狼
何か、生き物の鳴き声が聞こえて、シンクは肩を強張らせた。
(来ちゃったわね……。)
痛い等とは言っていられない。
顔を顰めながらも、慌てて、鳴き声のした方へ、身体を向けた。
一匹の狼がいた。
サルファディアの内に現生する狼に比べると、随分小さく、口を閉じてしまえば見えなくなるほど、牙も小ぶりに思えた。
サルファディアの狼は、もっと大型で、剣歯虎の様に巨大で鋭い立派な牙を持っていた。
ただし、毛並みに関しては、茶地に灰をまぶしたような斑色のサルファディアよりも、此方の狼の方がしっかりとつくろわれた銀毛で比べるのもおこがましい程、美しかった。
狼と目が合って、すぐに手元の剣を構えた。
最期の最後まで、シンクは足掻くつもりである。
いずれどこかで、何かとは戦う事になるのではと、予想は出来ていた。
じっと狼を見つめるシンクは、やはり何か憑き物でも憑いているのか、勝つつもりで狼を睨みつけている。
それを受けた狼もシンクを見つめていた。
こちらは、よく見ればその尻尾は振られており、その瞳に敵意のような物は無い。
ただ、シンクにその事を気付く余裕は無かった。
狼は暫くそうしていると、くるりとシンクに背を向けた。
(え……?)
その背中は隙だらけであり、絶好の好機に見える。
ただ、ここからの間合いでは、剣から随分遠かった。
いそいそと立ち上がって、痛む足を引きずりながら斬り掛かっても、余裕をもって躱される未来が容易に想像できた。
シンクを尻目に、狼はウオーン!と大きく遠吠えてから、ウォル! ウォル! と虚空に向かって鳴き声を上げた。
そして、鳴き終わると、再びシンクの方へ向き直って、彼女の事をまた、じっと見つめていた。
そして、暫く。
(ああ、やられたわ)
一匹、また一匹と、シンクを囲うように狼達が増えて行った。
今しがたの遠吠えは、仲間を呼ぶ為の物であったのだ、シンクはようやく理解した。
一匹狼という言葉は、広く一般的に知られている言葉ではある。
ただ、実際の狼は群れに生きる動物であった。
5匹、6匹と狼は数を増やしていく。
シンクに戦う気があるのならば、もっと数が少ない内の方が良いのは理解している。
しかし、自身の身体事情から、迎え撃つ形で戦うつもりでいたシンクには、最早どうしようもなく、彼女に出来る事は、肌を泡立てて事態を見ている事しか出来なかった。
最終的に、狼は8匹まで増えていった。
シンクの心は折れず、何とか生き残る事を諦めずにはいた。
しかし、彼女の中に居る冷静な自分が、現実的に考えて、流石にだめらしいと、そんな事を伝え始めていた。
((((((((……。))))))))
(……何?)
だが、不思議な事に狼達は、何時まで経ってシンクに襲い掛かってくる事は無かった。
囲われているため、脱出口は存在しないが、にじり寄るでもなく、一定の距離をとって、何であれば緊張感無く欠伸をしている者もいた。
ずっと構え続けている剣を持つ手も、次第に痺れが走り始めた。
シンクの考えでは、当の昔に彼等は襲い掛かってきているはずであった。
彼女も本音を言えば、一対一であっても、勝利できるかは分の良い賭けではないと思っていたのに、それが一対八である。
結果は火を見るよりも明らか、だがそれでも、一太刀も当てれば何か変わるかもしれない。
そう思って剣を構え続けているのだ。
(くっ!! ダメよ! 一体何なの!? 私を襲うつもりなんじゃないの? もう十分でしょ? まだ何かを待っているの?)
決して賢い選択とは思えないが、自らの愚かは今更である。
シンクはこのまま留め措かれるくらいであるならば、いっそ逆上して、此方から動いてやろうかと、そんな事を脳裏で考え始めた。
何かを待っているのならば、それで相手の目論見は崩せるはずである。
シンクが目を細める。
そうした、その時。
不意に八匹の狼たちの内、数匹が後ろを振り向いて、吼え立てたのだ。
一人の男が、ゆっくりと歩いて現れる。
狼の内一匹が、男の足元まで駆けてゆき、ワオンと吼える。
すると男は、眉を顰めてから、狼の方を向いて「フン」と答える様に鼻を鳴らした。
シンクには、それがまるで会話をしている様に見えた。
男は、そのまま、狼達に並ぶまで歩いて、立ち止まると視線をシンクに移した。
20代中程か、シンクよりは年上に見える。
少し癖のある常盤色の髪を、額が見えるくらいに大きく中分けにしており、そこから覗く男の顔は精悍で鋭く、野性味のある顔立ちをしていた。
シンクに狼と男の関係性は解らない。
しかし、シンクは人も狼と共にいると、顔もその様になるのかも知れないと、そんな場違いな感想を心の中で抱いた。
最初にシンクを見つけた狼が、男の足元まで寄って言って、トントンと鼻ずらで突き、それから再びシンクの方を向く。
男はそちらを一瞬一瞥した後、シンクに向かって眉を顰めて声を掛けて来た。
「お前さん、こんな所で何してんだ?」
此処なしか、あまりいい感情のこもっていない気配があった。
(……何って。)
シンクはむっとした。
彼が人に化けた魔物で無いのならば、流石にこのままシンクを狼の餌にするという事は、無いはずである。
故に、彼が現れた時、シンクは一瞬、状況に光明が見えたかも知れないと期待したのだ。
しかし、狼に囲まれて武器を構える若い女、後ろには壊れた荷車、これらを見て、遊んでいる様に見えたというのか。
そんなわけはない。
だというのに、眉を顰めて何をしているんだ? とはどういう事か。
(それとも、私が知らないだけで、山脈の向こうの狼は、人を襲わないとでもいうのかしら? 小さいから、もしかして……いや、それだと狼じゃなくて、犬でしょ? ああ!! もう、訳が分からないわ!)
一瞬で色々な事を考えて、自分でも良く分からなくなったシンクは、結局、他に言い方があるだろうと。
助けてくれるかもしれない相手に、思わず険のある言葉を放ってしまった。
「怪我をして、動けないのよ。遊んでいる様に見えたかしら?」
言ってから、内心、しまったと後悔した。
しかし、狼達が、何故か男を前足で殴りつけた(?)後、ヴヴ!! っと唸り声を上げると、男は一瞬目を見開いて、バツが悪そうに頭を掻いた。
「ああ……そうか。すまない。」