かえってきたシルキーちゃん
「――末姫様、その娘をよく使ってくださいませ」
「ええ、もちろんですとも」
娼館の裏口まで出てきて、深々と自分に頭を下げてくる娼館の女主人に、シャルロッティは鷹揚に頷いた。
自分は脳筋次兄や怠けたがりの従兄とは違うという、懇切丁寧な説明――もとい、娼婦見習いの身請け交渉が上手くいき、シャルロッティは達成感でいっぱいである。
気分が高揚していたので、シャルロッティは、今なら何が起こっても、広い心で許せそうな気がするほどだ。
顔を上げた女主人は、お義姉様に似たひどく柔らかな笑顔で、シャルロッティの傍らに立っていた娘の頬を撫でる。
娘の額から口の端に至る傷跡に触れぬよう、紅く塗られた長い爪の先で新たな傷を作らぬように、慈しんで。
「元気になさい、イリニ」
女主人の言葉に、娘の黄金色の双眸が潤み、けれど、瞬いた睫毛の先に雫はない。
女主人よりも、少しばかり背の高い娘は、どこか惜しむように己の育ての親を見下ろした。
「――今まで、ありがとうございました」
「――うわぁっ?!
はい、なんですかスカーさんっ?!!」
恋愛小説なら読者の感動を期待するところの別れの場面は、馬車が跳ね上がる大きな音と、素っ頓狂な少年の悲鳴でぶち壊しになった。
瞬間的にしぼんだ広かった心で、シャルロッティは、イラッとしつつ現場に目を向ける。
そこにあったのは、伏せから勢いよく立ち上がったらしいドデカワンコと、彼女が曳いていた馬車の横で棒立ちになった、シャルロッティの護衛騎士の姿だ。
シャルロッティが雇うことになった元娼婦見習いと御揃いで、顔に傷跡がある淑女ワンコは、ぴんと立てた両耳を忙しなく動かしている。
神の犬の先祖返りたる獣の、平素は穏やかな紫の瞳に見据えられ、なぜかアレスが、ドデカワンコに対してビシッと敬礼していた。
それから、アレスは、わたわたとドデカワンコが身に着けていた馬具を外しだす。
そんな、自分の護衛騎士のよく分からない行動に、シャルロッティは首を傾げた。
――これは、スカーの対人能力が優れているのか、アレスが従者として成長したのか、どちらなのだろうか?
「スカー、どうしたのだ?」
不思議そうな顔をした次兄が、自分の愛犬の方へ歩き出す。
そして、なんとなしに次兄を見送ろうとしたシャルロッティは、よろよろふらふらと屋根を移動する、汚れた毛玉を発見することになったのだ。
「……シルキーちゃん?」
「――ぬ?!
シルキー、自力で師匠を撒けたのだなっ!」
自分で愛犬を戦闘狂の囮にしておいて、シルキーちゃんが自力で戦闘狂から逃走したのを喜ぶなんて、次兄は人としてどうかと思う。
三階建ての娼館の屋根から、ぼてっと落ちてきたふわもこワンコは、息も絶え絶えな有様で次兄の下へと辿り着く。
「大丈夫なのか、シルキーっ?!」
あ、あるじ、じ、じぶん、がんばりまし、――た……
「シルキーっ?!!!」
慌てる脳筋の腕の中で、シルキーちゃんは、(おそらく)儚げな笑みを浮かべ、こてっと気絶した。
見るからに疲労困憊の上に、ふわふわモコモコだったはずの毛皮は埃だらけ泥まみれ、一部なぞむしられた様に地肌が露出していて、シルキーちゃんが不憫すぎる。
こんな状態になっても、薄情な主人の腕の中で安心したように意識を飛ばすなんて、シルキーちゃんはどんだけ健気なのだろう。
音もなく動いたドデカワンコが、主人に抱えられたズタボロワンコを、労わるように舐めた。
可哀想な子にも優しい、とことん淑女なドデカワンコの姿に、シャルロッティは胸が詰まり、思わず両手で口元を押さえる。
昔のお義姉様と同じく、がんばった子ががんばった分だけ報われない現実の理不尽に、シャルロッティは泣きそうになった。
こんなことが起きない為に為政者はあるべきなのに、シャルロッティは、脳筋も戦闘狂も手に負えない。
――ぃ~~~~~ぁ~~~~~~~ん――
なんだかどこかで聞き覚えがあるような木霊がした。
空耳にしたくてもできないそれに、シャルロッティは死んだ魚の目になる。
うん、知ってた。
神獣の血を引いているぐらいで、ふわもこメルヘンなシルキーちゃんが、魅惑の毛皮に魅了された戦闘狂を振り切れるわけないって……。
ゆっくりと顔を上げた次兄の双眸が、怒気を孕んで金色に輝く。
「……師匠、よくもシルキーをいじめたな……」
いや、次兄よ、シルキーちゃんで戦闘狂を足止めしたのは、貴方でしょう。
だが、シャルロッティには、次兄に突っ込みを入れるよりも大切なことがあった。
「――逃がしませんっ!!」
「いってぇっ?!」
シャルロッティは、面倒ごとからとっととズラかるべく、自分に背を向け走り出そうとした従兄の膝裏に、持っていた扇で突きを放った。
そして、狙い通りに転倒した従兄に飛びつき、背中に膝蹴りを食らわせた後、がら空きだった片腕を抱えて、全身の力でねじり上げる。
「いででででででっ?!
やめろちびっ子関節極めんな妹になに教えてんだのうきん~~~~っ!!!」
「レヴァン、貴方は子爵のくせに、か弱い婦女子を安全な場所まで送り届ける気概はないのですかっ?!」
「それ子爵関係ねぇし俺とお前のか弱いの定義違うわぁっ!!!!!」
地面に転がり、切れ気味でシャルロッティを振り仰いだ従兄は、王家と同じ薄い琥珀色の瞳を、金色に輝かせる。
王位継承権を持つ者以外に凄まじい威圧感を与える眼光に、しかし、シャルロッティは何にも感じないので、関節技を繰り出している細腕に力を込めた。
スカーが戦闘状態に移行してしまったので、シャルロッティ達には、レヴァンの馬車以外、速やかにこの場から移動するための手段がないのである。
なお、末姫様は、騎士団長直伝の護身術を習得した、やればできる子だ。
それゆえ、シャルロッティ(十二歳)が、自分よりもどんくさい従兄(成人男性)を制圧するのは、不意を突けば割と簡単なことなのだ。
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*アレス君的ワンコ番付*
末姫様(姫様怖い)
↑
スカーさん(怒らせるとかムリっ!!)
↑
(超えられない壁)
↑
大公家以外のワンコ(みんな賢いよね)
↑
シルキーちゃん(癒し)
↑
ユニ(チビなのになまいき……)
*番外*
団長のお馬様(今度一人で遭遇したら、死んじゃうと思う……(泣))
※戦闘狂と同格です