第5話 最期のショッピング(1)
大学生の夏休みと言えども、遊んでばかりはいられない。休み明けの9月には前期期末テストがあるし、テストの代わりにレポートを提出させる教授が居るからだ。
で、ボクは、その内の1つ、レポートを書いていた。午前中の涼しい内にレポートを書いて、午後はのんびりと過ごす。あんまり暑い時は、喫茶店やファーストフード店で過ごすこともある。とは言っても、この夏はまだ喫茶店にもファーストフード店にも、香が居るから行ってないけど……。
とにかくレポートを早く片付けて、美紀と楽しい夏休みを過ごすのが楽しみなんだ。
だけど面倒臭いことに、レポートは手書きのみを受け付けて、ワープロで印刷した物は受け付けない。一時はメールでの提出も受け付けていた教授らしいんだけど、他人のレポートをコピーして提出する学生が増えたんで、手書きのみにしたらしい。まあ、パソコンを持ってないボクには、関係ないけどね。
そんな勉強熱心なボクの前で、寝っ転がりながらテレビを見ているのが香だ。
朝食の後片付けが終わると、やることがないのでゴロゴロしながらテレビを見てる。こっちはレポートを書いていると言うのに、横でテレビを見られるのは気が散って仕方ない。とは言っても、食事の用意や後片付けをしてくれるんで、文句も言えない。
しばらくおとなしくテレビを見ていた香が、急に起き上がるとちゃぶ台の上に顎を載せて、甘えた声で言った。
「ねえ、貴司。ショッピングに行こ」
「…………」
無論、ボクは無視する。
今はレポートを書いている最中だし、何と言っても、明日は美紀の誕生日で服でも買ってやろうと思っているから、デパートへは明日行く予定なんだ。無論、香を連れて行く予定はない。
しかし、ボクの目論みを知ってか知らずか、香はとんでもないことを言った。
「別に、今日行こうって言うんじゃないわよ。明日行こうって、言ってるの。明日、美紀ちゃんの誕生日でしょ? 美紀ちゃんと一緒に、ショッピングに行こうよ」
「…………」
無視だ。明日は、美紀と2人っきりでデートするんだから。
最近香のせいで、美紀と2人っきりでデートすることが殆どないんだ。だから明日こそは、美紀と2人っきりでデートするんだ。
だけど、更に香は爆弾発言をした。
「いいもん。貴司が行かなくても、あたしは美紀ちゃんと約束したから、2人でショッピングに行くもんね。でも、姉弟でショッピングもしたいなって、思うのよねぇ」
「ちょっと待て! 明日は、ボクと美紀がショッピングに行く約束をしてるんだぞ」
まさか、美紀はボクとの約束を忘れてるんじゃないだろうな。
「だから、3人で行こうって言ってるの」
香は立ち上がるとボクの後ろに回って、背中から抱きついてきた。
ちょっと待て、オッパイが背中に当たってるぞ。
だけど香は、そんなことは気にしていないのか、甘えた声でボクの耳元で囁いた。
「ねえ、お姉ちゃんも、一緒に連れてってぇ。姉弟でショッピング、してみたいのぉ。ねぇ、お願い」
「…………」
ダ、ダメだ。香の色香なんかに負けないぞ。でも、ちょっと気持ちいいかも。
「それとも、お姉ちゃんのお願いは聞けないって言うの?」
「…………」
「……やっぱり、貴司はお姉ちゃんのこと、嫌いなんだ」
肩に載せている香の顔を見て、ボクはドキリとした。香が泣いていたんだ。
女の子を泣かせたことのないボクは、心底慌てた。いや、焦ったと言った方がいいかもしれない。
「わ、判ったよ。明日、3人でショッピングに行こう。だから泣くなよ。なっ」
ボクがそう言って頭を撫でてやると、香は笑みを浮かべて頷いた。
「うん」
うっ、ちょっと可愛いかも。
いや、ダメだダメだ。ボクには美紀と言う、可愛い恋人が居るんだから。
その日の夕方、ボクはバイトに行く途中、香と本当に約束したのか真偽を確かめるべく、美紀に電話をした。
「美紀。明日、香とショッピングに行く約束したって、ホント?」
「したわよ。いけなかった?」
美紀の答えを聞いて、ボクは心の中で舌打ちをした。香の言ったことが嘘だったら、明日のショッピングには香を連れて行かないつもりだったんだけど、そうもいかなくなったからだ。
「なんで約束なんかしたんだよ。だいたいそんな約束、いつしたんだ?」
「この間、香さんの看病に行った時よ。香さん、姉弟らしいことをしたいって、寂しそうに言ってたから。つい……」
美紀の声は、どことなく沈んで聞こえた。やっぱり、ボクとのデートを反故にしたのを、後悔しているんだろう。
仕方ない、ここで美紀を責めてもどうにかなるものでもないし、ボクも約束してしまったんだから美紀を責められない。
「まあ、約束してしまったものは仕方ないよ。ちょっと残念だけど、明日は3人でショッピングに行くってことで、いいかな?」
「ええ、いいわよ。貴司、ごめんね」
本当に済まなさそうに言う美紀に、ボクは明るい声で言った。
「そんな、謝らなくたっていいよ。また今度、2人っきりの時間を作ればいいんだから。それよりも明日、10時に駅の改札口で待ち合わせ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。貴司も、遅刻しないでよ」
美紀の声は、いつもの明るい声に戻ったけど、ボクをからかっているように聞こえるのは気のせいか?
「大丈夫。多分、遅刻はさせてもらえないから」
「え、どう言うこと?」
「香に、朝早くから起こされそう。でなければ、小学生の遠足の前の晩みたく興奮していつまでも眠れなくて、結局寝坊して遅刻するかのどっちかだよ」
「うん。貴司なら、寝坊してもおかしくないわね」
美紀は、何を根拠にしたのか判らないけど、しっかりと断定した。
「違う違う。眠れなくて寝坊するのは、香だよ」
「えー。なんか、想像できないなぁ」
なんで想像できないんだ? あの歳で、香ほど子供っぽいヤツを、ボクは他に知らないぞ。
「どうしてだよ?」
「だって香さんって、大人の女性って感じで、そんな子供っぽいことするとは思えないんだもの」
「は――――ぁ」
思わず、溜息が出てしまう。
美紀は、香のことを判ってない。あいつの何処をどう見たら、大人の女性に見えるんだ? どう見たって、子供じゃないか。
「溜息なんかついちゃって、なんだって言うのよ」
「美紀は、香の本性を判ってない。根は、子供だよ」
「えー、そうかなぁ? とっても魅力的な女性だと、私は思うんだけどなぁ。憧れちゃうもの」
「いや、そんなことないよ。ボクの姉貴だって言い張ってるけど、妹だって言われた方が、まだ納得できるくらいなんだから」
「ふーん。ところで、こんな時間にこんな長電話してて、バイトの方は大丈夫なの?」
「ヤバイ! じゃあ、明日10時だぞ」
ボクは電話を切ると、慌ててバイト先に向かって走った。
バイトから帰ると、ボクはもうグッタリしていた。
今夜は、妙に忙しかった。金曜日でもない平日でこんなに忙しかったのは、この間の傍若無人大学生事件を除けば、春以来だ。
春は、卒業や転勤の送別会に、新歓コンパや新入社員歓迎会の2次会なんかで、やたらと忙しかったけど、今夜はそんな理由もなく忙しかった。
「今夜は、なんか凄く疲れてるみたいね」
香はそう言って、ボクの前に缶ビールを置いてくれた。
この暑さで疲れて帰ってくると、もう何もする気が起きない。それでも缶の周りにびっしり付いた水滴を見ると、自然と缶ビールに手が伸びる。
カシュッ。
プルトップを開けると、ゴクゴクと喉を鳴らしながらビールを飲む。
「は――――――――――ぁ。うまい!」
まるでテレビCMみたいなことを言って、ボクはビールを飲み干した。それと同時に、玉のような汗が吹き出してくる。
「ホントに、美味しそうに飲むわねぇ」
「そんなことないよ。香ほど、美味しそうには飲んでないよ」
呆れたように言う香に、ボクは反論した。香の場合、ビールのCM制作会社の人が見たら、絶対にCM出演させたくなるほどの飲みっぷりだもんな。
「あたしも飲みたくなっちゃった」
香はそう言うと、冷蔵庫から缶ビールを2本出してきて、その内の1本をボクの前に置いた。
カシュッ。
香も、ゴクゴクと喉を鳴らしてビールを飲み始めた。
「う―――――ん、美味しい」
やっぱり、ビールを飲んだ時の香は、いい顔をする。
ボクは2本目のビールを口にすると、ボンヤリとそんなことを思いながら香を見つめる。
なんだかこうしていると、香が本当の姉貴に思えてくる。本当の姉貴が生きていたら、こうやって一緒にビールが飲めたのかな?
そんなことを思うと、ちょっとだけ切なくなった。こんなことを思ってみても、どうにもならないのにな。
「なに、人の顔ジロジロ見てるのよ」
ボクの視線に気がついたのか、香が頬を膨らませて言った。
「あ、いや、なんでもない。……酔いが回ったのかな?」
香と目が合って、照れ隠しに残りのビールを飲み干す。
なんだか、ホントに酔いが回ってきたみたいだ。
「悪い、酔いが回ったみたい。もう、寝るわ」
ボクはそう言って立ち上がると、自分の布団を敷き始めた。
「そうね。明日は早いんだから、早く寝た方がいいわね」
香もそう言って、さっさとちゃぶ台を片付けて布団を敷いた。
「じゃあ、おやすみ」
ボクはパジャマに着替えるのももどかしく、電気を消して布団に入った。
汗を掻いたままだけど、いいや。朝、起きてからシャワーを浴びよう。
暑くて寝苦しいはずなのに、この時ばかりはすぐに寝入ってしまった。
しばらくして、ボクは人の気配で目が覚めた。
まだ外は暗く、台所の擦りガラス窓から差し込んでくる街灯の明りで、部屋の中は目を凝らせばかろうじて見えるくらいだ。
ボクは人の気配の方を向くと、そこには誰かが立っていた。
この部屋には、ボク以外には香しか居ないから、きっと香だろう。トイレかな? なら、寝たフリをしといてやろう。
ボクがそのまま寝たフリをしていると、香が突然話し掛けてきた。
「ねえ、貴司。起きてるんでしょ?」
「…………」
なんのつもりか判らないので、取り敢えずまだ寝たフリをしておく。
「あのね、一緒に寝てもいいかな?」
「!」
香の言葉に、ボクは息が止まるほど驚いて、心臓がパクついてしまった。
「返事がないのは、いいってことかな?」
香はそう言って、近付いてきた。
ボクは心底慌てた。
目を見開いて見上げると、そこにはパジャマ代わりのワイシャツを着ただけの香が立っていた。
「ちょ、ちょと待て」
ボクは身を引くと、香を押し留めようと叫んだ。
「やっぱり、起きてたんだ」
「起きてたんじゃなくて、起こされたんだよ。……じゃなくて、香と一緒になんか寝られるか!」
「え、どうして?」
暗いから香の表情は見えないけど、声の調子から寂しそうなのは判る。
「当たり前だろ。見ず知らずの男女が1つの布団で寝るなんて、常識的に考えたらおかしいだろ」
「おかしくないわよ。だって、あたし達は見ず知らずの男女じゃなくて、姉弟だもん。それにこの間、貴司と美紀ちゃんが1つの布団で寝ているのを見たら、美紀ちゃんが凄く羨ましくなって……。あたしも生きていたら、あんな風に貴司と寝ることもあったのかなって思って……」
「…………」
ボクは、一瞬言葉を失った。
お酒を飲むのと寝ることの違いはあるけど、ボクもついさっき似たようなことを思っていたからだ。
「やっぱり、ダメかな? 貴司には美紀ちゃんが居るから、こんなこと言われても迷惑なだけだよね。ごめんね」
香はそう言って振り返ると、自分の布団に入ろうとした。
「いいよ」
香の寂しそうな後ろ姿を見たら、ボクは自分でも気がつかないうちに口走っていた。
「一緒に寝よう」
そう言うと、タオルケットを上げて香を招いた。
「ホント?」
「ああ。その代わり、一緒に寝るだけだぞ」
「うん」
香は嬉しそうに頷くと、ボクの布団に入ってきた。
身体をボクの方に向けると、ボクの顔を覗き込んできた。
「ありがとう」
言うが早いか、香はボクの頬にキスをした。
「!」
ボクはカチンコチンに固まると、もうどうしていいのか判らなくなった。香が何を考えているのか、全く判らなくなったんだ。でも、その呪縛もすぐに解けた。香の寝息が、聞こえ始めたからだ。
「まったく、驚かすなよなぁ」
第5話の始まりです。年頃の男女が1つの布団で寝て、何も起こらないのだろうか?そして、ショッピングは無事に済むのだろうか?隆司がヘタレでなければ、波乱の予感。さあ、どうなるか?




