魔力を分け与えることもできる。ラプトールとあの五人の差が埋まることはないだろう。
玄関扉がノックされ、ホープが顔を出す。この村の民にノックの返事を待つ習慣はないようだ。
「やあ、ホープ。どうかしたか」
「大したことじゃないんだが……」
ホープにしては珍しく、言葉を選ぶように慎重な表情をしている。
「マークの様子がおかしいんだ。何かぼーっとして……」
アルクスから見て、マークはいつも溌剌としており、悩みなどないかのようにすら思える。子どもの頃から同じ村で暮らす友人として、ホープには気に掛かることがあるようだった。
「あいつは馬鹿正直だから隠し事ができないんだ。あんたになら、何か話すかもしれない」
「そうか。わかった。気に掛けておくよ」
「ああ、よろしく」
ホープは軽く会釈をして去って行く。いまは同じ仲間として、ホープもマークを気に掛けている。いつもと違う様子のマークを心配しているのだろう。
「ふむ……」
「どうなさいましたか?」
首を傾げるラプトールに薄く微笑んで見せ、アルクスは背もたれに体重をかける。
「事件が起きるのは今日かもしれないな」
「何か見えていらっしゃるのですか?」
「さあ、どうだろうな」
アルクスの中に湧いた感覚は、ラプトールには伝わらない。アルクスにも“見えている”わけではない。だが、この感覚が正解だと証明される瞬間は遠くないだろう。
朝食を終えると、アルクスとラプトールは開拓地の様子を見に行くことにした。ルーメンは深い森に囲まれている。アルクスは特に、領地拡大を急いているわけではない。開拓に時間がかかっても着実に進んでいればそれでよかった。
開拓班の男たちは、力強く木を切り倒している。アルクスの祝福がよく機能しているようだった。
そのそばにハンターの姿がある。開拓の様子を見ていたらしい。
「ハンター」
アルクスが声をかけると、振り向いたハンターは軽く辞儀をする。
「おはようございます。王様も様子を見に来たんですか?」
「ああ。調子はどうだ?」
「もっと時間がかかると思ってましたが、王様の祝福のおかげで順調に進んでいます」
「そうか。増員が必要なら言うように。私の祝福はいくらでも授けられる」
「はい」
アルクスを見つけて手を振る男たちは、生き生きとした表情をしている。衰退していくばかりの村で飢えて死ぬ日を待つだけだった彼らが、こうして生き甲斐を見つけた。ルーメンの発展はそう遅くないだろう。
「そうだ」ハンターが言う。「マークにはもう会いましたか?」
「いや、まだ会っていない」
「気のせいかもしれませんが、マークの様子が少し変なんです」
ハンターは考え込むように首を捻る。マークはわかりやすい性格をしているため、いつもと違う様子であることに彼らは敏いようだった。
「話しかけても上の空だし、何か考え込んでいるみたいで……」
「ホープも同じようなことを言っていたな」
「マークは普段から口数が多いから、黙っていると気になるんです」
「わかった。気に掛けておくよ」
ハンターは安堵の微笑みを浮かべる。アルクスを信頼し、どうにかできるという確信を持っているのだろう。
アルクスとラプトールは次に、泉の様子を見に行くことにした。ホープの力で再生した泉は、畑を潤わせるに充分な水を生み出している。確かな水源として安定していた。
そのそばに、ぼんやりと泉を眺める者があった。マークの兄のトマスだった。
「やあ、トマス」
アルクスが声をかけると、トマスは少し驚いたように振り向く。何か考え事をしていたようだった。
「こんにちは、王様。どこもかしこも変わっていて驚きましたよ」
「そうか」
「こんなに豊かな泉は見たことがありません。それに、民の病気が治っているなんて。ホープとイヴにそんな力があるなんて知りませんでしたよ」
マークはトマスにこの村の現状を詳しく説明したらしい。街に出ていたトマスは、衰退したルーメンのことしか知らない。その変貌ぶりは目を見張るものがあるだろう。
「マークも王様の配下になったらしいですね。マークはどんな能力を持っているんですか?」
「それはお前が知る必要はないことだ。お前は私の配下ではない」
冷ややかに言うアルクスに、トマスは少し怯んだように口を噤む。アルクスとしては、自分の配下について軽く口にするつもりはなかった。
「マークの様子がおかしいらしいな」
アルクスがそのままの口調で言うと、うーん、とトマスは首を捻る。
「そうでしょうか。確かにぼうっとはしていますが、おかしいというほどでは……」
トマスはマークと血の繋がった兄妹である。妹の機微については他の四人より敏いはずで、マークがいつもと違う様子ならすぐにわかるだろう。
「僕たちには親がいないんです。マークは何か遠慮しているときに黙っていることがあります。何か気になることがあるんでしょう」
「……マークを探すぞ」
アルクスはさっさとトマスに背を向け、ラプトールに言う。ラプトールは小さく頷き、そのあとに続いた。
「マークなら畑のほうに行きました」
トマスがアルクスの背に言う。アルクスは足を止め、ぐるりと首を回し、トマスを振り向いた。
「貴様、妙なことを考えてはおるまいな」
ある感覚のもと、アルクスはトマスに鋭い眼光を向ける。トマスは顔を強張らせつつ、首を傾げた。
「妙なこと、とは……」
「……まあいい。だが、忘れるな。お前たちの行動ひとつで、この村は一瞬にして灰になる」
「……心に留めておきます」
アルクスは目を細め、視線を戻す。これ以上、ここに留まる必要はなかった。
「何かお気に掛かることでも?」
ラプトールの問いに、アルクスは小さく息をつく。
「その答えは、マークが持っているだろう」
* * *
マークの姿は、民が明るい表情で手入れをする畑のそばにあった。ぼんやりとした表情で、何か考え込んでいるようだった。
「やあ、マーク」
アルクスの声に気付くと、マークは顔を上げる。その顔色がいつもと違うことは、アルクスにはすぐにわかった。
「何を考え込んでいるんだ?」
「……わかりません」
マークの声は小さく、いつもの快活さは失われている。自信なく俯いた表情には、困惑の色が見えた。
「あたしはおかしくなっちゃったんでしょうか……」
「何があった」
「わかりません……なんだか、頭の中がうるさくて……」
「ふむ……」
アルクスが手を差し出すと、マークは静かに手を重ねる。伝わって来るものに意識を集中し、ある確信のもと、顔を上げた。
「マーク。お前の力を開放してやる時が来たようだ」
その言葉に、マークの顔色が変わる。それは、マークが待ち望んでいたことだ。
「他の四人を集めて来い。始めるぞ」
アルクスの確信は、間もなく現実のものとなるだろう。




