新田紗栄の嘆息
馴染み深い場所なのに、どうしてわたしは地図を貰ってきたのだろう。無用の長物でしかない紙を手にしたまま、喫茶店〈オアシス〉の扉を開く。
「お久しぶりですね、音島さん」
昭人はまるでわたしの来訪を予期していたように悠然と微笑んだ。相変わらず、普段は余裕に満ちすぎて胡散臭く感じてしまう。
「久しぶり。今日は紗栄と話したいんだけど、もう来てる?」
紗栄は現役の高校生だ。平日にシフトがあるときは学校が終わってから働いているので、日によって――学校の都合で――店に到着する時間が若干変わる。
昭人によると、どうやら今日はもう到着しているらしい。紗栄は百と一緒に仕事の支度をしているところだとか。少し時間を貰えないか、重ねて尋ねる。
「なんというか、そちらは相当大変なことになっていそうですね。新田さんご本人に許可を得てくれれば構いませんよ」
「わかった」
改めて許可を貰ったわたしは、休憩スペースで紗栄を待つ。数分もせずやってきた少女の顔を見て、久しぶり、と片手を上げた。
「……音島さん」
「少し話したいことがあるんだ。紗栄さえよければ、時間をくれない?」
「別に構いませんけど、あたしにできることなんて何もありませんよ」
既に葵から話を聞いていたのだろうか、紗栄が肩をすくめる。態度に不安はあるものの、時間を得られたのは事実。わたしは彼女を正面に座らせた。
「とは言っても、伝言を頼まれただけ。武文が『話がある』って言ってた」
「あの人が……」
武文の名前を出した途端、紗栄は考え込むようにうつむく。しばらくして考えがまとまったのか、顔を上げて「わかりました」と声を発した。
「今の時点であたしが把握していることを、音島さんに伝えておきます。それを行村……武文さんに伝えるかどうかはお任せしますが」
その発言に、わたしはすぐさま頷く。紗栄の家庭環境があまりよくないことは以前耳にしていた。その「家庭」が新田派とイコールなら、彼女のためにもどうにか改善したい。
わたしの決意を知るはずもない紗栄が「あたしの家は昔から〈五家〉の護衛をしてたんですけど」と切り出した。
「長男……あたしからすれば兄ですね。そいつは自分が『仕える立場』だということが気に食わなかったみたいで、昔から〈五家〉を憎んでいました」
「……質問していい?」
紗栄が頷き、こちらの質問を促す。かなり突っ込んだことを聞いてしまうが、彼女は不愉快にならないだろうか。わずかに不安を抱きながら口を開く。
「そんなに護衛が嫌なら新田家から抜け出せばいいと思うんだけど、もしかしてそういうことは駄目なの?」
家を出ても連れ戻されてしまうのなら、くすぶりながら新田家の人間として動くしかないだろう。
その可能性を恐れた問いかけに、紗栄は難しい顔をした。
「無理……とは言いませんが、かなり厳しいかと。鍛錬とかは厳しいですが、実際いい暮らしはしてるんで」
「どういう意味?」
「贅沢を知った人間は、それがない生活に耐えられないってことですよ。兄は浪費家だし」
紗栄がさらりと毒を吐くなり「続けていいですか」とこちらに視線を向ける。わたしは無言で頷き、続きを待った。
「つまり、その環境から抜け出す努力もしないくせにふんぞり返りたい兄は、どうにか〈五家〉を乗っ取る方法を探してるんです」
「それが、当主のすげ替え……ってこと? 簡単にできるとは思えないけど」
現実味の薄い策略だ。紗栄もすぐさま同意し、何考えてるんだか、と重いため息をつく。
「あんなのと血縁ってだけで嫌になる。まぁどうしようもないし、榛の人たちにはそれなりの恩があるんでちゃんと守りますよ」
「ごめんね、面倒を任せることになって」
「いいですよ。そもそもあたしに話が来る時点で相当緊急事態だし」
できる範囲のことはします、と紗栄は苦く笑う。やはり〈五家〉というか、異能者の周囲は厄介な出来事がつきものなのかもしれない。わたしも彼女に苦笑を返した。
「兄は目立ちたがりだから、事件を起こすなら大きなイベントに被せてくると思います。近いうちにあるものだと〈月神祭〉とか」
「初耳のイベントだ」
心に浮かんだままを口にすると、紗栄は「知らない人、初めて見たかも」と目を丸くする。そういえば記憶喪失の話はしたことがなかったな、と思い返しながら、わたしは「教えて」と頼んだ。
「観月の国を作り出したとされる祭神に感謝を告げる……って儀式が本来の〈月神祭〉です。最近は儀式より周囲でのライブイベントなんかが主役になってますけどね」
「その祭りで〈五家〉も何かやるの?」
「はい。儀式を執り行う神社では『人々の幸福』についての演説も行われます。そこに〈五家〉の当主様方が登壇されるので」
「そっか」
そこまで大きな祭りだと、小さなトラブルでも騒ぎになるかもしれない。だというのに、起きるかもしれないトラブルはとんでもなく大きなもの。
この情報を〈五家〉の面々に伝えれば、未然に回避できるのでは。差し込みつつある光に安堵して、わたしは紗栄の話を聞き続けた。