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第1部:真夏の氷見とハットリくん

 第1章:墓参り


 タクシーが、古い町並みの残る路地で停まった。降りると、むわっとした熱気と、潮の香りが二人を包む。目の前には、年季の入った木製の看板に「比留間米穀店」と書かれた、懐かしい店構えがあった。ガラスの引き戸の向こうには、米袋が整然と積まれている。

「ごめんください」

隼人が、少しだけ張りのある声で呼びかけると、店の奥から「はーい」という返事と共に、一人の男が顔を出した。

 日に焼けた、人の良さそうな顔立ち。隼人より十ほど年下の、伝助の倅・丈太郎じょうたろうだった。

「おお、隼人さん!よう来られました!」

「丈太郎くん、ご無沙汰だね。変わりないかい」

「ええ、なんとか。遠いところ、いつも、ありがとうございます、……え~と、そちらの方は?」

丈太郎は、にこやかに智仁を見ながら会釈すると、「ああ、店の常連なんだがな、何でかついて来てね…」智仁を見ながら「気にしないでくれ、只のはらへりだ!」

「そんな言い方~」ニヤニヤしながら言い返した。二人を店の中に招き入れた。店先から続く居間は、ひんやりとしていて、線香の香りがかすかに漂っている。奥の仏間に、伝助の遺影が飾られていた。頑固で、それでいて優しい眼差しは、生前のままだった。

「これ、札幌の、いつものやつ」

隼人は、持ってきた白い恋人の箱を差し出す。丈太郎は「いつもすいません」と恐縮しながら、「親父が何故か気に入ってたんですよね」とそれを受け取った。

 丈太郎に促されるまま仏間の前に座ると、慣れた手つきで線香に火を灯し、りんを一つ鳴らした。目を閉じ、静かに手を合わせる。三十年前の、暑い夏の日々が、まぶたの裏に甦るようだった。(親方、また来ましたよ。あんたの教えのおかげで、なんとか札幌でまだ店をやってますよ。)心の中で、そう報告した。

「それにしても、今年の夏は異常ですね。富山も、観測史上最高の暑さだとか」

居間の畳に座り、丈太郎が汗を拭いながら言う。

「札幌も、過ごしやすいなんて言えたもんじゃないですよ。蝦夷梅雨なんて言葉ができるくらいですから」

他愛もない会話を交わしていると、丈太郎の妻である和美が、冷たい麦茶を盆に乗せて運んできた。

「まあ、隼人さん、いつも遠いところを。何もお構いできませんけど、ゆっくりしていってくださいね」「ありがとう和美ちゃん」

その時、壁にかけられたテレビが、昼のニュースを伝えていた。画面には、氷見市潮風ギャラリー(藤子不二雄Ⓐアートコレクション)の外観が映し出されている。

『昨日未明に発生した盗難事件で、警察は、犯人がプロの窃盗団である可能性も視野に、捜査を進めています』

「やだわぁ、物騒な。この町で、そんな事件が起きるなんてねぇ」

和美が、眉をひそめて小さく呟いた。

その時だった。店のほうから「ごめんくださーい」と、女性の声がした。

「あら、山下さん」

和美が店先に出ると、近所に住むという、ふくよかな体型の奥さんが立っていた。

「和美ちゃん、いつものお米、五キロお願いできる?重たいから、また後で、うちまで届けてもらえると助かるわぁ」

「はいはい、分かりました。いつもありがとうございます」

奥さんは、世間話でもするように、声を潜めて続けた。

「それにしても、藤子先生のギャラリー、大変なことになったみたいねぇ。ただの絵じゃなくて、なんでも、先生がすっごく大事にしとった、特別なものが盗まれたって、もっぱらの噂よ。警察も、それで血眼になっとるらしいわ」

その会話が、居間に座る隼人の耳にも、かすかに届いていた。

(大事なもの…?)

ただの窃盗事件ではないのかもしれない。隼人の探偵の勘のようなものが、わずかに疼いた。

「大将~」

智仁の、間の抜けた明るい声が、隼人の思考を中断させた。

「親方はどんな方だったんですか?」麦茶を飲みながら素朴に聞いている

「まあ、堅物だったが、人情味があり食へのこだわりが半端ない人だったよ、俺もかなりドヤされたな」

隼人は遠くを見るような眼差しで懐かしい笑みを浮かべていた。

「へ~、大将でもあったんすね~!」

しばらくして、何となくそわそわしてた智仁が、「大将!」今度は威勢よく

「この後、どこか美味い魚、食わせてくれるんですよね!?俺、もう、腹ペコで限界っすよ!ほらっ腹直筋が緩んできてる!」

「…ああ、分かった分かった」

隼人は、苦笑しながら立ち上がった。今は亡き師匠の墓参りの前に、この食いしん坊な男の腹を満たすのが先決だ。

ほんの少し感じた胸のざわつきを、夏の暑さのせいだろうと、隼人は無理やり自分に言い聞かせた。


 第2章:至福の時間と消えた絵


 比留間米穀店を後にし、墓参りに行く前に港へと続く道を進んだ。智仁は、窓の外を見ながら腹を空かせた子供のように、腹をさすってる。

タクシーを降りて数分も歩くと、視界が開け、陽光を照り返してきらめく氷見の海と、多くの漁船が停泊する漁港が姿を現した。その一角に、昔ながらの「大漁」と書かれたのぼりがはためく、小さな飯屋があった。隼人が、修行時代によく通った店「氷見灘ひみなだ」だ。

店に入ると、「いらっしゃい!」という威勢のいい声と、魚を焼く香ばしい匂いが二人を迎えた。

「親父さん、ご無沙汰。いつもの、まだあるかい」

「おお、伝助の!久しぶりじゃねえか。当たり前だ、おめえらのために、一番いいとこ取っといたわい」

白髪頭の頑固そうな親父さんは、隼人の顔を見るなり、ニヤリと笑った。

数年に一度は墓参りついでに寄るので、いまだ顔なじみである。

 二人がカウンターに座ると、何も言わずとも、目の前に「本日の日替わり定食」が運ばれてきた。それは、まさに氷見の海の幸を凝縮した、宝石箱のような献立だった。

まず、メインの皿には、大ぶりのフクラギ(ブリの若魚)(関東はイナダ)の塩焼き。皮はパリッと香ばしく、身は驚くほどふっくらとしていて、箸を入れると、じゅわっと上質な脂が溢れ出す。添えられているのは、大根おろしと、すだち。

小鉢は三つ。一つ目は、朝獲れのバイ貝の旨煮。甘辛い出汁が、コリコリとした身の奥まで染み込んでいる。二つ目は、透き通るような白エビの刺身。とろりとした甘みが、舌の上でとろけていく。そして三つ目は、ゲンゲの煮付け。深海魚であるゲンゲは、見た目こそグロテスクだが、その身はプルプルとしたコラーゲンの塊で、煮付けると極上の味わいになる。

そして、何よりも目を引くのが、白米だ。艶々と輝く、炊き立てのコシヒカリ。比留間米穀店から仕入れている、日本一の米。

味噌汁は、豆腐とワカメというシンプルさだが、出汁には焼いた魚の骨が使われており、深いコクと香りが立ち上る。

「う…美味い!美味すぎる!大将、俺、ここに住みます!」

智仁は、目を輝かせながら、夢中でご飯をかき込んでいた。その食べっぷりに、店の親父さんも、満足そうに目を細めている。

「おお!達者で暮らせ…」にこやかに言ってやった。

隼人は、ゆっくりとフクラギの身をほぐし、白飯と共に口に運んだ。変わらない味。

 親方、比留間伝助に連れられて、初めてこの店の暖簾をくぐった、三十年前の記憶が鮮やかに甦る。

懐かしさと、極上の海の幸に舌鼓を打ちながら、二人は、しばし至福の時間を過ごした。

極上の漁師飯に、智仁はもちろん、隼人も心の底から満足した。これほどまでに美味い魚と米が、この氷見にはある。だからこそ、師匠の伝助は、この地を離れなかったのだろう。

「ごちそうさん、親父さん。また来るよ」

「おう、いつでも来い!」


 満腹になった二人は、飯屋の親父に見送られ、再びタクシーに乗り込んだ。

「運転手さん、光禅寺こうぜんじまでお願いします」

光禅寺は、氷見の市街地にある曹洞宗の名刹めいさつであり、藤子不二雄Ⓐ先生の生家としても知られている。比留間家の墓は、そのお寺の墓地の一角にあった。タクシーを降りると、すぐ近くには、今朝ニュースで見た「潮風ギャラリー」のモダンな建物が見える。

蝉の声が降り注ぐ中、二人は静かな墓地を進んだ。手入れの行き届いた「比留間家之墓」の前に立つと、隼人は持参した花を供え、桶から汲んだ水で墓石を清めた。智仁も、その間、神妙な面持ちで手を合わせている。

隼人が束になった線香に火をつけ、香炉に立てる。ふわりと立ち上る白い煙が、夏の青空にゆっくりと溶けていった。

(親方、味のルーツを思い出しましたよ)

心の中で、そう報告し、静かに手を合わせた。智仁も、その隣で深々と頭を下げている。


 その、静寂を破るように、突然、寺の本堂の方から、慌ただしい複数の足音と、切羽詰まったような大きな声が響き渡った。

「大変だ!」「見つからんか!」「一体どこへ!」

ただ事ではない気配に、隼人と智仁は顔を見合わせた。寺の境内が、にわかに騒がしくなっていく。何人かの作務衣さむえを着た僧侶たちが、本堂や庫裏くりせわしなく出入りしているのが見えた。

「…何かあったみたいですね」

智仁が呟く。お節介と、ほんの少しの好奇心。隼人は、手を合わせたままだった姿勢を崩すと、騒ぎの中心である本堂の方へと、ゆっくりと歩き出した。

 本堂の入り口近くで、若い修行僧が、年配の僧侶に何か必死に報告している。その顔は、真っ青だった。

「どうかなさいましたか」

隼人が、落ち着いた声で、近くの若い修行僧に問いかけた。

修行僧は、見知らぬ男に声をかけられ、一瞬戸惑ったような顔をしたが、尋常ではない事態に、それどころではないようだった。彼は、早口で、半分パニックになりながらこう言った。

「絵が…!大事な絵が………..」

そう言うと、修行僧は「探さねば!」と叫び、隼人の横をすり抜けて、境内を走り去ってしまった。

(絵…?大事な、絵…?)

隼人の脳裏に、テレビで見た、潮風ギャラリーの盗難事件のニュースが、鮮やかにフラッシュバックした。

近所の奥さんが言っていた、「先生がすっごく大事にしとった、特別なものが盗まれた」という噂話も。

 ただの偶然か。それとも、二つの「絵」の消失は、どこかで繋がっているのか。

夏の陽ざしの下、線香の香りが漂う静かな寺で、隼人は、またしても厄介な事件に出くわしてしまったかもしれない…。


 第3章:若き日の再会


 寺の境内は、依然として騒然としていた。これ以上、部外者が立ち入れる雰囲気ではない。

「大将、どうします?」

「…行ってみるか。もう一つの『現場』に」

光禅寺を後にし、隣接する「潮風ギャラリー」へと向かった。

建物の前は、想像以上の混乱状態だった。規制線を張られ、警察官、カメラを構える報道陣、そして、遠巻きに様子を伺う野次馬たち。夏の暑さも相まって、むっとするような熱気が渦巻いている。

「こりゃ、すごい人だかりですね」

智仁が呆れたように言う。その時、隼人の目が、規制線の内側で、険しい顔で指示を飛ばしている一人の刑事に釘付けになった。歳の頃は五十代半ば。日に焼けた精悍な顔つきに、見覚えがあった。

(…湊さんか?)

みなと刑事。三十年前、隼人がこの氷見で修行していた頃、伝助の営む漁師飯屋の常連だった男だ。当時はまだ、交番勤務の若い巡査で、夜勤明けによく、腹を空かせて店にやって来ては、伝助の作る定食を美味そうに頬張っていた。

 だが、今の彼は、現場を仕切る指揮官だ。軽々しく声をかけられる相手ではない。

隼人はしばらく躊躇したが、意を決して、声をかけた。

「湊さん!」不意に声を掛けられ、どこから掛けられたのか分からず、辺りを見渡した。

「湊さん!」軽く手を挙げて、バツが悪そうにしながら「すいません」

湊が怪訝そうな顔をして近づきながら「誰だい?忙しいんだが」

「覚えてませんか?「伝助亭」に居たの隼人です」

「伝助亭?親父さんの…..!あの弟子やってた!」と言って、急にテンションが上がったが、咄嗟に辺りを見て声を潜め「懐かしいな~どうしてここに?」顔は打って変わって和やかな愛嬌のある顔になった。

「親父さんの墓参りに来てたら、何やら騒がしくて、どうしたんです?」

懐かしい再会も束の間、湊はすぐに刑事の顔に戻った。

「…済まないが、捜査上のことは話せん。それより、せっかく再会したんだ。今夜、一杯どうだ?昔話でもしようや」

湊は、そう言うと、一枚の名刺を隼人に手渡し、足早に現場へと戻っていった。


 一旦旅館に戻り、その夜。

二人は、湊が指定した、港近くの小さな居酒屋の奥にある半個室で、二十年以上ぶりに向かい合っていた。智仁は、店の主人に勧められるまま、地元の銘酒と新鮮な刺身に舌鼓を打ってニコニコしている。

お互いの三十年間を、ぽつりぽつりと語り合った。隼人が札幌で店を出したこと。湊が、所轄の刑事を経て、警部になったこと。

 そして、隼人は、湊の人柄を信じ、札幌で経験した、いくつかの「探偵みたいなこと」を、かいつまんで話した。料理人としての観察眼が、警察が見落とした真実を暴いたこと。警視庁の本郷管理官と、奇妙な協力関係にあること。

荒唐無稽な話のはずなのに、湊は、黙って真剣に耳を傾けていた。

「…そうか。あんたは、昔から、人の心の機微を読むのが上手かったからな。伝助の親父さんも、よく褒めてたよ」

湊は、熱燗を一口飲むと、観念したように口を開いた。

「分かった。信用しよう。ただし、ここだけの話だ」

湊は、声を潜めて、二つの盗難事件の概要を語り始めた。

「まず、ギャラリーで盗まれたのは、藤子Ⓐ先生の『笑ゥせぇるすまん』の、未公開のセル画だ。それだけじゃない。その裏には、先生の直筆で、ある人物に宛てた、個人的なメッセージが書かれていた。そして…」

湊は、さらに声を低くした。

「お隣の光禅寺で盗まれたのは、一冊の原作画だ。藤子Ⓐ先生の中学時代に書いた漫画らしい、そして、奇妙なことに、その原作画が保管されていた桐の箱からも、ギャラリーの展示ケースからも、犯人の指紋は一切検出されなかった。まるで、幽霊にでも盗まれたようにな」

二つの、異なる「絵」の盗難。

謎めいたメッセージと、原画。そして、痕跡を残さない犯人。

隼人は、氷見の夜の闇が、自分が思っていたよりも、ずっと深く、複雑な色合いを帯びていることを感じていた。


 第4章:意外な落とし物の散歩道


 湊との再会と、事件の思わぬ深さに、隼人の頭は珍しく興奮していた。居酒屋を出た後も、その余韻は続いていたが、隣で満足そうに腹をさする智仁の顔を見ると、自然と笑みがこぼれた。

翌朝。まだ薄暗い午前五時。

 智仁が、旅館の部屋で豪快ないびきをかいているのを尻目に、隼人はそっと布団を抜け出した。旅先でも、早起きは長年の習慣だった。ひんやりとした朝の空気を吸い込むと、昨夜の酒と、事件のことで少し重たくなっていた頭がすっきりと冴えていく。

 隼人は、宿から歩いて数分の距離にある「比美乃江公園」へと、足を向けた。

氷見漁港に隣接するその公園は、広々とした芝生と、海に突き出た展望台が特徴的な、市民の憩いの場だ。朝靄のかかった海は、鏡のように静まり返っている。その穏やかな水面に向かって、数人の釣り人が、等間隔に並んで静かに釣り糸を垂れていた。

 隼人は、その中の一人、人の良さそうな初老の男性の隣に立ち、邪魔にならないように声をかけた。

「おはようございます。釣れますか?」

男性は、ちらりと隼人を見ると、「おう、おはようさん」と短く返した。

「まあ、ぼちぼちやな。昨日の夕方までは、アジがよう釣れとったんやけど、今朝はさっぱりや。潮が変わったんかねぇ」

男性の足元にあるクーラーボックスを覗くと、十数匹の銀色に輝くアジが、氷水の中で眠っていた。

「アジか。美味そうだね」

「ここのアジは、身が締まっとって美味いぞ。たたきにしても、なめろうにしても最高や。まあ、今日は、キスでも釣れりゃあ御の字やな。あそこの船の通り道の駆け上がりに、でかいのが潜んどるんやけど、なかなか口を使ってくれん」

男性は、海の一点を指差しながら、長年の経験で得た知識を披露してくれた。隼人は、そんな他愛もない会話を楽しみながら、しばらく朝の海を眺めていた。

 公園を後にし、少しだけ足を延ばして「ひみ番屋街」と呼ばれる場外市場へ向かう。まだ観光客もまばらな時間帯だが、いくつかの鮮魚店や干物屋は、すでに仕入れや準備で活気に満ちていた。

乾物屋の店先で、煮干しの出汁の匂いをかいでいると、後ろから不意に声をかけられた。

「よう、伝助の!」

振り返ると、そこにいたのは、昨日、昼飯を食った港の飯屋「氷見灘」の、あの親父だった。片手に、発泡スチロールの箱を抱えている。どうやら、仕入れに来ていたらしい。

「親父さん、おはよう。精が出るね」

「当たり前だ。客にまずいもんは出せんからな」

親父は、にこやかに言う。

「散歩かい?」

「ああ、早起きは日課なんでね、風に当たりたくてぶらぶらと、考え事もしたくてね」

体を伸ばすようにしながら、少し思いつめたような表情を見て

「なんだ、悩み事か?」

昨日の寺騒動やギャラリーの件を大雑把に話した。

聞き終わると「そういえば……」何か思い当たるように

「昨日のおめえらが帰った後だよ。夜、うちの店に、見慣れねえ客が二人、入ってきてな。常連じゃねえ、よそ者だ」

親父さんの目が、鋭く光る。

「カウンターの隅で、こそこそ、妙な話をしとった。酒が入って、少し声が大きくなってな。俺の耳にも入っちまったんだ」

「妙な話?」

「ああ。『絵は手に入れたが、肝心のメッセージがさっぱり分からん』だの、『あれだけじゃ、場所の特定は無理だ』だの…。藤子先生のギャラリーの事件があったばかりだ。気味悪くてな」

隼人の心臓が、ドクンと大きく鳴った。

「親父さん、そいつらの顔、覚えてるかい?どんな風貌だった?」

「うーん…」親父さんは、腕を組んで唸った。「顔つきまでは、はっきりとは覚えとらん。二人とも、帽子を目深にかぶっとったしな。ただ…」

親父さんは、記憶の糸を手繰り寄せるように言った。

「ただ、二人の言葉が、奇妙な訛りだったな。富山の人間じゃねえ。かと言って、東京の言葉でもねえ。もっと北の…そう、東北の方の訛りだった」

東北訛りの、二人組。

絵のメッセージが分からない。

そして、場所の特定。

犯人グループの一員であることは、ほぼ間違いない。

隼人は、氷見灘の親父に丁重に礼を言うと、急いで旅館へと戻り眠っている智仁を叩き起こし、すぐに湊警部に連絡を取らねばならない。

事件の輪郭が、そして、犯人たちの姿が、朝靄の向こうから、少しずつ、しかしはっきりと見え始めていた。


 第5章:二つのメッセージ


 旅館に戻った隼人は、まだ大いびきをかいている智仁を叩き起こした。

「おい、起きろ!事件に進展があったかもしれん!」

寝ぼけ眼の智仁に、氷見灘の親父から聞いた話を掻い摘んで説明し、すぐさま湊警部へと電話をかけた。

『――東北訛りの二人組、か。貴重な情報だ、感謝する』

電話口の湊の声は、緊張を帯びていた。「すぐに、管内の宿泊施設と、交通機関の監視カメラを洗わせてみる。何か分かったら、また連絡する」

「よろしくお願いします」


 ギャラリーから盗まれた『笑ゥせぇるすまん』の未公開セル画。そして、寺から盗まれた、未発表の原作画。二つの盗難は、やはり、明確に繋がっていた。犯人たちは、藤子Ⓐ先生の、世に出ていない作品だけを、狙っている。

 電話を切った後も、隼人の胸の高鳴りは収まらなかった。いてもたってもいられない。何か、自分にもできることはないか。しかし、自分はただの部外者だ。

もどかしい思いが、部屋の中をぐるぐると渦巻いていた。

「…大将、行ってみましょうよ。お寺に」

それまで黙って話を聞いていた智仁が、言った。

「いてもたってもいられないなら、じっとしてるよりマシです。何か、俺たちにしか見つけられないことがあるかもしれないじゃないですか」

その、ある意味、単純明快な言葉に、隼人は背中を押された。

 二人は、再び光禅寺へと向かった。

昨日とは違い、境内の騒がしさは落ち着いていたが、本堂の周りには数名の警察官が立ち、鑑識作業が続けられているようだった。しかし、一般の参拝客の出入りは、特に制限されてはいない。

 隼人は、本堂の入り口で、修行僧の姿を探した。幸いにも本堂の隅で、ほうきを手に、ぼんやりと立ち尽くしていた。

「あのう、ちょっと聞きたいのだけど」

隼人が声をかけると、修行僧は力なく返事した。

「はい、なんでしょうか?」

「昨日の騒動の絵は見つかりましたか」

「それが…」修行僧は、悔しそうに唇を噛んだ。「警察の方が、懸命に調べてくださっていますが、まだ、何の手がかりも…。まさか、あの宝物庫から盗まれるなんて」

「宝物庫?」

「はい。本堂の裏手にある、古くからの土蔵です。ご住職と、ごく一部の者しか、鍵の場所は知りません。その宝物庫の、一番奥に、桐の箱に入れて、大切に保管してあったのですが…」

修行僧の話によると、宝物庫の鍵は、こじ開けられた形跡がなかったという。犯人は、まるで鍵の場所を知っていたかのように、易々と侵入し、目的の原作画だけを盗み出していった。そして、他の高価な仏具などには、一切手を付けていなかった。

「よほど、その絵に価値があったということか…」

隼人が呟くと、修行僧は、何かを思い出したように、ハッとした顔をした。

「そういえば、一つだけ、奇妙なことが…」

「奇妙なこと?」

「はい。原作画が入っていた桐の箱。その蓋の裏に、ご住職が、何かを鉛筆で書き写していたような、薄い跡が残っていたと、鑑識の方が言っていました。文字なのか、絵なのか…それすら分からないような、微かな跡だったそうですが…」

 蓋の裏に残された、微かな跡。

それは、犯人が見落とした、唯一のメッセージかもしれない。

隼人は、修行僧に丁重に礼を言うと、その場を離れた。

事件の霧が、少しだけ晴れた気がした。だが、同時に、謎はさらに深まっていく。

なぜ、犯人は、二つの未発表作品だけを狙ったのか。

そして、その絵に隠された「メッセージ」とは、一体、何を示しているのか。


(第1部了)

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