挨拶、見極めと離別
一日の仕事を終え、わたしと幸花は〈新月〉の部屋へと戻る。遅い時間のせいか、室内にはほとんど人がいなかった。
「大体帰った後か。なら都合がいい」
幸花が大きく伸びをしながら言う。わたしには「都合がいい」理由が思い当たらず、首を傾げて「どういうこと」と返した。しかし返事はないまま――部屋の奥でタブレット端末と向き合っていた男が顔を上げる。
「心変わりする気はない、ってことでいいのか」
「あぁ。アタシは今回の護衛を終えたら〈九十九月〉を出ていく。それ以降は異能のことにも関わらない」
「……そうか」
短い沈黙の後、男は静かに頷いた。幸花とこの男の間に何かしらの関係があることは理解したが、そもそもこいつは何者だ。
相当怪訝な顔をしていたのだろうか、幸花はわたしをちらりと見て「変な顔するなよ」と笑った。
「こいつも〈新月〉の人間だから。……行村、こいつは音島律月。噂の新入りさ」
ほら、と背中を押され、わたしはよろめきながら前に出る。幸花に「行村」と呼ばれた男は、こちらを一瞥すると「あぁ」とも「おぉ」ともつかない声を上げた。
「話には聞いていたが……なんというか、普通だな」
「期待に応えられなくて悪いけど。幸花の紹介通り、わたしが音島律月だよ」
この組織内でどんな「噂」が広まっているのか。気になりながら名乗ると、男はばつの悪そうな顔になる。直後、小さな声で「すまない」と謝罪が返ってきた。
「他意はねぇんだ。気分を害したなら悪かった」
「別に怒ってるわけじゃない。それであんたは……行村、って呼ばれてたけど?」
暗に名前を尋ねたことに気づいたらしい。男は数回咳払いをして口を開く。
「俺は行村武文。〈新月〉所属、主に雉羽家の護衛をしている」
「行村……っていうと、行村派ってやつ?」
「覚えてたのか。意外と記憶力あるんだな」
幸花の失礼な発言は聞かなかったことにして、わたしは行村に向き直る。こいつは敵か、それとも味方になりうる存在なのか。きちんと見極めなければならない。
「幸花はああ言ってるけど、正直よくわからない。どうして護衛するのは一緒なのに、派閥争いなんて起きるの?」
この質問に、男はどんな答えを返してくるのだろう。それによって判断しようと、わたしは固唾を呑んで行村の動向を見守った。そして数秒後、何とも形容しづらい顔をした彼が口を開く。
「派閥の考え方の違いだ。お前は〈五家〉の方々をどう見る?」
「どう、って言われても……わたしたちと変わりない人間でしょ」
「そうだな。だが、この組織には『信仰対象』と見る奴も、はたまた『金のなる木』と見る奴もいる。……これでわかったか?」
かなり抽象的な説明だったものの、どうにか行村の言いたいことを把握できた、はずだ。今までの話も含めて考えると、恐らく〈五家〉を「金のなる木」として見ているのが新田派だろう。真砂派は元々〈五家〉だったことを考えると、彼らが「信仰対象」とするとは思えない。そうすると。
「まさか行村派は……〈五家〉を信仰の対象として見てるの?」
恐々と尋ねると、正面の男は無言を返してきた。その態度は、どう考えても「否定」のものではない。ぞくりと背筋に走ったのは、恐怖か嫌悪か。短く息を吐いて、嫌なものを振り払う。冷静さを失うな、と自分に言い聞かせながら。
「じゃあ、もう一つだけ質問させて。あんたは〈五家〉をどんな存在だと思ってる?」
「……」
行村――と呼ぶのはややこしいか。武文と呼ぼう――は言ってはいけない何かを飲み込むように、口を薄く開けてはぐっと閉じるを繰り返す。それでもじっと答えを待っていると、彼は意を決したように「俺は」と声を発した。
「あの方々は、守るべき大切な存在だと考えている。……一般的な『幸せ』を享受できるよう、守っていくのが俺たち〈新月〉の役目だ、と」
「そっか」
その答えを聞いて、わたしは警戒を解く。〈五家〉も同じ人間だと理解しているのなら、もし正しくない行いがあっても諫められるはず。そんな安心感があった。
「あんたの考えはわかったし、それを聞けて安心した。わたしも同じように考えてるから、あんたとわかり合えそう」
「そうか。なんか偉そうな口調なのが気になるが」
細かいことを気にする武文はさておき、わたしはしばらく黙っていた幸花に視線を向ける。視線に気づいた彼女はスマホから顔を上げ、ポンとわたしの肩を叩いた。
「こいつは行村派の坊ちゃんだけあって、アタシよりも〈五家〉とかこの組織のことに詳しい。何かあったらこいつに聞いてみな」
「その言い方やめろ。……で、お前が俺を呼びつけた理由は? 大体いつも通りだろうが」
派閥同士は対立しているものの、幸花と武文の間に険悪な雰囲気はない。この二人が変わり者なだけだろう、とどうでもいいことを考えながら、話をぼんやりと耳に入れる。
「まぁそうだな。お嬢の様子、何か変わったか?」
「大きな話は何も聞いてねぇよ。変わらず喫茶店で店員やってるし、こっちに来る気はなさそうだってことくらいだな」
「……わかった」
幸花は不服そうな顔で頷いた。それ以上話すことはなかったのか、気づけば武文も幸花も帰宅の準備を始めている。
わたしは「お嬢」という存在が気になりながらも、二人の邪魔をしないよう黙ったまま準備に移った。明日にでも聞けばいいだろうと、忍び寄る睡魔の攻撃を噛み殺す。
しかし、翌朝――桐嶋幸花が〈九十九月〉に出向いてくることはなかった。