雉羽小夜子の憂慮
詩音に聞いた執務室の場所は、わずかに〈十三夜〉の部屋から離れている。人の声が小さくなった通路を歩きながら、小夜子の様子を伺った。
「……」
そっと聞き耳を立ててみるも、何か話しているような声は聞こえない。よし、と意気込んで扉をノックする。……反応なし。
開けてもいいだろうか。数秒悩んだものの、ここで立ち止まっていても仕方ないという結論に達した。静かに扉を開けていく。
「――私に言えることは多くないけど、後悔しない道を選びなさい」
小夜子は受話器を手に、そんな言葉を吐き出していた。音を立てないよう室内に滑り込み、ゆっくりと扉を閉める。
「……誰か来たみたい。またかけ直すわね」
ほんのわずかな物音を察知されてしまったのか、小夜子が電話を切った。受話器が戻された後、彼女はふぅと息を吐き出す。
「入る前に声はかけてほしかったわ」
「ノックはした。一応」
肩をすくめながら言われた言葉に反論する。入室前に声をかけなかったのは事実なので、やや縮こまりながら。
無言で何かを考え込んでいる様子の小夜子を気にしつつ、室内を観察する。パソコンの設置されたデスクとオフィスチェア、それと一台の本棚。この部屋を構成しているものはそれだけだ。日々の仕事を行う場所にしてはシンプルで、言葉を選ばず言えば使用感が少ない。
そんな観察がバレたのか、小夜子がやや冷たい眼差しを向けてくる。わたしは視線を戻し、何事もなかったかのように瞬きをした。
「それで、何かあったの?」
突然入ってきて、と続きそうな問いかけに、躊躇いながら口を開く。何をすればいいかわからなくて、ともごもご答えると、小夜子の視線が和らいだ。
「あぁ……。そういえば説明だけして放り出しちゃったわね。今日は特にやるべきこともないけど、どうせなら一緒に見回りに出る?」
「うん」
やることがないとは言っても、ただぼーっとしているわけにもいかないだろう。見回りで何をするのかもわからないが、小夜子の補佐役として知っておくべきことのはずだ。
部屋を出ていく小夜子に続き、入室したばかりの執務室を後にした。
「小夜子って、運転できるんだね」
てっきり〈十三夜〉の見回りだと思っていたのだが、小夜子が向かった先は駐車場。そしてシルバーの軽自動車に乗り込み、わたしにも乗るよう促してきた。
シートベルトを締めながら思ったことを口にすると、返ってきたのは「一応ね」という軽い言葉。
「安全運転でよろしく」
「今まで無事故無違反だから、それなりに安心してちょうだい」
静かに車が発進する。過ぎ去っていく風景を助手席からぼんやり眺め、どこへ向かうのだろうと思案した。
本人が「安心して」と言うだけあって、小夜子の運転は穏やかで安全そのものだ。ともすれば眠気さえ発生しそうなほど快適で、わたしはあくびのために開いた口から「それで」と声を発した。
「わたしたちはどこに向かってるの?」
「そうね……」
小夜子の呟く声は時間稼ぎのために発されたようで、意味のあるものではない。直後、車が緩やかに減速する。フロントガラスの先を見やり、赤信号か、と納得した。
「目的地は神薙神社。〈月神祭〉の中心となる儀式を執り行う場所よ」
「そんな重要そうなところ、気軽に入れるとは思えないんだけど」
首を捻ると、小夜子は「その通り」とこともなげに同意してくる。それなら行く意味がないのでは、と思っているのを見透かされたのか、ふっと息を吐き出す音が耳に届いた。
「でも、その『気軽に入れない』という油断が命取りになるかもしれない。私たちがいるのはそういう局面よ。わかるでしょう?」
「……」
同意を求められたものの、どう返していいかわからない。無言を貫いていると、小夜子が小さく笑う。
「まぁ、あなたが知ってても知らなくても事実は変わらないわね。とりあえず、許可は得ていることだけわかってもらえればいいわ」
車が左折し、参道にほど近い駐車場で停まる。サイドブレーキまでしっかりかけた小夜子がシートベルトを外すのを見て、わたしもそれに倣った。
石畳の参道を歩きながら、立ち並ぶ店を見る。古風な茶屋や土産物屋だけではなく、若者に人気のスイーツとやらの店もあった。
「なんというか……意外かも」
「歴史を守りながら、新たな風も取り入れる。ここは昔からそういう考えの土地よ」
どこか自慢げな小夜子の案内で近くの茶屋に入る。この店の二階からは、神薙神社の本殿周辺が一望できるらしい。人影のない社殿を眺めながらほうじ茶をすすった。
「見ず知らずの人間を拾ったって聞いたときはどうなることかと思ったけど……」
「……千秋たちのこと?」
聞こえてきた言葉に反応する。小夜子は頷き、神妙な顔をした。
「予想できてるとは思うけど、大崎の兄妹とはそれなりに関わりがあるわ。それでも『拾った人間』……つまりあなたの情報はほとんど入ってこなかった。あの子たちが自棄になって組織を壊すつもりなら、私はどうしても止めないといけない」
どこか遠くを見つめていた小夜子の目がわたしを射貫く。その視線は鋭いが、敵意のようなものは感じられない。
「もし音島さんが〈九十九月〉にとっての敵なら、大崎の二人と一緒に私も裁かれる。……信じてるわよ」
きっぱりと言い放ち、小夜子は湯飲みを手に取った。